2.湖の伝説
翌朝早く目覚めた僕は、真っ先に湖に出掛けて行った。まだ朝もやが残っている湖畔は人気もなく静かだった。
湖を囲んでいる山のひとつ、賤ケ岳は戦国時代に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家の決戦の舞台として有名だが、今はその血生臭い戦場の名残は全くなく、湖はただひそやかに水を湛えているだけである。
朝霧が残る湖畔の道を、僕は軽くジョギングしながら進んで行った。周囲六キロ程のこの湖は、一周するのもさほど難しくはない。しばらく走り続けた後、僕は一休みしたくなり足並みを緩めた。すると視線の先に、見慣れない物があるのに気付いた。
そこは薄暗くて何となく荘厳な雰囲気のある場所だった。
そして少し高くなった所には、四角く玉垣で囲われた黒い物体があった。
(あれは一体何だろう?)
恐る恐る近づいてみると、それは大きな石だった。そしてその周りは注連縄で飾られていた。
(という事は、これはご神体か何かなのかな?)
そう思って周囲を見回してみると、石碑のような物が建っているので近づいてみた。するとそこにはこんな文字が刻まれていた。
菊石姫と蛇の目玉石
仁明天皇の頃、この地に住む領主、桐畑大夫に菊石姫という娘があった。
姫はある年、干ばつに苦しむ村人を救わんと余呉湖に身を投じ、蛇身となって雨を降らせた。
もう人間には戻れぬ姫は、長年世話になった乳母に疫病の薬にと、蛇の目玉を抜き取り、湖中から投げ与えた。
目玉は石の上に落ち、その跡を残したので、以来、この石を「蛇の目玉石」と言う。
また姫が枕にして休んだといわれる「蛇の枕石」は南側にある、椎の老木の下にある。
干ばつの年、この枕石を地上にあげ雨を乞うと、不思議に雨が降ると伝えられている。
「ふうん、余呉湖にこんな伝説があるなんて知らなかったな。天女の羽衣伝説は有名だから知ってたけれど…
それにしても、目玉石とは変わってるよなあ」
僕はつぶやきながら、もう一度その石をよく観察してみた。すると石の一部には確かに、凹んでいる所があった。
一方、もう一つの枕石のほうは湖底にあるため、確認することは出来なかった。
(しかし、村の人々を救うために自ら身を投げるなんてな。しかも自分の目玉まで差し出してしまうなんて…)
僕は静かな湖面を見つめながら、心優しい菊石姫の事を想った。そして持っていた龍笛を取り出して、即興で鎮魂の曲を奏でたのだった。
帰宅した僕は、早速おばあちゃんにこの話をしてみた。すると直ぐにこんな返事が返って来た。
「ああ、菊石姫ね?あの話は余呉の村では昔から語り継がれている話なんだよ。私も幼いころはよく聞かされたものだよ。
『余呉湖には龍神様が棲んでいる』ってね?」
「え、龍神?蛇じゃないの?」
蛇だとばかり思っていた僕は声を上げた。するとおばあちゃんは笑って説明してくれた。
「おや音弥、お前は知らなかったのかい?龍のもとの姿は蛇なんだよ。蛇が化身して神に仕えるものとなったのが、龍なんだよ」
そうとは知らなかった。
「それじゃあ菊石姫は、龍神様になったってこと?」
再び声を上げた僕に、背後から入って来たおじいちゃんが答えた。
「わしらはそう信じとるよ。この辺りに昔から住む人も、そう信じている人が多いな」
「ふうん、龍神様かあ?あ、そういえば昔から、龍は水の神様って呼ばれているよね?」
「その通りじゃ。だから水の近くにある神社には、大抵龍神様が祀られているんだよ。ほれ、お隣の琵琶湖に浮かぶ竹生島にも龍神様が祀られておるじゃろ?」
そこで僕は大きく頷いて言った。
「そうか、それで段々わかってきたぞ。伝説にある菊石姫は、人々を干ばつから救うため自ら身を投じて、水の神である龍になろうとしたんだね?」
「ああ、そういう事じゃ。伝説によると、姫が祈りを捧げて龍の姿になったあと間もなく雷鳴が轟いて、大雨が降ってきたという事なんじゃよ。」
「ふうん、それはまたスゴイ話だよなあ…」
僕はそのドラマチックなシ-ンを、容易に想像する事が出来た。
「それともうひとつ、目玉石のことなんだけどね?」
「え?おばあちゃん、まだ何かあるの?」
興味をそそられた僕は、身を乗り出して聞いた。
「確かあの石碑には書いていなかったと思うんだけど、菊石姫が乳母に投げ与えた目は、片目だけではなく両目だったんだよ」
「そ、そうなんだ?」
僕はてっきり片目だとばかり思っていたので、驚いて尋ねた。おばあちゃんは続けた。
「そう、初めは片方だけだった。でもそれでめでたしと言う訳にはいかなかったんだよ。龍の目玉には神通力と呼ばれる不思議な力があり、病気を治したり色々な良いことを招く力を持っていた。その噂がたちどころに広まって、遂にお上の耳に届いてしまった。するとお上はこう命じた。
『龍の目玉なら、もうひとつあるであろう?その乳母とやらにもう片方の目も差し出すように伝えよ。』とね?」
「ええ?それはヒドイよ。だって残酷過ぎるじゃないか?」
「ああ、そうとも。もちろん乳母はそんな事は出来ないとすぐに反論したんだよ。そうしたらお上は激怒して、渡さなければ乳母を火責め水責めにあわせると脅したんだ。そこで哀れな乳母は仕方なく湖に行くと
『菊石姫、菊石姫!!』
と声を限りに泣き叫んだ。すると俄かに水が波立って、中から菊石姫が姿を現した。
『何事ですか?』と尋ねる姫に、乳母は
『姫の両目を差し出さなければ、私は火責め水責めにあってしまいます。』
と訴えた。これを聞いた姫は、しばらく考えた後にこう答えた。
『あなたへの養育の恩は深い。しかし両目を失うと、私は時刻を知る事が出来なくなってしまう。だから私の父に、湖の四方に堂を建て、時を知らせる鐘をつくようにと頼んで下さい。』
そう言い終えたのち、姫は残ったもう片方の目を引き抜いて、乳母のほうに投げつけた。それは湖のそばにあった石にぶつかって、跡をつけた。
これが目玉石の本当のいわれなんだよ。更に枕石のほうは、姫がもう片方の目を止む無く引き抜いたときに近くにあった長い石に身を横たえて、痛みが治まるのを待ったのだという言い伝えがあるんだ。姫は
『これからはもう、私を呼んではなりません。もし会いたくなったら、この石を見なさい』
この言葉を言い残した後、湖中深く沈み消えて行ってしまったという。
それ以来村の人々はその石を、蛇の枕石と呼んで大切に守っているんだよ」
「そうじゃ、そうして菊石姫はその後、湖の神として祀られることになった。今でも毎年四月には、湖神祭が行われているんじゃよ。」
(そうだったのか…?)
今まで知らなかった菊石姫の物語を全て知った僕は、姫の痛々しいまでの深い愛情と優しさにますます心を奪われて行った。
それから僕は毎日のように湖に出掛けて行き、目玉石の前で龍笛を吹くのが習慣となった。そこに立って演奏すると何故か心が安らいで、演奏会の曲目も集中して練習する事が出来た。
そうこうするうちに日々は飛ぶ様に過ぎて行き、気が付くと帰京する日が間近に迫っていた。
いつの間にか季節は夏から秋へと移っており、ピンクや赤の可憐なコスモスが湖畔に揺れているのが目立つようになった。
余呉の風光明媚で静かな環境の中で過ごす事により、僕の疲れた心と身体はすっかり癒されて、来た時とは全く違う晴れやかな気分となっていた。しかしその一方では、慣れ親しんだこの湖と別れるのが辛くてたまらなかった。
ある日の夕暮れ、そんな複雑な思いを抱きながらぼんやり湖を見つめていると、おじいちゃんが声を掛けて来た。
「音弥、どうした?ぼんやりして。明後日にはもう東京に帰るんじゃろ?」
「うん、そうなんだけど僕、何だかここを離れるのが辛くなってきちゃって…」
正直に答えると、おじいちゃんは僕の背中をポンポンと叩いてこう言った。
「そうか?それは嬉しいことを言ってくれるな。だがお前には大切なお役目が待っている。そうじゃろう?今頃東京では、お前の父親がいつ戻って来るかとさぞかし気をもんでいる頃じゃろうからなあ?」
親父の話がそこで急に出て、僕の身体は一瞬で凍りついてしまった。それとともに、あの耳の痛い説教の言葉が蘇って来た。
「音弥、そうじゃない!それでは繊細過ぎる。もっと想像力を働かせて力強く龍の舞を表現してみなさい!」
そうなのだ。僕は未だに肝心な龍の動きを掴み切れていないのだ。何度頭の中でイメージしてみようと試みても、大空を舞う龍の動きなど、とても想像する事など出来なかった。僕は二日後にはまた繰り返されるであろう親父の小言を想像して、ため息をついた。