長崎に遊学している竜之介から、近江の長浜の橘良房(たちばなよしふさ)のもとに手紙が届いたのは、1719年(享保四)の陰暦八月初めだった。
 対馬(つしま)の藩儒である雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)が、第九次の朝鮮通信使を江戸まで護行するという知らせだった。
 朝鮮通信使とは、江戸幕府の慶事や将軍の代替わりごとに日本を訪れ、朝鮮国王の国書を携えてくる外交使節団であり、それは「通信」、信(よしみ)を通わすことを目的とした。
  1592年(文禄元)と1597年(慶長二)の二度にわたる日本の朝鮮半島への侵攻により、隣国は焦土化し多くの人々が命を失った。この戦(いくさ)によって途絶えていた両国の交わりが、徳川家康の和平の提議をきっかけに回復した。朝鮮通信使を迎えることは幕府にとって「将軍一代の盛儀」であり、国を挙げて迎接した。江戸時代の通信使の来日は十二回。その平和外交の交渉役を担ったのが対馬藩だった。
 1711年(正徳元)第八次の通信使の折、対馬と江戸の往復路を、芳洲は真文(しんもん)役(外交文書の扱いと使節の応接)として一行に随行した。
「ふるさとの私どもに一言知らせてくださればよかったものを」
 その時、良房は無音(ぶいん)のまま近江を通り過ぎた芳洲を恨めしく思った。一方で己を誇らず公私の区別に厳しいところが彼らしい、と良房は受け止めもした。
 1716年、吉宗が新しく将軍職に就(つ)いた。恒例に従い数年のうちに朝鮮国からその襲位(しゅうい)を慶賀する使節団がやってくる。そうなれば、芳洲は必ずやその随行に加わり、再び近江の地を通るにちがいない。良房はそう確信した。
「雨森芳洲殿は、そなたの亡き父の幼友だちだった方だ」
 良房は孫の竜之介が長崎へ医学を学びに旅立つに際し、対馬藩にいる雨森芳洲について、どんな些細なことでも報(し)らせるよう言い含めておいた。今、その吉報が届いたのだ。

 良房は長浜で医師をしていた。号は良庵(りょうあん)。もとは同じ湖北にある雨森(あめのもり)村の出で芳洲(ほうしゅう)の家とは縁戚関係にあった。雨森では寺子屋を開き、村の子どもたちに読み書きを教えていた。その寺子屋で、幼少の頃芳洲は良房の息子の良継(よしつぐ)と一緒に机を並べ学んだのだった。
「利発で、ものごとをしっかり考え抜く子だった」
 良房は我が子と共に芳洲の行く末に期待を寄せた。だが芳洲一家は事情があって雨森村を出て、京都に落ち着いた。それからほどなく良房一家も長浜へ移った。離ればなれになっても両家は、手紙のやり取りを続け近況を伝え合った。芳洲は、はじめ町医者をしていた父親の跡を継ぐべく医学を学んだ。しかし彼は悩んだ末に、儒学の道を選んだ。芳洲は十八歳の時、江戸へ出ることを決意した。長い冬が過ぎた浅春のある日、住みなれた京を後にした。江戸に向かう途次、芳洲は長浜の良房のもとを訪ねた。幼少の友であった良継が妻帯して一年も経たぬうちに急死した、との訃報を良房から受け取っていたからだ。
「よくぞ参られた」
 良房は亡きわが子の竹馬の友の訪宅を殊のほか喜んだ。
「一粒種(ひとつぶだね)を残してくれたのがせめてもの良継の親孝行」
 良房の後ろで赤子を抱いた良継の若妻が、その撫で肩をふるわせていた。目元の涼しい少女が座敷にお茶を運んできた。その挙措の美しい乙女が、雨森で一緒に遊んだ良継の妹と気付き、芳洲は青年の頬を染めた。
「田舎暮らしで世間の狭い小夜(さよ)に、京の都の話でもしてやってくだされ」
 芳洲は旅装を解き、良房邸に一宿お世話になった。夜話に良房は芳洲に、今後の身の処し方についてたずねた。
「これから江戸へ下り儒学について研鑽を重ね、ゆくゆくは儒者として身を立てたいと思っております」
 きっぱりとした口調だった。
 芳洲は当時評判の名医について学んだが、身近な手本は町医者をしていた父親だった。
 長患いをしていた呉服屋の主人が何度か医者を変えた末に、最後に頼った父親の治療によって快癒した。それからというもの、その恩義を忘れず呉服屋は毎年盆暮れの付け届けを欠かさなかった。貧しさに往診を受けられずにいた長屋へは、父親は無償で施療し処方した薬を届けた。人の命を救うことの尊さを、芳洲は父親の背中を見て学んだ。しかし、洛中に流行病(はやりやまい)が蔓延した折、父親の患者だった幼子が薬石の効なく夭折した。患家の若い父母の悲しみを受け止めかねるかのように、父親は重い足取りで帰宅したことがあった。その後も幾多の診療の中で己の無力に、深夜行灯(あんどん)も点さず端座していた父親の孤影を、芳洲は寝床から見つめることが一再ならずあった。
 芳洲はその父親と昨年死別していた。寝食を忘れ患者に接してきた長年の無理がたたったのか、父親は病に伏してまもなく不帰の客となった。
 良房は家族同然の縁者として、故人から生前遺言ともいうべき私信を受け取っていた。
「どうか愚息の相談にのってやってくだされ」
 親の真情にあふれた手紙は、そう結ばれていた。
 良房は芳洲に、なにゆえ亡き父親の後を継ぎ医者の道へ進もうとしないのかと問うた。良房は息子を失い、芳洲は父親を失った。良房は、芳洲を長浜へ呼び寄せ父親替わりに彼の面倒をみたいと思っていた。できうれば芳洲と娘の小夜が結ばれ、長浜の地で一緒に人々の医療に携わってくれればとの願いを抱いていた。
「書を学ぶには紙を費やしますが、医を学ぶには人を費やします。薬を数十遍間違えて、ようやく良医になれると聞き及んでおります」
 その人の命を費やすことに自分は耐えられそうにもなく、医者になることを断念したと芳洲は応えた。
「医学は人を癒(いや)し、儒学は国を癒す」
 そのような高い志を芳洲は胸中に秘めていたが、そのことは口には出さなかった。
 良房は芳洲の決意が固く、翻意をうながすこと江戸へ旅立つ彼を引き留めることはできないのを悟った。
 翌朝芳洲は良房たちと別れ、しばらく琵琶湖畔を歩いた。長浜はその名のとおり、どこまでも白砂青松の浜が続いていた。湖の向こう岸は春霞のために望めなかったが、沖には北陸や大坂からの荷を運ぶ丸子舟(まるこぶね)が行き交い、浜の港は出船入船に賑わっていた。振り返ると、近江の最高峰の伊吹(いぶき)山が、あたかも長浜の町を見守るようにそびえ立っていた。芳洲は浜辺を逍遙しつつ、なぜにこの美しく豊かなふるさとと別れを告げようとするのか、と何度も自分に問いかけた。
 湖はどこまでも碧(あお)く、透き通ったさざなみが芳洲の旅の草鞋(わらじ)を濡らした。沖合へ目をやると、湖水の中の奇岩に松が一本はぐれて立っていた。昨年、彼は父親と死別していた。そして今年無二の友にも先立たれた。芳洲の世話をさせてもらいたい、との良房のありがたい申し出も断った。そして確たる明日の運命をも知り得ず独り東国へ向かう自分は、あの松のように頑(かたく)なで心細い存在に思えた。しかし、後戻りはできなかった。やみがたい十八の青雲の志が、前へ進めと彼の心をつき動かしていた。
 芳洲はけっきょく雨森の村には立ち寄らなかった。
「生まれた里へ帰るのは蛍雪(けいせつ)の功なった後の自分だ」
 芳洲は長浜を出ると北国街道から中山道に入り、まっすぐ江戸へ下った。
 江戸では儒者の木下順庵(きのしたじゅんあん)の塾に入門した。日々学問に勉励し、やがて芳洲は頭角を現し木門(ぼくもん)の五先生の一人に数えられるようになった。二十二歳の時、順庵の推挙で対馬藩に仕え、江戸藩邸でさらに学究に勤(いそ)しみ、二十六歳の秋、西海に浮かぶ対馬へ赴任した。
 江戸に下った芳洲と音信が途絶えた良房には、彼のその後を知ることはなかった。その芳洲の名を良房が再び耳にしたのは、二十五年後。今から八年前の第八次の朝鮮通信使が近江を通り江戸を往復した折のことだった。しかし、通信使の案内役として行列に随行した芳洲のことを良房が人づてに聞いたのは、重責を果たした彼が対馬に帰着した後のことだった。

「通信使はすでに対馬を出たそうでございます」
 孫の竜之介の便りには、より詳細な朝鮮の使節団の動向が綴られていた。
 第九次の通信使は、1719年4月11日漢城(ソウル)を出発。陸路を釜山(プサン)まで行き、釜山から船にて日本国の対馬へ渡海、7月19日に壱岐(いき)の島に向かって対馬を出帆した。使節団の一行は三使(正使(せいし)・副使・従事官)以下総勢475名だという。
 良房は、さっそく家僕(かぼく)を雨森へ走らせた。長浜から雨森まで北へ三里。高時(たかとき)川の木橋を渡ると、稲穂がたわわに実る田んぼの中に木々の茂る雨森の集落があった。すでに油蝉の喧騒の季節は過ぎ、つくつく法師が澄んだ声で鳴いていた。その村ののどやかな日常は、良房の使いによって突如破られた。
「長浜の良庵先生からの知らせだ!」
 庄屋の弥市郎(やいちろう)が興奮を抑えきれず、大声で集まってきた村人たちへその手紙をかざした。
「芳洲殿が朝鮮使節の案内役で、近江を通り江戸まで行かれるそうじゃ」
「先の正徳(しょうとく)元年度の行列の時は、不覚にも芳洲殿の晴れ姿を拝むことができなんだが、こたびは、是非にお会いせねば」
「そうとも。わが里の誉(ほま)れ。この機会を見逃してはなるまいぞ」
「そうじゃ。しっかとお姿を拝み申そうぞ」
 幼い頃の芳洲を知っている老人はその懐かしさに、面識のない若者は伝え聞く村の偉人に、各々(おのおの)胸を熱くした。
 村人たちは江戸への往路より復路で通信使一行を待ち受けることにした。そして待機の場所は、中山道の番場(ばんば)の宿(しゅく)にすることを衆議一決した。
 往路船にて瀬戸内を進む使節団の日程は定まらなかった。風待ち潮待ちの航路であり、風があってもひどい時化(しけ)が続けば何日も同じ港に滞留しなければならない。いつ大坂に到着するか先が読めなかった。その点帰路は江戸から近江まで陸路である。その頃は晩秋初冬のこととて増水による川留めのおそれも少なく、東海道から美濃路そして中山道をたどる一行の情報がたやすくつかめる。
 番場宿は雨森から南へ五里余り。それに村娘の一人が番場の旅籠(はたご)に嫁いでいる。そこを宿に定めて通信使の行列を待つことが出来る。

 朝鮮通信使が将軍へ朝鮮国王の国書を渡し、その返書をあずかり故国へ向かって江戸を出発したのは、10月の15日だった。
 10月25日夕暮れ、一行は名護屋に着いた。このことはすぐに、先遣隊としてそこに待機していた村の若者たちの健脚により、雨森の村人が待つ番場宿(ばんばしゅく)へ伝えられた。
 名護屋の地でも、大勢の人々が通信使の宿舎へ押し寄せた。通信使に一筆の墨跡を請い、一編の漢詩をせがみ、膝をまじえた筆談や詩文の唱酬(しょうしゅう)を切望した。
 当時、朝鮮は儒教文化の先進国であった。日本の人々は学問の栄える国として尊崇し、先を競って交わりを求めた。その応接の中心的な役割を果たしたのが、製述官の申維翰(シンユハン)であった。
 製述官は、文章の起草や日本の文人たちとの交歓にあたることを任務とした。科挙(かきょ)に合格していた申維翰は、正使にその文才を認められ製述官に抜擢(ばってき)された。三十九歳の時だった。
 彼は旅中、宿館にやってきた各地の藩の重臣、儒官や医師や高僧たちの求めに応じて、おおいに文筆を揮った。それは、自国の文華を宣燿(せんよう)するよい機会でもあった。
 しかし、申維翰はたびたび悲鳴を上げた。詩を乞(こ)い書を所望する訪問者が、門前市をなした。社寺の扁額にせんと、あるいは座敷の掛け軸にせんと、持参の板を畳に据え紙を広げた。自作の漢詩文集に序文を寄せてほしいと願い出る者もいた。遠慮のない者は、縁者や知人に頼まれたのか文机(ふづくえ)に山積みした紙幅を持ち込んだ。
 申維翰のかたわらで小童(しょうどう)が、必死に墨をすった。申維翰は幾本も筆を持ち替え、次から次へと差し出される和紙に、六本の手を持つ阿修羅(あしゅら)のごとく揮毫し続けた。気がつけば、夜明けを告げる一番鶏が鳴いていた。いつの間にか小童が硯に突っ伏してうたた寝していた。小童とは、三使や高官の身辺の世話をし、時に朝鮮の舞いを披露する若者だった。
「これ、目をお覚まし。鼻先が硯にくっついておるぞ」
 小犬のように鼻先を黒くした小童をたしなめた申維翰の頬にも、幾筋か墨の跡があった。
夜の応接ばかりではなかった。宿を発ち街道を行く間も、見物人が警護の役人の目を盗んで通信使たちへ紙と筆を差し出した。幕府は道中での求書を禁じたが、民衆の朝鮮文化への憧憬を押さえきることはできなかった。
 26日。晴れ。名護屋発。
「文筆をもってなやまされること甚(はなは)だしく、眠ることができない。よって、寝床の上で食事をして出発した。また轎(きょう)(駕篭)中でねむりながら行く」
申維翰はこの第九次朝鮮通信使の紀行文『海游録(かいゆうろく)』で、そう記した。
夕刻、大垣着。
27日。雨模様。大垣発。美濃路から中山道へ。この日は今須(います)で昼食をとった後、近江の国に入り、柏原(かしわばら)、醒ヶ井(さめがい)の宿場町を通り、番場の宿へ向かう。泊りは、城下町の彦根が予定されていた。
大垣の宿舎になっていた全昌寺(ぜんしょうじ)に、喇叭(らっぱ)が響き渡った。出発の触れであった。通信使たちは異国の旅装を身にまとい、所定の位置につき、隊列を整えた。
 先導をつとめる対馬藩の一団が街道筋に押し寄せた見物人の前を通り過ぎると、いよいよ朝鮮通信使一行が姿を見せた。先頭は、徒歩の旗手が掲げる四本の清道旗(せいどうき)。つづいて馬上の毛槍。正使・副使のシンボル旗の形名旗(けいめいき)。楽隊。そして朝鮮人の軍官に守られた国書の輿(こし)。再び楽隊が従い、その後に背中に長い髪を束ねた小童が馬に乗って現れる。見物人が、若い女性のように長い髪を背中に垂らしたそのあでやかさに思わずため息を漏らす暇もあらばこそ、八人に輿をかつがれた正使が登場。寛(ひろ)やかな原色の衣に身を包み、髭をたくわえたその厳かで叡智な風貌に人々は賛嘆。さらに副使・従事官を載せた輿が・・・・・・。
 行列の規模は、朝鮮通信使を中心に、対馬藩主らの一団、警護の幕府・藩の役人、輿や駕篭のかつぎ手・人夫・馬夫などを加えると、千五百名を越えた。 
時雨の中を、一行は大垣城の外堀を渡り、城内を抜ける美濃路を鈎形(かぎがた)に進んでいった。ようやく町並みが途絶えた辺りで、日本人がかつぐ駕篭から製述官の申維翰が顔をのぞかせた。一面に刈田が広がり、里山とそれに連なる山脈(やまなみ)を見やった。ちょうど垂れ込めていた灰色の雲がとぎれ、空の一角に青空が覗いた。そこに、頂の真白な山塊が現れた。陰暦の10月の下旬、季節は晩秋から初冬へ移りはじめていた。それは近江国の伊吹山の初冠雪だった。
「太白山!」
  申維翰は我知らず声を漏らした。雪をいただいた伊吹の山容が、彼の心に故国の霊峰を呼び起こさせた。朝鮮の国は太白山(白頭山)の地で肇(はじ)まり、朝鮮民族の揺りかごとして崇拝されていた。人々にとってその白い山は、母国やふるさとそのものであった。
申維翰は駕篭の引き戸を閉ざし、しばし懐郷の情に浸った。
申維翰の出身地は、嶺南(慶尚道)であった。彼はふるさとに残してきた病気の老母が気懸かりだった。製述官の話があった時も、それを理由に断りもしたが、聞き入れてはもらえなかった。我が家を出て行こうとする自分に、事をわきまえない愛(いと)し子が泣きついて離れようとしなかった。親族や知友が別れを惜しんで、遠く釜山まで見送りに来てくれた。自分が乗ってきた駅馬の馬卒は、港の埠頭(ふとう)で「どうかご無事で帰られますように。その時は必ずやまたこの馬で迎えに参ります」と涙ぐんだ。その光景が、まるで昨日のように鮮明に思い浮かんできた。
 行列の先頭近くに随行していた芳洲も、馬にゆられながら伊吹山を遠望していた。
「あの山の向こうに、私の生まれ育った雨森の村がある。そしてゆかりの長浜の町も」
 芳洲は村人のつつがなきことを、そして長浜で医師をしている橘良房が、なお息災で暮らしていることを願った。芳洲は十八の時に湖国に良房をたずねた後、一度もふるさとへ帰ってはいなかった。あれから三十有余年の歳月が流れていた。
 芳洲は最晩年、遠く離れた対馬の地で次のような歌を詠んだ。

  やつれても一本松の常磐(ときわ)にて今もかはらぬ志賀のふる里

芳洲は望郷の思いを振り払うように手綱を後ろへ引き、馬の頭(かしら)を後方の通信使一団へ向け、その腹を軽く蹴った。
「申維翰(シンユハン)殿、ずいぶんお疲れの様子でいらっしゃいますが」
 芳洲が申維翰の駕篭に声をかけた。流暢な朝鮮語だった。
「芳洲という人は、三音(さんおん)に通じている。日本語は無論のこと、朝鮮語も中国語も見事に話すことができる」
 申維翰は 芳洲の語学の堪能さに舌を巻いた。
 通信使の間で、 その三音に自在な語学の力をめぐり、芳洲の国籍が話題となったことがあった。
 使節団が対馬から壱岐へ渡った折のこと、一泊の予定が大風によって十日間の遅延を余儀なくされた。その間、島の海岸へ一艘の破船が打ち上げられた。島民が船を調べたところ網や竿を積んでいたため漁船と分かった。しかし島民には救助された乗組員たちの話すことばがさっぱり聞き取れなかった。彼らは代官所へ届けたが、代官所での聴取もことばが通じず要領を得なかった。朝鮮国の漁夫たちではないかと、荒天の回復を待って島に逗留していた通信使に助けを求めた。通信使の船員たちや訳官が朝鮮語で漁民に語りかけた。が、やはり意思の疎通はかなわなかった。みなが困じ果てていることを知った申維翰が、芳洲に相談した。芳洲が代官所を訪れ難民に語りかけると、彼らは芳洲が同国人とばかりにしゃべり出した。
「漁民たちは唐土(もろこし)の住民にて、山東半島の寒村の出身。沖で漁をしている時に大風にあい、舵を失ってこの島まで流されたということでござる」
 芳洲は代官に、彼らを長崎へ送るように教示し、漁民たちにもそのことを伝えた。当時対馬藩では、朝鮮の漂流民は長崎経由で本国へ送り返す役目を負っていた。それにならって取り扱うよう、芳洲は平戸藩の代官に助言したのだった。
「芳洲殿は中国のお方だ。でなければ、あれだけ親しく漁民と話せるわけがない」
「いや、朝鮮国の出身で、今は対馬藩に仕えていらっしゃるにちがいない。我らと何のつかえもなくお話しされる。それに、朝鮮語を通訳する日本の通事がわからないことが出来(しゅったい)すれば、そのつど芳洲殿に尋ねているのが何よりの証拠」
「いやいや、日本語も達者でいらっしゃる。第一、お名前が日本名であるゆえ和国の方であろう」
「日本名は便宜上のこと。それが決め手にはなるまい」
 船員たちは、口々に自分の見立ての正しさを主張した。
「わかった。ならばこういたそう。芳洲殿がどの国のお人か賭けることとし、言い当てた者が馳走にあずかるというのはどうじゃ」
「それは一興。長旅のたのしみができ申した」
「勝負はもらったようなものじゃ」
 芳洲が中国人だという意見に与(くみ)する男が言い放った。
「なんの。べそをかくのは、そちらの方でござる」
 自国人だと主張する男が、自信たっぷりに反論した。
 その確認は一行が無事に大坂に着いてからにし、本人へ直接たずねるのは船将に依頼することと取り決め、船員たちは一千隻の日本の船団に護られて瀬戸内の海を渡った。通信使を乗せた六隻の大船とその船員114名は、これまでの通信使がそうであったように江戸へ同行せず、使節団がふたたび大坂へ帰着するまでの二ヵ月をそこに留まった。
「私は日本人でございます。船を降りた後陸路で江戸までまいりますが、その途中私のふるさとの近江を通るのを楽しみにしております」
 朝鮮の船将の問いかけに芳洲は笑みを浮かべつつそう応え、真相はいとも簡単に明らかになった。そして、賭に勝った船員たちはたらふく大坂の名物を腹中におさめた。
 船員たちはその時、芳洲が後年「命を五年縮めるほど昼夜油断なく語学の習得に打ち込んだ」と書き残すほど刻苦したのを、知るよしもなかった。

「昨晩はよくお眠りになられましたか?」 
芳洲は、書画の依頼者の応接にいとまがない申維翰(シンユハン)の体を気遣った。
「貴国の人々の我が国の文化を慕う熱い情に、日夜感激いたしておりますが、名護屋では一睡だにできず、正直くたびれ果てました。しかし大垣の夜は、すこしは横になることができました」
 駕篭の引き戸を開けた申維翰が、微笑みながら応えた。 
 申維翰三十九歳。芳洲五十二歳。年下の者が、年長者を敬うのは礼にかなうことであったが、申維翰にとって芳洲は格別だった。語学の秀でたことは言うに及ばず、その知識の該博(がいはく)さ、能文・能筆、外交官としての手腕に申維翰は感服した。老齢ながら颯爽(さっそう)と馬にまたがる半白の芳洲の後ろ姿を、申維翰は駕篭の中から頼もしく見送った。
 しかし、一時(いっとき)はその背中を、憎々しく睨(にら)んだことがあった。

対馬でのことだった。
 朝鮮通信使一行が、釜山から対馬に渡り府中(ふちゅう)(厳原〈いずはら〉)に着いて三日後。製述官の申維翰(シンユハン)が、島主である藩主の招待を受けた。
 食事が終わった頃、宴会場へ藩主がお見えになるとの触れがあり、一同が立ち上がろうとした。申維翰はすかさず、
「そのまま座っておればよろしい」
 と、彼と同道した通信使たちを制した。
「何を言わっしゃる!」
 芳洲は申維翰の無礼をとがめた。これまで藩主にまみえる時は、通信使たちは前へ進み出て拝礼し、それを藩主は座したまま受けるのが常だった。
 申維翰は色をなした。
「対馬は朝鮮の一州県にすぎない。自分は国事を一身に帯びる中央官庁の文官である。辞を低くするいわれはない。たとえ一級を降り、対等に挨拶するのをゆるしても、藩主の前にひれ伏すなんどはとうてい承服できぬ」
 対馬藩は領地である島のほとんどが山林であり、耕地はわずかな貧しい小藩であった。農業では暮らすことが出来ず、中世以来対馬藩は朝鮮王国に臣従の礼を取り隣国との交易を盛んにすると共に、倭寇(わこう)の取り締まりと引き換えに、毎年一定量の米を李朝政府から支給されていた。申維翰の「朝鮮の一洲県」とは、そのことを背景にした発言だった。
 それまで朝鮮語でおだやかに説得していた芳洲は、日本語で激しく申維翰を非難しはじめた。
「犬羊(けんよう)のごとく、訳のわからぬことを吠えておるわ」
 申維翰の芳洲を見る目は憎悪に燃えていた。一座が騒然となり、刀に手を添え身構える者まであらわれた。
 その場は、藩主が宴席に出ずに引き返すことで一応の決着がついた。宴会は気まずいものとなり、芳洲もそそくさと退席した。
 申維翰がたとえささいな場面であっても外交儀礼にこだわったのは、個人の面子(めんつ)だけではなかった。先の第八次朝鮮通信使のことが念頭にあった。
 当時将軍家宣(いえのぶ)の下、幕政の中心にいた新井白石(あらいはくせき)は辣腕を発揮し、さまざまな改革を行った。その一つが朝鮮通信使への聘礼(へいれい)の改革だった。これまで外交文書で「日本国大君」となっていた将軍の称号を「日本国王」と改め、将軍の使いに対して通信使が階を降りて迎えるなどの新たな方針を打ち出した。このことは結果的に日本国の位置を高め朝鮮国を低くすることにつながった。また、これまでの慣例を変えるにあたって、日本側は性急かつ一方的に過ぎた。両国に対立が生まれ、江戸での国書と返書の交換を行わないという異常事態を招いた。
 帰朝した通信使たちを待っていたのは、国からの厳しい仕置きだった。
「今般の不首尾と安易な妥協は国辱である」
 三使は爵位を剥奪され門外へ追放、交渉に当たった通訳たちは流罪(るざい)や杖刑(じょうけい)に処せられた。
「前轍(ぜんてつ)を踏むまい」
 申維翰は日本の地・対馬の土を踏んだ時から、一毫(いちごう)たりとも朝鮮の国体を損じまいと身構えていた。
「これからこの芳洲という男と、千里の旅を続けねばならないのか」 
 申維翰は、暗澹(あんたん)たる気持ちになった。真文役の芳洲とつねに行を共にする製述官に選ばれた自分の不運を恨みもした。一行を先導する馬上の芳洲の背中を、申維翰は憎しみで射るように見詰めた。

朝鮮通信使は、対馬から島伝いに航行し本州の赤間関(あかまのせき)(下関)に寄港。その後は瀬戸内海を鞆浦(とものうら)・牛窓(うしまど)・宮津等の港を経て、大坂へ。底の浅い日本の船に乗り換え淀川を上り伏見から京に入ると、中山道を通り、美濃路から東海道を経て江戸へ向かった。
 申維翰(シンユハン)は、この江戸との往還の間に芳洲の人となりを深く知ることとなった。
 旅中、こんなことがあった。
 ある藩の饗応の席で、藩臣が通信使に酒をすすめながら自慢げに感想を求めた。
「日本の酒は三国一でござる。いかがかな」
「まことに、さように存じ候」
 謙遜したものの通信使は、心の内では朝鮮の紫火酒のような酒が一番だと思っていた。
 これを伝え聞いた芳洲と申維翰は、お国自慢はほほえましいが、日本人の口には日本酒がよく、朝鮮人の口には朝鮮酒がよく、中国人の口には唐酒がよく、オランダ人の口には阿利吉(アラキ)ちんたがよいものだ。自国第一に凝り固まることは慎まねばと語り合った。
 また、こんなことがあった。
 ある日本人が、朝鮮の国王は宮中の庭に何を植えているのかと尋ねた。麦を植えていると応えると、
「なんと。さぞ百花の王と言わるる牡丹(ぼたん)かなんぞと思い申したに」
 件(くだん)の日本の男は手を打って笑い、小声で「ほんに朝鮮は下国(げこく)」とつぶやいた。
 芳洲はそれを聞きとがめ、すぐさまその蒙(もう)を啓(ひら)いた。
「それは、了簡違いと申すもの。国王が宮廷にいらっしゃっても、農事に勤(いそ)しむ万民のことを片時もお忘れにならないためでござる」
 自分の国の尺度で他国をけなすことを戒め、互いの国の風儀を認め尊ぶという芳洲の一貫した姿勢は、揺るぎなかった。
「偏(かたよ)りがないお方だ」
 申維翰は、異国で百年の知己を得た気持ちになった。

 大垣を出立した一行は、美濃の今須で昼食休憩をとった。ここで接待奉行は、大垣藩の戸田氏から彦根藩の井伊氏へ引き継がれた。
「近江の国でござる」
 柏原宿にさしかかった対馬の先導役が、一行に伝令した。通信使たちのだれもが顔を明るくした。江戸で無事朝鮮王の国書を日本の将軍へ渡し終えたことが、一行の心の荷を軽くしてたが、彼らの足がこころなし速まったのは、往路に通った近江の風光を思い出したからだった。
 近江の道は湖畔に沿ってのびていた。家康が天下分け目の関ヶ原の戦いで勝利をおさめ、この街道をとおり京へ上ったことから、徳川幕府はそれを吉例の道としていた。諸大名は通ることをゆるされず、江戸から代々将軍が上洛するときにのみ使われるとともに、国賓の通信使を厚くもてなすための特別な浜道だった。いつしかその道は、人々から親しみを込め〝朝鮮人街道〟と呼ばれるようになっていた。街道は野洲の郡(こおり)で中山道をはなれ、商人の町八幡をとおり安土を経て城下町の彦根へ、そして鳥居本で再び中山道に合流するおよそ十里の道だった。
 松の並木が美しく、通信使の歩みに付き添うように木の間に青い湖が輝いていた。
「琵琶湖」
 その雅(みやび)な楽器の名を持つ湖に、通信使たちは心を躍らせた。時に足を洗うほど街道近くに湖が湾入し、小休憩の間に澄み切った湖水に手を浸す者もいた。
「まるで海のようだ」
 通信使たちの故国では、対岸が見えぬほど大きな湖を目にしたことがなかった。
「なんと、湖に波があるではないか」
 絶えず沖から岸に押し寄せる波に、彼らは一様に驚いた。
 そのさざなみの国に、再び使節団は入ったのだった。

「行列がやって来たぞ!」
 露払いの役人たちの姿が道の隈(くま)から現れたのを見て、人々が声を上げた。
番場宿の通りの両側に護衛の武士たちが並びおわると同時に、宿場の入り口で喇叭の音が響いた。
「皆の衆、いよいよでござる」
 雨森の村人たちは十日余り前から番場宿に逗留していた。この日は朝から旅籠の軒先に落ち着きのない時間をすごし、はじめて耳にする喇叭の音に体をこわばらせ、もう一度互いの装いを点検し合い、身繕いをした。長浜からやってきた橘良房もそれが合図のように、つないでいた孫娘の手へ力をこめた。長崎にいる竜之介から手紙を受け取ってから、すでに三ヵ月近い時が経過していた。
 先頭は日本の武士の一団数百人。あたりを払うかのようなひときわ立派な馬上の人物は、先導役の対馬藩主。黒装束の一団の後に、畳二枚分はあろうかと思われる旗が四本揺れながらやってきて、人々の度肝を抜いた。それを捧げ持つ旗手の風変わりな装いが、もう一度見物人たちを驚かせた。が、旗の中に「清道」という文字を目にして、人々は外国の使節団に同文(どうぶん)の親しみを覚えた。
 彩(いろど)りゆたかな衣を身にまとった楽隊が、いろどり豊かな音を響かせてやって来た。喇叭に銅鑼(どら)に笛や太鼓。日本のものとはずいぶん趣の異なる楽器の形状とその音色に、番場の宿はすっかり異国情緒に包まれた。将軍の返書の輿に続いて、正使、副使の輿が厳かに通り抜ける。行列は途切れることを知らぬかのように、陸続とやってくる。
「芳洲殿をお見かけしたか?」
「いや、対馬藩の一団の中にもいらっしゃらなんだ」
「ご面相が変わられていて、お見落とししたのではあるまいな」
 雨森の村人たちは、使節団の華麗さに目を奪われながら、不安な心に揺れていた。
 芳洲はこの時、申維翰(シンユハン)の駕篭のかたわらに馬を寄せてその歩みをすすめていた。芳洲は申維翰に、摺針峠(すりはりとうげ)での休憩について確認しておきたいことがあったのだった。
「おおッ 芳洲殿だ!」
 庄屋の弥市郎(やいちろう)が叫んだ。芳洲が白馬にまたがっているという村の先遣隊の情報が、決め手の手助けになった。
「まっこと、まちがいございませぬ」
 庄屋を補佐する横目(よこめ)の与兵衛(よへえ)が請け合った。二人は芳洲の幼い頃の面影を、馬上の人物に見つけて村人に知らせた。
「ご立派になられて」
 そうつぶやいて古老が袖で目頭をおさえた。 
「あのお方が、芳洲殿でいらっしゃるのか」
 幼少の頃の芳洲を知らない村人たち、とりわけ若者はしっかりその雄姿を瞳におさめようと、まばたきも忘れて見詰めていた。
 村人のひとりが首に巻いていた手ぬぐいをほどき、頭上に掲げ打ち振った。 
それに馬上の芳洲が気付いて、馬の手綱を引いた。ある一軒の旅籠の前の見物人のかたまりが、一斉に頭を下げた。
 芳洲はその中に弥市郎をみとめて、ああと心の内で叫んだ。見覚えのある与兵衛もいた。幼い頃、雨森のそばを流れる高時川で一緒に遊んだ源四郎(げんしろう)もいた。なつかしい雨森の風景が、人々と一緒に蘇ってきた。
「良房殿!」
 芳洲は、思わず馬の鞍から腰を上げた。見物人の後方にたたずむ総髪の翁は、疑いなく長浜でお世話になった良房だった。良房が手を引いていた少女を人垣の前へ押し出した。目元のすずしい瓜実顔(うりざねがお)の女の子だった。
「お小夜(さよ)・・・・・・」
 芳洲が思わずそうつぶやいたのは、早世した幼友達の妹の名前だった。芳洲はすぐさま自分の迂闊(うかつ)さに気がついた。
「おそらくお小夜殿の娘御(むすめご)にちがいあるまい」
 芳洲はすぐにでも下馬し、雨森の村人や良房たちに親しく挨拶を交わし、久闊(きゅうかつ)を叙したかった。しかし、外国の使節団を護行する重要な立場にいる自分が、私事(わたくしごと)で勝手なふるまいをすることは許されるものではなかった。私情に傾こうとする自分を律するように、芳洲は背筋を伸ばし威儀を正した。 
 芳洲はふるさとの人々に向かって、馬上から深々と一礼した。馬をうながし前へ進んでいく芳洲を、村人たちは拝むかのように胸の前で手のひらを合わせ、その姿が家並みの奥へ消えて行くまで身じろぎもせず見送った。

行列が半ばまで通り過ぎた番場宿のはずれで、事件が起こった。
 巨(おお)きな猪が山陰から突然あらわれ、朝鮮の軍官の乗る馬へ体をぶつけた。馬は軍官を振り落とし、前へ駆け出した。行列は算(さん)を乱し、荷を運ぶ人夫たちは街道脇の田畑へ転げ落ちた。暴れ馬の先に正使たちの輿が見える。
「一大事!」
 行列を警護する彦根藩の藩士たちが、その後を追った。時をおかず、武士たちの傍らを青毛(あおげ)の馬が駆け抜けた。小柄な朝鮮の曲馬騎手だった。あご紐がちぎれ笠が後ろへ舞い落ちるのもかまわず、長い衣を靡かせた騎手が疾走する馬へ跳び移った。彼は馬の背を右に左にと乗り換え、まるで鞍の上で倒立するかのように馬体を抱きすくめた。悍馬(かんば)はたちまちその動きを止めた。
「馬上才(ばじょうさい)ぞ!」
 通信使の一人が叫んだ。と同時に、両国の人々の間に喝采が湧き起こった。それは、江戸城内において将軍の上覧に供されたものだった。
 日本の護衛の武士も沿道の見物人も、思わぬかたちで異国の美技を目にすることができた。そして、通信使たちはこの日の彦根での晩餐に、猪肉(ししにく)の馳走を手に入れた。落馬した武官は、狼藉の猪を射止めることでその面目を施したのだった。

 摺針峠(すりはりとうげ)への道は長くゆるやかな坂道だった。
 行列は先程の騒動などなかったかのように、ゆるゆる坂へ踏み出した。
「あの峠から大湖が見える」
「あの峠を越えれば、その名のゆかしい朝鮮人街道へ入る」
 そんな期待が、通信使たちの気持ちを浮き立たせた。坂道は紅葉の残る山の中へ伸びていた。沿道の刈田の中に、ぽつりぽつりと民家が立ち、その庭先にみかんが黄色く点っていた。地上のどこかで犬の鳴き声がし、空の上で鳶が輪を描いていた。
「アリラン アリラン アラリヨ」
 京畿道(けいきどう)地方出身の通信使の一人が、ちいさく口ずさんだ。その声は声を呼び、やがて人々の合唱へと大きくなった。
 峠の向こうには、悲しみや喜びがあった。出会いや別れがあった。故郷や家族が待っていた。
「アリラン アリラン アラリヨ」
 通信使のだれもが知っている哀愁に満ちた朝鮮の民謡とともに、行列は峠道をゆっくり上っていった。

 峠には立派な結構の茶屋があった。その庭には石泉があり、池は泳ぐ鯉の鱗が数えられるほど澄み切っていた。そして拭き清めた座敷から、きらめく湖が遥かに見渡された。
 座敷の長押(なげし)には、第八次通信使の写字官の手による『望湖楼』の扁額が掲げられていた。正使たち三使は奥座敷でくつろぎ、中の間の広縁では、申維翰(シンユハン)と芳洲が対座していた。番場宿の道中で、申維翰は芳洲へ閑話したいと伝えていた。というのも、宿舎では押し寄せてくる日本の訪問者の応接に忙殺され、二人はゆっくり語り合える時間を持つことができなかったからだった。
「申維翰殿、いつになくご機嫌のご様子。御身(おんみ)に何かいいことがございましたか?」
 芳洲は、よろこびを隠しきれない表情を浮かべている申維翰へそう切り出した。
「はい、さきほど故郷からの知らせが、大坂からまいったのです」
「故郷とおっしゃいますと、御国の朝鮮から?」
「はい」
 申維翰は通信使として日本へ出立するとき、病床にあった母親の様子を伝えてくれるよう家人に頼んでおいた。その便りが、釜山の和館から対馬をへて大坂に留まっていた朝鮮の船将へ伝送され、そこから一行の休憩場所である峠の茶屋に届いたのだった。
「母上の病は快方に向かい、気分の良い日には好きな畑仕事に出ているということでした」
「それは何よりでございます」
 旅のあいだ申維翰から何度も母親の身を案じる話を聞かされていた芳洲は、心から喜び合った。
「そういえば、芳洲殿もいつもとは印象が異なるようにお見受けいたします」
「いかように?」
「平生は謹厳を画に描いたようなご面相、いやこれはご無礼。番場の宿を通り抜けてからというもの、とても柔和なお顔をされておいででございます」
「なるほど」
 芳洲は申維翰の鋭さに感心し、いっそうその頬けたをゆるめた。
「ここから数里のところに、私のふるさとがございます。先刻通りました番場の宿へ、そのふるさとの人々が私に会いに来て下さったのでございます。永(なが)のご無沙汰をしておりましただけに、大変懐かしく嬉しゅうございました」
 二人は互いにうなずき合い、眼下に点在する村里と、その向こうに光る琵琶湖を見下ろした。
「湖心に瓢(ひさご)のような孤島がございますが、その名は?」
「竹生(ちくぶ)島と申します」
 芳洲が応えた。
 湖の岸辺に枯れ葦が茂り、いくつもの古江が弧をなし、その江に漁夫の小舟が浮かび渡り鳥が羽を休めている。沖合の湖上を荷船が帆をはらみつつすべってゆく。対岸遠く北から南へ山々が連なり、その果ては雲の中に消え、山裾に琵琶湖の青のみを残している。
「さながら中国の洞庭湖(どうていこ)のようでございますね」
「さすれば私どもは岳陽楼にのぼる唐の詩客でありましょうぞ」
 山光水色の佳景の中で、二人はいつになくうち解けた気分に包まれていた。
「芳洲殿、私めにお教え願いたいことがございます」
「これはまた改まって、何事でござりましょう」
「朝鮮と日本は一衣帯水。隣国同士が交わりを続ける上で大切なものは、何とお考えでしょうか」
 まっすぐな問いかけだった。申維翰の真剣なまなざしが、芳洲の口元をじっと見つめている。芳洲はしばらく黙考した。
 その時山中で、芳洲を促すように鳥が甲高く鳴いた。
「まずは、互いの国の歴史や風俗、そして人情をよく知ることが肝要かと存じます。ご承知のように『卑梁之桑(ひりょうのくわ)』という故事がございます。隣村の子ども同士の桑をめぐるちょっとしたいさかいで、国の間の戦争にまで拡大いたしました。小さな誤解や偏見が、場合によっては大きな戦(いくさ)にならないとも限りませぬ」
「然(しか)り。風儀の違いを理解し尊重し合うのは、簡単なようで難しいことは、この旅中でも痛感いたしております。その上で?」
「誠信(せいしん)」
 まるで平らかな湖へ石を投げ入れるように、芳洲の口からその語が発せられた。
「誠信?」
「幼児をも動かす『誠』と、魚をも感じさせる『信』でございます。誠信とは、まことの心ということです。互いに欺(あざむ)かず、争わず、真実をもって交わることでございます」
「誠信の交わり・・・・・・」
 申維翰の胸の裡(うち)に、そのことばが波紋のように拡がっていった。
申維翰は頬を紅潮させながら芳洲に一揖(いちゆう)し手をさしのべた。芳洲はそれを老斑(ろうはん)の目立ちはじめた手で包んだ。対馬で憎しみ合った二人だったが、旅の間に芽生えた友情は、茶屋の裏山の巌(いわお)より堅固なものになった。

 峠を下ったところが鳥居本宿(とりいもとしゅく)であった。
 ここでも大勢の見物人が道の両側を埋め尽くしていた。北国街道との分岐点であるこの宿に、加賀の国から儒者や富商たちが家族を伴い通信使一行を一目見ようと長逗留(ながとうりゅう)していた。
 申維翰(シンユハン)は駕篭に揺られながら、行列を観覧する民衆の姿に深く心を動かされた。この鳥居本の宿場にかぎらず、どの町どの宿においても人々は節度を持って通信使を迎え、見送った。
「路をはさんで見物する者は、ことごとく正路の外に坐し、小さな者は前に居り、やや大なる者は第二列をなし、またその大なる者はその後ろにあり、次々と隊をなし、静粛にして騒ぐ者がない。数千里を見たところで、一人として盲動し路を犯す者がない」
 申維翰は日本聞見録にそのように記した。また、通るさきざきの街道に、ひとかけらの塵埃(じんあい)もないことにも感じ入った。
鳥居本の宿を出たところで、路は中山道から朝鮮人街道へと分かれる。通信使一行は朝鮮人街道を進み、その日の宿泊地である井伊家三十万石の彦根城下へと入っていった。

 1719年12月28日。正使から、使節団は明朝に対馬を釜山へ向け発船するとの命令が下った。
 芳洲は日本での最後の別れを告げようと、港に浮かぶ申維翰(シンユハン)の船を訪れた。二人がはじめて会ったのは、この対馬だった。そして別れの時も、この西海に浮かぶ小島だった。
 出会いは、対馬藩主への儀礼をめぐる意見の対立からはじまった。二人は自説を譲らなかった。反目(はんもく)したまま、長途の旅がはじまった。芳洲は日本の真文役として申維翰は朝鮮の製述官として、ともに両国の文化交流の中心的な働きを期待されていた。多難な前途が予感された。しかし今、旅の間で生まれた厚い友情と堅い絆で結ばれた二人は船上、水入らずの別離の卓を囲んだ。
 話は深更におよんだ。別離にのぞんで申維翰は芳洲に漢詩を贈った。
   今夕有情来送我
   此生無計更逢君
(今夜、心から別れを惜しんで私を見送りに来てくださったあなた。悲しいことですが、ふたたび会うことはかなわないでしょう)
 その詩句を見て、芳洲は声をころして泣いた。
「私はこのとおり年寄りの身です。もう政務につくことはなく、この対馬の土になる日もそう遠くありますまい。どうぞ、お国に帰られてもご壮健で栄達の道を歩まれますように」
「あなたは鉄心石腸(てっしんせきちょう)の士。そのように心を乱されるのはあなたらしくございません」
 芳洲は、古人がいうように老人の情はもろいものですね、と潤んだ瞳を衣の袖でぬぐった。
 その姿を見ながら、申維翰はつくづく思わざるを得なかった。
「あらゆる学問の書をわきまえ豊かな教養を持ち、能文にして弁が立つ。物事の清と濁をよく分別し実務能力に長けている。人柄も申し分ない高潔の人物が、対馬のような小藩の書記役で終わるのはまことに惜しまれる」
 芳洲は断腸の思いで船を降りた。桟橋で、自宅へもどる芳洲の提灯(ちょうちん)が点された。申維翰は、家路を照らすその灯のゆらめきが夜の底に沈むまで、じっと甲板にたたずんでいた。

 1720年1月6日、通信使一行475名は釜山に回航した。1月24日、入京・復命。漢城(ソウル)と江戸間の往復、3000km。その旅程はおよそ九ヵ月におよんだ。
 旅装をといた正使・副使・従事官の三使は、復命のため宮中へのぼった。しかし粛宗はこのとき重い病に伏しており、三使たちは替わりに世子(せいし)(後の景宗)の謁見を賜った。
 三使は、徳川幕府が第八次通信使の聘礼改革をあらためすべて旧格に戻したこと。よって、国号の問題は解消し、江戸城内での儀礼も先例に基づき粛々と執り行われた。宿泊地の各藩による接待は善美を尽くしたものであり、各地の民衆の歓迎ぶりは熱狂的だったこと等々を報告した。
 世子は、使節団をねぎらい後日応分の報奨を与えることを約した。
 王宮の庭に梅の香がただよう早春のある日、病床にあった粛宗は小康を得、三使および日本の紀行文『海游録』を著した申維翰(シンユハン)を宮中へ招喚した。
 粛宗は在世中、通信使を三度日本へ派遣した。
 最初は1682年の第七次。二度目は1711年の第八次。そして、今回1719年の第九次の通信使だった。
 二度目の通信使の時は、聘礼改革をめぐって紛糾し、両国の間に溝が生まれ、国書の取り交わしを拒むまでの外交問題に発展した。粛宗は心を痛め、隣国との関係の修復・改善を、この度の使節団に託した。
 世子から三使の復命の内容を聞いていたが、余命幾(いく)ばくもないことを悟った粛宗は、後顧(こうこ)の憂いなきよう直接通信使たちから話を聞いておきたかった。というのも、在位四五年李朝を安定させた明君との誉れ高い粛宗には国を預かる者として、1590年の通信使のことが強く心に刻まれていたからだった。
 当時、帰国した使節団の副使が正使の意見を退け、日本には朝鮮へ攻め入る意図はなく、その力もないと報告した。その結果、朝鮮は防衛の武備を怠り日本の侵攻を許し、都の漢城まで陥(おと)されてしまったのだった。
 過去を振り返れば、一見太平な時代の中にすでに戦争への準備が始まっている歴史があった。どのような微細なきざしでも見逃せば、取り返しのつかない惨禍を招く。そのような粛宗の深慮が、三使それぞれへの再度の御下問(ごかもん)につながった。
「愚考いたしますに、日本は大小にかかわらず世襲によって官爵(かんしゃく)を与えており、すぐれた人物が経世に携わることはできないでいるように思われます。それに比べ、我が国は科挙により優れた人材が登用され、国の安寧(あんねい)と繁栄に貢献しております」
 三使たちは、自国の美風と徳政を称え「辺彊(へんきょう)の慮(りょ)なし」(我が国の辺境の防備に対する懸念はいささかもなく、日本には侵攻の兆候はなかった)」と上申をしめくくった。
 粛宗は、三使たちの復申に安堵をおぼえながら、一抹の不安を感じていた。過去の三使のだれもが、その類の言葉を異口同音に申し述べていたからだった。
 三使たちにそれ以上のことばを求めるのは望蜀(ぼうしょく)に過ぎると知りつつ、最後に粛宗は申維翰の発話をゆるした。
「おそれながら」
 自分の顔が映るほど磨かれた宮殿の末席に平伏していた申維翰が、国王を仰ぎ見つつ奏上した。
「釜山の沖合遠き海上に、国境(くにざかい)の島対馬がございますが、そこに外交官をつとめる雨森芳洲という藩儒がおります」
 申維翰が日本の印象や国情について述べるものと思っていた三使たちは、何を言い出すのかと不安げに申維翰の方を振り向いた。
 三使が指摘したように、芳洲は日本の世襲制度の中で野に埋もれている逸材の一人であり、本来なら幕府の儒官として執政に携わるべき人物である。しかし彼は、小藩の外交官として我が国との善隣友好に力を尽くしている。両国の平等互恵をむねとし『誠信』こそ外交の要(かなめ)と考え、それを信念として実行している。今般の旅の間の交流をとおして、彼の偏りのなく偽りのない誠実な人柄に深く感銘した。まさに彼は自分にとって、いや我が国にとって莫逆(ばくぎゃく)の友であることを、申維翰は熱く申し上げた。
「私めはその彼が日本にいるかぎり、そして日本に彼を生み育てる土壌があるかぎり、我が国との交隣は健やかに保たれ、両国の平和は続いていくものと信じております」
粛宗は申維翰の力のこもった口吻に暫時(ざんじ)困惑の表情を浮かべたが、すぐに竜顔(りゅうがん)にほほえみをたたえた。
「雨森芳洲」
 粛宗はそう声に出し、遠くをみつめる眼差しで玉座から日東(じっとう)の方を眺めた。

中川法夫
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中川法夫

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