お洗濯
絢子は翌朝から自室に籠り絵を描き始めた。高校生まで使っていた机にパソコンを置き、ペンタブレットで艶やかなイラストを描いていく。アートというよりはアニメやゲームでよく見かける画風だ。滞りなくイラストを完成させていく。
転職サイトを開く。職種に【クリエイティブ関連】と選択する。地域は【関東】【関西】にチェックを入れた。しかし詳細設定にて【滋賀県】にだけチェックを外す。
いくつか会社を見繕い、先程描いた作品とパソコンに収められたデータを何個か選択し送付する。
一仕事終えると絢子はキッチンへと向かった。家族は皆出払い、静かだった。コンロには味噌汁、テーブルの上には残されたおかずが皿に盛られている。無言で遅い朝食を取る絢子、壁にかかる時計を見る。十一時すぎ。他にやる事もなく手持無沙汰だった。
「ありがとう、早速来てくれて!」
と作務衣姿のチカが出迎える。
「それより本当にいいの? 今日、日曜だよ?」
と絢子が玄野仏壇の工房の玄関へと入る。
「大丈夫。昨日の罰で休日返上の出勤だから。まぁ、言われたノルマ達成したら帰るけど」
「……本当に反省してる?」
チカはおどけて舌を出す。
絢子はゆっくりと辺りを見渡す。展示棚には新品の長浜仏壇が飾られている。荘厳なたたずまい。香の匂いが辺りに染みつき漂ってくる。
「じゃあ、早速直すとこ見てって!」
とチカは絢子の手を引く。
駐車場にコンテナ水槽が用意されている。チカがヤカンの湯を開け、水と混ぜる。
「ここに仏壇をばらして洗うんだよ」
と傍らで見守る絢子に説明する。
分解された仏壇の部材を水槽につけ、スポンジで洗っていく。
「すごい。すぐ真っ黒になるね」
「うん。もう五十年洗っていないって聞いたから。埃(ほこり)も煤(すす)もすごいし……」
とチカはニヤッとして、
「あと、鼠(ねずみ)の糞(ふん)もね」
「やだっ!」
「ホントホント、家から出す時も天井に積もった糞を除けるの大変だったんだから」
「……大変な仕事だね」
「まだまだ始まったばかりだよ」
と、洗い終えた部材を壁に立てかける。
「乾いたら弱った塗装を剥がすんだよ」
二階の小部屋。チカは金ベラ等で木地からペコペコ浮きあがった塗装を掻き落とす。
「落とした部分は下地をつけて埋める」
漆(うるし)と水、土の粉を混ぜ合わせた天然のパテで欠損を埋める。
「下地が乾いたらキメの細かい砥石を使って、古い塗膜や下地を砥いでいくの」
小箱に毛布を敷き、すでに下地の乾いたアマドを乗せる。アマドは仏壇の扉で、長浜仏壇のアマドは長大でチカの背丈ほどある。チカは床に胡坐(あぐら)をかき、桶に張った水に砥石を浸し、アマドを水砥ぎしていく。アマドから艶が失せ、塗面は徐々に白けていく。
「これでやっと漆を塗っていけるんだよ」
と砥いだアマドを奥の部屋に持っていく。片隅に文机(ふづくえ)と小棚があるだけの小ざっぱりした部屋。漆を塗るためのこの部屋は塗り場と呼ばれている。
チカは文机に座ると二つ茶碗を取り出し、一つに漆をあける。もう片方に濾(こ)し紙を重ね、そこに茶碗の漆を移し、絞り出していく。
それまで静観していた絢子が声をかける。
「私、ここにいて大丈夫? カブレないかな?」
「大体の人は直接触らなければ大丈夫だよ」
チカはよどみなくアマドに漆を塗っていく。茶碗から刷毛(はけ)で漆をすくい出し、部材の上で線を引き、それを縦横、縦横と伸ばしていく。
「すごい。馴れてるね……」
「へへへ」
とチカはだらしなく笑う。
「チカはカブレないの?」
「体質かな。今はそんなにカブレないんだ」
チカの指先は黒く、漆が染みついていた。