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辿り着いたのは、一軒の古めかしい宿屋だった。
木之本は江戸時代から続く宿場町で、大名や役人の宿泊所である本陣まで置かれた由緒ある町だ。
今もその面影は色濃く残っており、少し歩けばかつての風情が偲ばれるほど、時間の中に取り置かれた存在であることがありありと理解できる。
カワウソの妖怪を自称する俥夫から迎えを受けて人力車に乗った渋谷は、確かにその町中に入ったはずだった。
「――んだけどなぁ」
目をしばたかせ、目の前の宿を見上げる。
田んぼの真ん中にポツンと建つ一軒家。大きく「民宿かえるのお宿」と書かれた灯籠が玄関脇に立てられているものの、それは民宿という言葉の響きからは想像もできない佇まいだった。
時代劇に登場するような横長の木造建築。窓はすべて格子窓になっていて、吊された提灯にも屋号が書かれている。
今にも闇夜に飲み込まれそうな空の下、提灯の明かりに照らされ、古い木材が色の濃淡を際立たせている様子が一層趣を感じさせた。
「明らかにこれ、どっかから転移したよね? 駅付近でここまで一面田んぼだらけの場所なんてないだろ」
「ちゃんと木之本ですよぉ。予約した人しか利用できない特別なお宿なだけですって。ほらほら、女将も待ってますから! どうぞ中に!」
「えぇー……。俺さぁ、化かされるの苦手なんだけど……」
「大丈夫ですってば、俺らが化かすのは悪い人だけ! 特にここは良宿として、人間にも評判なんですよ! あとで調べてみてください!」
「ホントかよ……」
俥夫の勢いに押され、渋々ながらも暖簾を潜る。
広々とした玄関では、淡緑の着物に黒の帯を締めた少女が静かに頭を下げていた。
「遠いところをおおきに、よぉきゃーりました。本田様からお話はいただいとります、女将のアメと申します。どうぞごゆっくりしとくない」
肩で切り揃えられた黒髪を揺らし、アメと名乗った少女の顔が上がる。
平たい印象を受ける顔立ちでありつつ、目だけははっきりと大きい。
顔の左側は髪で隠されているものの、充分に力のある眼光に思わず感嘆の声を漏らして、渋谷も倣って頭を垂れた。
「本田の使いでお邪魔しました、渋谷です。今晩はお世話になります」
にっこりと笑いかけると、幼い頬が途端に紅潮する。
どうしたのかと首を傾ぐ渋谷に、アメは胸をなで下ろした様子で表情を緩めた。
「いやぁ、ごめんやす。えらぁ怖い人がお使いにござるて聞ぃとったんで、ビクビクしとりましたん。予約取ってくれやはったお兄さんもお人が悪いわぁ」
渋谷を部屋へと案内しながらケッケッと肩を揺らす笑い声は、明らかに人のものとは違う。
可愛らしくはあるがなんとなく騒がしく思える声に聞き覚えはあるものの、さてではどこでだったかと、渋谷は頭を捻った。
廊下や階段を通り抜けながら、ふと脇に飾られている物に目を留める。
像に掛軸、はたまた階段の手すりにさえ小さなカエルが装飾されているのに気付き、あぁと渋谷の唇から声が漏れた。
「女将さんはアマガエルちゃんかな?」
それとなく問えば、小さな肩がぴょこんと跳ねる。
宿の屋号と淡緑の着物に黒のアクセント、小さな体躯と聞き慣れた声。さらに少女の名前が、その正体を告げていた。
「ひゃ、もうバレてもぅた? さすがカタヅケ屋さんやねぇ」
「いやいや、隠す気ないでしょ? 人力車の兄ちゃんも、自分でカワウソの妖怪って自己紹介しちゃうくらいだし」
するとアメは、呆れたように声を上げた。
「あの人、また言うてもぉたん! 言うたあかんってなんべんも言うてんのに、全然聞いてくれやへん」
眉根を寄せ、ふっくらとした頬が膨らんでいく。
「普通の人間のお客さんが来やった時にも言うてまうんよ。冗談やと思てくれはるからどうにかなっとるけど、ホンマにういわぁ。獺口さんはうちの問題児なんよ」
獺口というのがあの俥夫の名前らしい。
あまりの口の軽さに不安ばかりが募っていたが、宿の人間にとっても悩みの種らしいと聞いてほんの少し安堵してしまう。
「そっか。悪いこと言ったね」
「えぇんよ。渋谷さんに悪気がないんは見てたら分かるもん」
アメの笑い声が終わる頃、最奥にある部屋へと案内される。
大きな阿吽のカエルが描かれた襖を開くと、広々とした居間部分と寝室部分に分かれた、部屋の全貌が目に入る。
二間あるだけでも驚きだが、明らかに広すぎるそれらは一人で宿泊するには豪奢すぎる気がした。
「え、ここ?」
「そうえ。カエルの置物、交換に来とくやったんやろ? そういう人は、こちらにお通ししてますの」
「へぇ……」
足を踏み入れると、寒気でもないが、なんとなく背筋を走り抜けるものがある。
その起点にあるのが、ボディバックに詰め込んだ交換用のカエルの置物である事を察し、渋谷は剣呑な様子で肩を竦めた。
「確かに、これ持ってる人だけしか入れない感じだね、ここ」
言葉に、アメは笑みだけを返す。
「すぐお夕飯の準備さしてもらいますよって、ちょっとだけ待っとくない」
そのまま、襖が静かに閉められる。広すぎる室内はそれだけで妙な緊張感を煽っていた。
特に寝室らしい奥の間から、じっとりとした視線を感じる。
「……お邪魔シマス」
そっと覗き込むと、板の間には成人女性の背丈ほどもある、左目を閉じたカエルの置物が見える。
釉薬の効果なのか潤んですら見えるその眼は、虚空ではなく、はっきりと渋谷を見ていた。
「両生類と目が合うの、普通に怖いんだけど」
不気味さもすぎて笑いの形に歪んでいる口元を隠しもせず、照明をつけてからゆっくりと前に腰を下ろす。
よくよくカエルを見るも、最近よくあるホラー演出用の人形などと違い、目元が窪んだトリック作品というわけでもないようだ。
それでもしっかりと目が合い続け、今となっては居丈高に見下ろされた状態にあるカエルの置物に、渋谷は大きく肩を落とした。
「悪霊が憑いてるわけでもなさそうだし、普通にでっかいカエルの置物にしか見えねぇんだけどなぁ……。絶対正体あるよね? 俺になんかご用ですか」
問いかけても応えはない。
しかしその目線が渋谷から外れ、持参したボディバックに移されたことを知ると、あぁと声を漏らした。
「じっちゃんから交換頼まれてたカエルか。これ渡しゃあいいの?」
取り出すと、目の前の大きなカエル像はぐぐと頭だけが肥大化する。
「――あ」
見覚えがある、と思った矢先、渋谷の眼前にはカエルの大きな口が広がっていた。
先刻夢で見たままの光景と捕食される予感に身が強張り、目は見開いて声も出ない。
しかしどこに隠されていたのか、長く冷たい舌がぬるりと伸びて手の平サイズのカエル像を巻き取り、大きな口へと飲み込んでいく。
丸呑みではなく咀嚼するようにもごもごと口を蠢かせる巨大なカエルを目にしながら、渋谷は半ば呆然と見つめているしかできなかった。
やがて大きな置物だったはずのそれは、確かなぬめり気を伴って目の前に鎮座する。
「ふむ、確かにこらぁ本田さんにお渡ししたモンや。兄さん、おどかしてもぅて申し訳ない」
「え、あ、はぁ」
置物だった巨大なカエルが、ただ巨大なカエルになっただけでなく、人語を解し気安く話しかけている。
心霊や妖怪の類いに慣れている渋谷でも少々衝撃が強かったのか、どう反応していいものか困惑している様子で言葉を詰まらせていた。
それを見越し、カエルはケレレと声を上げる。
「腰抜かすんも無理ないなぁ。なんせ儂ほどデカい化けカエルは、儂もまだ会ぅたことがない」
のっそりと動いたカエルは自慢げに胸を張りつつ、ゆっくりと身の丈を縮めていく。
それが両手に抱えられる程度のサイズになった頃、渋谷はようやく人心地ついた様子でへなへなと身を崩した。
未だ驚愕の残り香は消えず、心臓は早鐘を打ち続けている。呼吸すらままならなかったらしい体には、今になって冷や汗が滲んでいた。
「じょーうだんキツいっすわぁ……」
「ははは、そんな驚いてもろたん久し振りや。儂んとこに直接これの交換に来る人間はもうみぃんな慣れてしもててな、こんなんしても全然ビビってくれへんねん。兄さん、化かし甲斐のある子やな!」
「カワウソの兄ちゃん、ここで化かされるのは悪い奴だけって言ってたんですけど」
「あぁ、そりゃ間違いや。化かす言うても今の一連だけや。えぇ人も悪い人もない」
「……あとでカワウソの兄ちゃんに、タバコの煙ぶっかけてもいいっすか」
「はっはっ! えぇよえぇよ、どんどんやり。や、しかしおもろかったわ。さてはこりゃアレや、本田さんから儂へのちょっとしたプレゼントやな」
ケレ、と満足げに鳴った喉を恨めしげに見つつ、仕方なく座り直す。
自分の無様さを笑われるのは正直情けなくもあったが、上司がそれを織り込み済みで自分をここに使いにやったらしいことを聞いては、ふて腐れているわけにもいかなかった。
「交換の手土産的な、って事ですかね」
「そうやなぁ、久し振りに人を化かす楽しみ思い出させてもろたわー。もしや、そろそろ本格的にあかんのかもなぁ。いつも以上に篤く祈願させてもらわなあかん」
「へ」
思いのほか神妙な声色に、思わず興味を惹かれてまばたく。
「祈願って、なんの」
「うん? 本田さんから聞いてへんか?」
閉じたままの左目をわざと見せつけ、化けガエルはにんまりと目を細めた。
「アメや儂のこっちの目ぇはな、人様の目ぇの病が癒やされる身代わりにしとくないて、お地蔵さんに差し上げたんや。兄ちゃんはええ目やから分からんかもしれんけど、目の病言うてもピンキリやろ。ちょっと見えづらいんもあれば、全然見えんってのもいやはるわな」
丸い吸盤のついた指先が、渋谷の目に向けてかざされる。
思わず気圧されて背筋を伸ばすと、またケレと笑い声が返った。
「なんも難しいこっちゃない。どんくらい目ぇ患っとるかによって祈願の度合いも変わってくるやろ? ちょっと悪い人やったら、少しお祈りすれば治ってくれる。めっちゃ悪い人のためには力いっぱい祈願せんいかん。人間さんはそれに対して、お賽銭をくれはる。そういう事や」
そこまで言われ、渋谷は気が抜けたように口を開けた。
「じっちゃんは目の回復祈願のためにドッキリ嫌いの俺をここに来させて、賽銭代わりにアンタを楽しませたってこと……かな?」
「そうや。ほんまはこういうモンはまずお地蔵さんにお渡しすべきやけど、身代わり自体は儂らカエルやし、この場合は浄財でもないからえぇやろ。えぇもんいただいてしもうたわ」
ぺたりとした前足がありがたそうに合わせられ、念仏でも唱えるように大きな口がモゴモゴと動く。
カエルの発言が事実だとすれば、自分は上司に良いように使われてしまったらしいが、それが上司、さらにはこの化けガエルにとって必要なものだったと分かれば、別段腹も立たなかった。
ただ子供のイタズラに引っかかってしまった時のような、微笑ましい諦めが肩を竦めさせる。
それを見るカエルの目が、ケレレと笑みに細まった。
「お帰りの時には次の身代わりお渡ししますよって、安心しとくない。さ、そろそろ夕餉の準備も済んだ頃や。心づくしの長浜名物、ぎょーさん食べとくない」
化けガエルが後ろの居間を指すと、そこにはいつの間にか夕食の膳が整えられ、傍らにはアメがニコニコとこちらを見ていた。
そんなつもりもなかったが、思いのほか集中して話を聞いていたらしい。
意識した途端鼻腔をくすぐった美食の香りに、腹から鬱屈とした音が響くのを止められず、渋谷は気まずげに頭を掻いた。