1
――これは、城なのだ。
田中久兵衛吉政は、自分に言い聞かせた。
後に、秀次が近江八幡四十万石の大名となった折、聚(じゆ)楽(らく)第(だい)に詰める秀次に代わって、筆頭家老として近江八幡の城と城下町、水郷を造った。
秀吉、秀次と共に中国、四国、小牧長久手、小田原と各地を転戦し、徳川家康関東移封の後は、家康、松平父祖伝来の三河国、岡崎、西尾を治める十万石の大名となる。
最後は、関ヶ原の戦で石田三成を捕らえ、三十二万五千石の初代筑後国主として大大名になるのだが、この時、田中久兵衛吉政は、まだ二十六歳の青年であった。
目の前の城は、今まで吉政が見たこともない城だった。
――これは、城なのだ。
吉政は、もう一度呟いた。
目の前にあるのは、完成したばかりの長浜の城である。
現代なら、平城と水城のプロトタイプとでも言われるのだろうか。
大手門は、東の城下町へ向けて開かれているが、本丸と二の丸は西へ向かって大きく湖上へ突き出した形になっている。
大手門を入って右手、北側には、三の丸と家臣団屋敷が広がっていた。
本丸と二の丸は内堀で囲まれ、三の丸は中外堀、家臣団屋敷は外外堀で守られている。 後代惣構えと呼ばれる、外郭型城塞の原型と言えるだろう。広大な敷地面積である。
大手門から伸びる広い道を西へ湖へ向かって進むと、その先が本丸である。道の両側は、堀と言うには広い池のような内堀である。百石船でも何隻も並んで、悠々と往来出来る広さであった。
道の先には、天守閣が聳えている。
高さ一丈(10メートル)はある石垣の上に、二層の大屋根を持ち、更にその上には、最上階の望楼が設えられていた。
堀を挟み、天守の北側には、軍船を停泊させるための軍港までも造られている。軍港の北の並びには、直接船を着けられる大蔵屋敷がある。
琵琶湖から唯一、海へ続く瀬田川を遡行してきた船や、琵琶湖西岸坂本の辺りから、湖を渡って来る船が着く場所である。今も四雙の船が停泊していた。
吉政は右手の軍港を眺め、左手の天守閣を見上げた。
塗られたばかりの漆喰の白壁が、陽を撥ねて眩く輝いている。
「ううむ」
ついに吉政は唸りを漏らした。
今までも天守造りの城はあったが、櫓を大きくしたようなものや、土を盛り上げた上に二層の建物を乗せた造りである。信長の本拠地である岐阜の天守造りでさえ、石垣は低く壁は板張りである。今までの天守は、ただ単に攻めにくく造ってあるだけに過ぎない。
「戦の為だけの城ではない」
吉政は、にやりと凄味のある笑いを浮かべた。納得の笑いである。
吉政の主人、木下藤吉郎が「おん大将」と呼ぶ織田信長の勢力は、急激に拡大しつつある。 本拠地を尾張清洲から小牧、岐阜へと移す度に、信長の領国は広がっている。
天正三年(1575)現在、尾張、美濃を基盤に、浅井、朝倉を屠り、越前、若狭、近江国もほぼ信長の手中にある。京洛も信長の勢力下と言えるだろう。伊勢長島や大阪石山本願寺の一向宗徒や、三好などの難敵は残っているが、信長の目は更に西へ向いている。
「近江は、既に敵地ではないと言うことだ。それに……」
あの信長が、今となっては都に遠い岐阜に、これ以上長居するとは思えない。次に本拠地とするのは何処か?
「尾張様のことだ、京洛へ本拠は置かれまい。次は近江かも知れぬ」
いかぬ、悪い癖だ。吉政は、思索の迷路へ踏み込むことを思いとどまった。
いずれにしろ、近江は既におん大将の領地。
「自らの領地で、戦は起こさせぬ」
その思いであろうか。とすれば、長浜の城は、泰平の証しの城と言うことになろう。
それ故、今までに類を見ない、白い天守閣が必要だったのかも知れない。
実際の泰平はまだ見えぬが、信長の領民に対する行政は優しかった。
関所を廃し、楽市楽座で座に縛られず自由に商いをやらせ、二重、三重の税を本税年貢だけにして、負担を大幅に減らしている。
信長政治の象徴として、各地に白い天守閣が建てば、それを見た人々は泰平の世は近いと、安堵と感嘆の声をあげるだろう。そうなれば、城は戦専用ではなく、行政府としての機能も果たしていくことになるのだ。
天守閣を過ぎると、本丸と本丸御殿が見えてくる。本丸の先の橋を渡れば、二の丸と二の丸御殿に行くが、ここから橋まで四町(400メートル)はある。南北十二町 (1,2キロ)東西七町(700メートル)の広大な城である。造るに際しては、小谷城の石や木材を使い、竹生島に備蓄してあった、浅井家の大量の木材を使い切っている。
吉政は、東へ向かって造られた道へ左に折れた。この道は、今通って来た道と平行に走り、大手門の南へ出る。吉政が向かっているのは、この道の途中にある厩だった。ぐるりと遠回りしたのは、天守閣を見たかったからだ。
城の内も外も、あちこちで小さな仕上げ工事が続いているし、城は引っ越しの途中でもあり、すべての馬が繋がれている訳ではない。横山城に入っていたのは男達だけで、城が出来、ようやく岐阜の組屋敷から、家族や一族郎党が移ってくる。慌ただしいことこの上ない状態だった。
馬場へ出て馬を馴らしたり、秣を取りにでも行っているのだろうか、厩は低い馬の嘶きだけが聞こえ、誰もいないようだった。
吉政の馬の一頭が、ここへ繋いである。替え馬である。通常の乗馬は、三川村の小さな居館にいる。若く、家臣団の中ではまだ軽輩の吉政が馬を許されているのは、それなりの理由があった。
三年前。姉川の戦いの時、湖北一帯の土豪集団は、浅井長政側として、織田、徳川連合軍と戦った。
姉川の戦いの後、湖北土豪、小土豪の首領であった宮部継潤は、秀吉の調略で 織田方に寝返ったが、土豪の主力であった国友家、田中家も共に、織田方につくことになったのである。他にも、三田村、野村、石田なども織田の軍門に入っている。
石田家は、父正継と兄正澄が秀吉の許に在ったが、幼名を佐吉と呼ばれた三成は、米原朝日町の観音寺で、坊主の修行に明け暮れていた。
宮部継潤を調略するにあたって秀吉が用いた策は、常識を覆す異常のものであった。自分の養子にしたばかりの姉の子孫七郎(幼名に冶兵衛とあるが、煩雑を避けるため、孫七郎で通すこととする)後の関白秀次を、宮部継潤の養子とすることだった。
養子とは言え、実質は人質に他ならない。軍門に降る者が、人質を差し出すのが当たり前の時代だったが、秀吉は時代の常識を見事に打ち破った。力ある秀吉が、力の劣る宮部継潤へ人質を送ったのだ。この時の秀吉の必死さが、目に見えるようだ。
秀吉は、対浅井戦略の戦陣を担う、横山城を預かっていた。横山城は、小谷城の目と鼻の先である。周囲は浅井方の土豪集団の村々であり、湖北十ヶ寺と呼ばれる、一向宗門徒が蟠踞する地域でもあった。
西を目指す信長にとって、本拠岐阜に隣接する近江攻略は、焦眉の急と言えた。近江湖北攻めの責任者として、秀吉は停滞した状況に風穴を開ける必要があった。また、即戦力に乏しい秀吉にとって、湖北土豪集団の豊富な人材は、垂涎のものであったろう。宮部継潤を中核とする土豪集団を、何が何でも味方に引き入れたかった秀吉である。
調略は成功し、湖北土豪集団はほぼ織田方に寝返った。この時、三歳であった孫七郎の傅役に抜擢されたのが、田中久兵衛吉政だったのである。
危急の折、孫七郎を安全に避難させる方途として、乗馬を許されている吉政だった。
だが、田中の家も唯の土豪ではない。
「源平藤橘」
藤原氏、橘氏、源氏、平氏の四家のみ「朝臣」を名乗ることが許されているが、田中家は内のひとつ「橘氏」の流れである。
現在の土豪の境涯を顧みて恥とし、後に大名になってからも殊更に橘朝臣を言い立てることもなかったが、墓碑の裏に、遠慮がちに小さく橘朝臣の文字が刻まれている。田中家の家風と気質は、そのようなものだった。
土豪としての田中家は、宮部継潤から信頼され、国友家からも頼りにされる存在だった。
その事を伝えるためには、まず宮部継潤を語らねばならない。
宮部継潤は、正式には宮部善祥坊継潤である。代々宮部神社を守る社僧の後継者であり、武将であり、比叡山で修行し法印の位を持つ。社僧とは、神社で仏事を行う者のことを言う。
宮部神社が領有する土地は、宮部荘、湯次荘とも呼ばれ、宮部荘はまた御園とも称される。御園とは御厨と共に、神社や朝廷に献上する様々の物を作る場所をさす。
琵琶湖の魚は勿論、酢、竹、木材、野菜、果物、花、茣蓙、薪などを朝廷に献上する。近江は、京洛に最も近い御厨、御園が多く存在した。その中でも、宮部御園は特別な存在だと言わねばならない。何故なら、日本国内で貴重な絹を生産する御園だからである。
宮部の北に隣りする三川村に居を構える田中家も、古くから宮部と共に絹の生産に携わってきたのだ。姉川沿いに、蚕の餌となる桑の木が多く存在したのは、その為であった。
絹は江戸時代を通して、輸入に頼らねばならなかった貴重品であることを考えると、戦国時代、いかに絹が貴重品であったかが窺える。絹は主に、能楽の帯や衣装、雅楽楽器の弦などに用いられた。
田中家は、父惣左衛門重政を筆頭に、嫡子久兵衛吉政、吉政の弟久七郎清政、末弟氏次らが、秀吉の配下となっていた。
父重政の妻は、国友城主国友与一右衛門の嫡男、與左衛門の姉であったし、吉政の妻は與左衛門の娘である。二人とも、嫁ぐ前に宮部家の養女となり、田中家との婚姻に臨んでいる。国友は、姉川を挟んで、宮部村の南に位置する。言わずと知れた、国内鉄砲生産発祥の地である。
宮部、国友、田中の三家は姻戚となり、離れがたい絆で結束を固めていった。それだけ、互いが認め合い、必要とした間柄だったのである。