桜が舞い散る四月のとある日。港町の風情を残す船板堀や紅殻格子、虫籠窓の家々や白い土蔵を持つ古い商家、道中安全を願った常夜橙などが建ち並んでいる。
今日から、新しい生活が始まる。寝る間も惜しんで受験勉強に励み、見事第一希望の高校に合格したのだ。絶対に実りのある高校生活を送ろう。だが、そんな私の希望も道を曲がってすぐに崩れ去る。
遠くの空で鐘の音が聞こえた。
私は、目の前で起っている出来事に目を疑う。私と同じ制服を着た女子生徒が鳥に襲われていたのである。女子生徒は鞄で頭を守り、民家の壁を背にしてしゃがみ込んでいた。上空から烏に狙われ、足下では鳩や雀に露出している肌を突かれている。鳥に呪われているのか。と思うほど鳥に執拗に攻撃を受けている女子生徒。関わらない方が自分の為だと回れ右をして別の道から学校へと行こうとした。だが、目の前では女子生徒が助けを求めている。
「ったく」
私は、地面に転がっていた小石を拾い鳥に向って投げる。そして、持っていた鞄で鳥たちを追い払っていく。
「君、大丈夫か?」
鳥たちを追い払うことには成功したが、新品の鞄がぼろぼろだ。入学初日にこんな目に遭ってしまうとは。
「ありがとうございます。助かりました」
「そうかい」
私は、にこりと微笑む彼女の顔に釘付けになってしまう。額から血を流しているではないか。私は鞄から消毒液とハンカチを取り出して、血が出ている患部を消毒。そして、絆創膏を貼る。
「君も気の毒だな。新学期早々」
「あの、ハンカチ」
「いいよ、気にしないで。どうせ安物だから」
さっきまでの晴れやかな気持ちが嘘のようだ。今は学校に行く気が全くない。でも、行かないわけにはいかない。私の無理を聞いてくれた両親に申し訳が立たない。私は重くなった足取りで学校へ行く事にした。
案の定、私の傷ついた鞄は他の生徒たちの格好の的になってしまった。生徒たちのひそひそ声が聞こえ、私の事をちらちらと見つめてくる。私と目が合うと慌てて視線をそらされてしまう。
額や手に絆創膏を貼った女子生徒がクラスメートや教師にお辞儀をしている。その子はさっき私が助けた子だ。
「椎名葵です。愛知からやってきました。趣味はダンス。特技はお菓子作りです。よろしくお願いしますっ!?」
「流石はひでよしちゃん。可愛いっ!?」
一人の男子生徒のかけ声をキッカケに生徒たちは思い思いに彼女に声援を飛ばしていく。中には、手製の団扇や《アイラブひでよし》と刺繍されたタオルを振り回す生徒たちもいる。教室は《ひでよし》コールに包まれていく。生徒たちの視線を浴び、彼女はにこりと微笑む。そして、生徒たちにひらひらと手を振る。すると生徒たちのボルテージはさらに高ぶっていく。その中で私だけが取り残されていた。彼女は何者なのだろう。
「皆さん、お静かに。ここは学校です。節度を守ってくださいね。もしも、節度を守らない生徒が居た場合、厳しい処分を行うのでそのつもりで。椎名さんも分かりましたね」
異様な熱気に包まれていた教室内は、教師の一言で一気に冷めていく。教師の言葉に不満気味の生徒たち。しかし、その中で椎名葵だけがほっとした表情を浮かべていた。
「では、次は大石文さん。お願いします」
彼女の横顔を見つめていると不意に彼女がこちらを見つめにこりと微笑んできた。
私の名前は、大石文。生まれも育ちも滋賀の長浜です。父は警察官。母は女医をしています。年の離れた兄が居て、父と同じく警察官です。趣味は、ゲーム。休みの日は何時間でも出来ます。私の自慢はこれぐらいです。
この日のために作った自己紹介文だ。が、他の生徒たちの視線や極度の緊張。そして、今朝の出来事があり暗記していた内容をキレイさっぱり忘れてしまった。
当然、クラスメートや教師からの評価は最悪だった。男子よりも高い背や低い声。鋭い目つきの所為で私の印象は《恐い人》や《ヤンキー》になってしまった。高校に入れば、何かが変われるかも知れないと期待していたのに。これでは、今までと何も変わらないではないか。
あまりゲームにも集中できずにチャンネルをぽちぽちと変えていく。ふと、見た顔がテレビの画面に映し出される。椎名葵こと《ひでよし》だ。琵琶湖でタレントと一緒に《ビワマス》を釣ろうとしていた。
ビワマスとは、琵琶湖のみに生息する固有種の淡水魚。滋賀に住む者なら一度は口にした事がある。その味は格別で、これを食べてしまったら他の魚が食べられなくなるほど美味しいと絶賛されている。その番組では、ビワマスのお寿司や竜田揚げ。あら汁やスモーク。冷製パスタが紹介されていた。
アイドルらしく、彼女は釣ったビワマスにキャーキャーと悲鳴を上げる。だが、いざ調理に入るとさっきのやりとりが嘘のように彼女は手際よく魚をさばいていく。その変貌ぶりに周りの大人たちを驚かせる。タレントからの無茶ぶりにも臨機応変に丁寧に返していた。が、彼女の本来のものなのかひでよしと言うキャラ造りでそうしているのかは定かではないが一つ一つの返答が面白い。彼女が何かを言う度にその場は笑いに包まれる。そして、今後の自身の告知をして番組は終わった。
なるほど、クラスメートが熱狂するわけだ。小さくて可愛いアイドル。おまけに面白い。だけど、私には関係ないかな。
そして、入学式から数週間が過ぎた。
私たち一年生は親睦を深める為、高校がある滋賀県長浜市をクラスの班ごとに散策していた。
「この後、どうしましょうか・・・・・・行きたい場所とかありますかっ!?」
入学初日の印象がよほど強かったらしく、私と班を組もうとする生徒はいなかった。
「・・・・・・う、うん。椎名さんの好きなところでいいよ。私は地元だし」
だが、私は賤ヶ岳の山頂へ行くためのリフトに揺られながら、自分の身に起きている出来事に私は困惑していた。私の隣には、笑顔が眩しい椎名葵こと《ひでよし》が足をぶらぶらさせ座っている。
「そっか、私は愛知からこっちに引っ越してきたばっかりだからまだ知らないんだっ!?」
「わ、私でよければ、案内するよ?」
彼女は、くすりと笑う。人とこんなに長く喋るのは久しぶりだ。思わず声がうわずってしまう。
「やっぱり、大石さんは優しい方ですねっ!?」
「えっ!?」
私は不意の彼女の言葉に思考が停止した。
「はい、アイスクリームどうぞっ!?」
「あっ、ありがとう。あっ、お金」
私は戸惑いながらも、代金を彼女に支払おうとする。だが、彼女は微笑みながら受け取ろうとしない。
「お近づきの印ですっ!?」
私は彼女の圧に負け、頷いてしまう。これが、芸能人の処世術なのだろうか。私は彼女の好意に甘えることにした。
青々とした森林の中を私は彼女とアイスを食べながら歩いている。小動物が一生懸命に餌を頬張っているようだ。彼女の行動はいちいち可愛らしい。これは夢だろうか。何故、彼女は私なんかと一緒の班になったのだろう。私なんかと一緒にいても面白くもないだろうに。そんな事を思っていると、どこからともなくカメラのシャッター音が聞こえてくる。私は足を止め、辺りを見渡した。が、人の姿はない。
「ねぇねぇ、ひでよしちゃん。僕達と一緒に遊ばないっ!?」
耳に障る声が聞こえてくる。振り返ると、そこには制服を着た男子生徒たちがいた。
「い、いえ。私は、その」
「つれない事言うなよ、ひでよしちゃんっ!?」
茶髪にピアス、着崩した服装の見るからに不良といった男子生徒たちは彼女の事を取り囲んでいる。
「こ、困りますっ!?」
「困った顔も可愛いなっ!?」
男子生徒たちはぐいぐい彼女との距離を縮めていく。男子生徒の一人が、彼女が持っていたアイスクリームを取り上げる。
「へっへっ、アイドルと間接キスっ!?」
そして、男子生徒の一人が彼女の肩に腕を回して写メを取り始める。
「い、いや。止めてくださいっ!?」
彼女はとうとう泣き出してしまった。だが、男子生徒たちは止めようとしない。流石に私の堪忍袋の緒が切れた。
私は、彼女の肩に触れている男子生徒の手を握りしめた。苦痛の表情に顔を歪め、私の顔を見上げてくる。男子生徒は、私が手を離すと地面に尻餅をついてしまう。
「っな、なんだよ。おめぇっ!?」
「俺等はただ、ひでよしちゃんと仲良くしてただけだろっ!?」
私は男子生徒たちを見つめる。私に見つめられ、男子生徒たちは視線を忙しなく動かして地面に視線を落とす。尻餅をついていた男子生徒はポケットから折畳みナイフを取り出して私に振りかざしてきた。
「俺に刃向かう奴は承知しねぇぞっ!?」
男子生徒の凶行に他の男子生徒たちは、顔を見合わせ不安げな表情を浮かべている。
「でかいだけの女が調子乗るなっ!?」
男子生徒は、私に向って突進してくる。男子生徒は多分訳が分からなかっただろう。私は男子生徒を投げ飛ばして、地面に押さえつける。警察官の父親に憧れ、幼い頃から兄と共に習ってきた柔道と空手がこんなところで役に立つとは思わなかった。
それにしても、『でか女』か。昔から聞き慣れていたとは言え、面と向って言われると凹んでしまう。私は、男子生徒が落としていった携帯電話からSDカードを抜き取りながらそんなことを思っていた。
地面に転がっている石を手に、SDカードを破壊する。これで、一安心だろう。あとは逃げていった男子生徒たちが変な噂を流していなければ良いけど。
「二度も助けてもらっちゃいました。ありがとうございます」
「別に、私は当たり前の事をしただけだ」
「あ、あの。それっ!?」
彼女が驚いた表情で私の脇腹辺りを指さしている。見てみると服が裂けていた。多分、さっきの男子生徒が保っていたナイフをかわそうとして切れたのだろう。
「別に気にする事じゃないさ」
彼女は心配そうに私の事を見つめている。私はこの場の空気に耐えきれなくなり彼女に背を向け立ち上がる。
「さてと、あんな奴らのせいで折角の行事を台無しにさせられちゃ敵わない。次は何処へ行こうか。私が案内しよう」
私に出来る精一杯の振る舞いだ。少し恥ずかしい。が、彼女を一人にはさせられない。いつまたあんな輩が現れるか分からない。そうなったら誰が彼女を守ってやれる。
あんな場面を見てしまったら、他人事にはできない。それに、もう男子生徒を一人投げ飛ばしてしまった。もう、後戻りは出来ない。
「私では不満だろうが、我慢してくれ」
背後にいる彼女は何も言わない。それが私にとって恐かった。何を言っているんだこのでか女とか思われていたら傷つくな。私は恐る恐る彼女の方を振り向いた。
「私のお友達になってくださいっ!?」
「・・・・・・っ!?」
にこりと微笑む彼女。私は言葉に詰まってしまう。この子は、私に何を言っている。私なんかと友達になりたいって言ったのか。そんな事を急に言われても困ってしまう。
時刻は夕方、それも早い時間だったため展望台の大浴場は私と彼女の貸し切り状態だ。山ばかりの風景の何が楽しいのか。彼女は鼻歌交じりに窓の外を眺めている。
「みつなり、明日は何処を回りましょうっ!?」
「君が行きたいところに私はついていくよ」
「もう、みつなりは男前だな」
よほど《みつなり》というあだ名が気に入ったのか、何かにつけて私の事を呼んでくる。今まで、《巨人女》とか《壁》とか影で変なあだ名で呼ばれていたから悪い気はしない。それにしても、自分が《ひでよし》だからと私の事を《みつなり》とは。彼女は何を考えているのか私には分からない。よりにもよって石田三成とは。私は人に忠義を尽くすほど立派な人間ではない。
「私の事はいつになったら《ひでよし》って呼んでくれるの、みつなりっ!?」
私に向かい彼女はにししと笑う。アイドルらしからぬ無邪気な笑顔。この笑顔が彼女の本当の彼女の笑顔だ。
「そのうち、ね」
あの後、彼女の空気に負け私は『うん』と言ってしまった。それでよかったのかと今になって後悔している。私なんかより、他に友達に適任な生徒はいくらでもいるだろうに、なんで私なんかを選んだのだろうか。
私は彼女を残して、風呂から上がり脱衣所へとやってきた。そこで、私は不審人物と鉢合わせしてしまう。見るからに怪しい奴が私の目の前に立っている。目出し帽を被った制服姿の生徒。手には下着を握っていた。
私の下着を盗む者はいない。すると、誰の下着か明らかだった。彼女の下着を盗みに来た不届き者らしい。
「痛い目を見たいらしいなっ!?」
私の姿に驚いた怪しい奴は、驚いた拍子に足を滑らせ転倒する。怪しい奴は私の顔を見つめ、情けない声をあげる。しかし、逃げる気はまだあるようで脱衣所の出入り口に向い四つん這いで這っていく。
すると、タイミングが悪く脱衣所の出入り口が開き女子生徒のグループが入ってきてしまった。怪しい奴は、それを見逃さず入ってくる女子生徒たちを押し分けて外に出て行ってしまう。彼女の下着を盗まれてたまるか。
私は、怪しい奴の後を追いかけようとした。
「ちょっと、みつなりっ!?」
彼女に腕を掴まれてしまう。大きな鏡に映る自分の姿が目に飛び込んでくる。
そうだ私は、服を着ていなかった。
夏休みも終わり、九月の末。
「みんな、盛り上がってるっ!?」
彼女の声が聞こえる。そして、地鳴りのような歓声が聞こえてきた。
視線の先には、特設ステージの上で歌って踊る彼女の姿があった。腰まである長い黒髪をツインテールに結び、ステージ衣装に身を包んでいる。
今日は体育祭が行われており、彼女は特別ゲストとして昼の休憩時間に学校の校庭で歌っていた。だからといって、ちゃちなものではない。テレビで見るような本格的なステージに照明・音響機材を使用している。おまけに地元のテレビ局まで撮影に来ている。
さながらここはライブ会場だ。生徒たちは昼食を食べながら、そのライブを観戦している。彼女のライブチケットは今では入手困難だというのになんとも贅沢な事だろう。
一生懸命に歌って踊っている彼女はきらきらしている。今でも、私は彼女から友達になってくださいと言われた事を信じられないでいた。夢だったんじゃないかと思っている。友達になろうと言った彼女の意図が知りたい。私なんかと友達になっても良い事など何もないのに。
時折、私はこんな事を考えてしまう。その度に決まって彼女に叱られる。口に出した覚えはないのに。彼女はきっと勘が鋭いのだろう。人の考えてそうな事は、きっとわかってしまうのだ。流石は芸能人と言ったところだろうか。
その時、校舎と屋上を繋ぐ扉が開く音が聞こえた。ぼんやり校庭を見下ろしていた私は驚いた。全校生徒、全教師が彼女のライブに夢中になっていると思っていたからである。
「あら、体育祭にも出ないでサボりかしら?」
その甲高い声に背筋がぞわりと震えた。正直関わりたくない。出来る事なら無視をしたい。だが、無視をしたら無視をしたで後がうるさい。私は観念して声のする方を振り返る。
そこには、体操着姿の女子生徒が立っていた。腕組みをして威圧的な態度で私の事を睨んでいる。腕に付けた腕章には、《生徒会長》と書かれている。
「あぁ、何の用ですか。生徒会長」
「結構な言いぐさね。なにしているのかしら」
「見ての通り見学です。ちゃんと、先生の許可も取ってあります」
「ふーん、どうせクラスメートからはぶられているから、体育祭には出ないのでしょう」
この女はいちいちかんに障る。でも、彼女の言っている事は悔しいが当たっている。それが、余計に腹が立つ。
私は、他の生徒たちにとって面倒な存在なのだ。周囲が勝手に私の見た目だけで誤解して、私の事を腫れ物に触るような態度で接してくる。誰も私の側に近づこうとしない。小学校の時からそうだった。私が声をかけただけで皆逃げ出してしまう。だから、いつの頃からか私は学校の行事に参加しないようにしてきた。その方がクラスのためだからと自分に言い聞かせて。私もその方が気が楽だと思い込むようにして。
「図星なのね。可哀想な人」
人を下に見る癖は相変わらずだ。生徒会長のくせに人望がない事で有名な谷山彩音。この女は、自分が気にくわない者に容赦がない。噂では、自分に意見したと言うだけでその相手を退学にまで追い込んだとか色々黒い噂が絶えない人物だ。私も入学当初から目を付けられている。
「だったら、どうした?」
「だから、あの子とも仲良く出来るんではなくて。あの子も大概変わり者だから」
この女は彼女・椎名葵の事も入学当初から目を付けている。人当たりがよく、誰からにも愛される彼女にこの女はただ単に嫉妬しているだけだ。
私の事だけならまだしも、彼女の事にまで文句を言うこの女に私も少々頭にきた。
「みつなりっ!?」
彼女が屋上へとやって来た。彼女は、ステージ衣装のまま私に抱きついてくる。友達になろうと言われ、私がうんと言ったその日から彼女の態度は激変した。二人っきりだとこうやって私に甘えてくるようになったのである。嫌な気分はしないが、私に対して警戒心がなさ過ぎではないか。
「バカな生徒たちに媚びを売るのも大変ね」
「っげ、生徒会長っ!?」
「そんな露出の高い服装で男たちにアピールして必死すぎなんじゃないの」
「ちょっと、あなた。言って良い事と悪い事があるの。ファンの人たちの悪口を言わないで。それに、この衣装、スタッフさんが寝る間も惜しんで頑張って作ってくれた物なの。あなたに何かを言われる筋合いはない」
大概の事は笑って済ます彼女もアイドルの事に対していちゃもんをつけられ流石に頭にきているらしい。珍しく声を荒げている。
二人が睨み合って、どれだけ時間が経っただろうか。私は完全に蚊帳の外だ。
「会長。探しましたよっ!?」
次に屋上へやってきたのは、線の細い優男であった。腕に付けた腕章には《生徒会副会長》と書かれている。
「どうかしたのかしら、副会長」
「午後の部が始まります」
「もうこんな時間。この人たちに付き合っていて時間を無駄にしたようね」
くすりと笑い屋上から立ち去る生徒会長。最後までかんに障る女だ。生徒会長の背中を見送り、溜め息を漏らす副会長。
「もしかして、また彼女は君たちを不快にさせるような事をしていたのかな?」
副会長は、私と彼女の顔を見比べて困ったなと髪の毛をかきむしっている。彼女は完全にへそを曲げってしまったらしく私に抱きつき副会長に背中を向けている。
その様子を見つめ、副会長は私と彼女に深々と頭を下げてきた。
「毎度のことだけど、ごめんね」
「いや、先輩に謝られても」
この人はなんていい人なんだ。あの女にこの人の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。この人こそがこの学園の真の生徒会長と言っても過言ではない。誰もが認める人徳者。生徒会副会長・南場秀頼。
生徒会長のあの女の扱いには、教師でさえ手を焼いていた。彼女の父親はどこぞの偉い人らしい。その人は、学校を建てる時に結構な額のお金を寄付したとかで学校側は頭が上がらないのだとか。娘であるあの女にも、何も言えないらしい。
「父親の権力を傘にやりたい放題とか、昨今の子供でもやらないよな」
あの女はいつも誰かに怒っている。生徒たちも彼女には関わりたくないらしく、彼女の視界には入らないようにしていた。
普段なら生徒たちに声をかけられたらどんなときでも笑顔で対応する彼女であったが、あの女の言った事がよほど悔しかったのかずっとイライラしていた。こんなにいらついている彼女の姿は初めて見たかもしれない。
「ねぇ、みつなり。ちょっと付き合って欲しいんだけど」
最近では、あまり驚かれなくなったが彼女が私の事を《みつなり》と学校で初めてあだ名で呼んだ時の生徒たちの驚き様は今でも覚えている。生徒たちは皆、狐につままれたような顔をしていた。そして、私に親しげに会話をする彼女の姿に生徒たちは敬意を払ったのである。
『流石はひでよしちゃん。どんな人にも平等に接する姿勢、憧れるっ!?』
彼女のファンが増えた瞬間だった。そんな出来事があり、彼女は滅多に人前では私の事を《みつなり》とは呼ばなくなった。理由は分からない。私に気を遣ってくれたのだろうか。まぁ、そんな事はどうでもいい。それの方が彼女のためだ。私なんかと関わったら、彼女のアイドル人生を台無しにしてしまう。
私は、彼女の背中を見つめそんな事を思っていた。そんな私の手を握り、彼女は駆け出していく。心なしか彼女が私の手を力強く握っている気がした。
そして、私は彼女に引っ張られダンススタジオに連れてこられてしまう。そこは彼女が所属する芸能事務所と提携しているらしく彼女は面パスでスタジオに案内された。彼女は着くなり上着を脱ぎ、準備運動をしていく。そして、受付から借りたラジカセを手際よく準備。スタートボタンを押す。軽快な音楽が流れてくる。彼女は、鏡に向い振り付けを行っていく。納得がいくまで何度も何度も。鏡に映る自分を見つめ、鬼気迫る様子で踊っていた。声をかける隙がない。
そんな自分に出来る事と言えば、こんなことぐらいしかない。彼女の為に、お茶を買う事。前の時も確かお茶だった気がする。芸がないだろうか。趣向を変えて、他の飲み物を買ってみようか。だが、それで彼女の苦手なものだったら嫌だ。どうしよう。ただただ時間だけが過ぎていく。そして結局、私はペットボトルのお茶を選択した。
「ありがとう、みつなり」
彼女は肩で息をしながら私が買ってきたお茶を受け取り、蓋を開けごくごくと飲み干していく。汗だくで着ていたTシャツは透けている。髪の毛は汗で張り付き、髪の毛の先から汗が滴り落ちている。
「これでよかった?」
「うん、みつなりの買ってきた物だったらなんだっていいよっ!?」
三時間ぶっ通しで踊って疲れているだろうに彼女は笑顔を絶やさない。これがプロ根性というものだろうか。しかし、そんな彼女の笑顔を見ていると少し心配になってしまう。この子には休む暇があるのかと。
「そのままだと風邪引いちゃう。着替えとかあるの?」
「うん、平気。ありがとね。心配してくれて」
彼女は、にししと笑う。アイドル・ひでよしの笑顔ではない。彼女自身の笑顔にほっとする。
「ねぇねぇ、みつなりも踊ってみないっ!?」
「へっ!?」
「ほらほらっ!?」
彼女は私の手を掴み、鏡の前へと連れて行く。私は訳が分からずただただ彼女のいいなりになるしかない。
「じゃ、私の動きを真似してねっ!?」
彼女は鏡に映る私に向い、にししと笑う。そして、音楽に合わせて踊り始める。私は踊りなんて生まれて初めてだ。正直、恥ずかしい。
「ほら、恥ずかしがらないで。男子生徒を裸で追いかけようとした事に比べれば、大したことないよっ!?」
にししと笑いながら、彼女は私を見つめる。あんな事件から数ヶ月が過ぎ、やっと忘れかけていた記憶を彼女は掘り起こしてきた。
私は初めて彼女にむっとした。こうなれば自棄だ。踊ってやる。
「そうそう、その調子っ!?」
鏡に映る彼女の動きに合わせ、私は手足を動かしていく。
どれだけ踊っただろうか。よく覚えていない。足や腕が重い。明日は、筋肉痛確定だろう。
「格好良かったよ、みつなりっ!?」
そう言って、彼女はにししと笑い私に向って手を叩いてくる。格好いい、か。こんな私に彼女は気を遣ってくれたらしい。申し訳がない。
「ありがとう」
「もしかして、私の言葉を疑ってるっ!?」
「っそ、そんな事はっ!?」
まずい。気持ちが顔に出てしまったらしい。
その時、スタジオの扉が開き紙袋を持った一人の女性が入ってくる。その女性に目が釘付けになった。なんて綺麗な人だろう。背は私ぐらいあるだろうか。それ以上かも知れない。シャツにズボン。スニーカーというシンプルな格好なのに色気がある。化粧だってそんなにしていないのに。髪型だって普通だ。何故、そんな色気が出せるのだろうか。不思議だ。
「お母さんっ!?」
「もう、いきなりダンスの練習するからって着替え要求してくるのだものびっくりしたわ」
「ごめん、ごめん。みつなりは初めてだったよね、私のお母さんです」
「あら、貴女がみつなりさんね。いつも娘がお世話になってます」
お母さんと言われないと分からない。それに、微笑む笑顔には人を惹きつける魅力がある。流石は彼女の母親だ。魅入ってしまう。
「あなたから話を聞いてたけど、みつなりさんって可愛らしい人ね」
「お母さんだったら言うと思った」
「……えっ!?」
「自分は可愛くないって思ってないっ!?」
この人はエスパーか。なんで私の思っている事が分かったんだ。いや、よく考えれば彼女の母親だ。多分、この人も勘が鋭いのだろう。人の顔色を見ただけで分かってしまう特技の持ち主だ。
「あらあら、その顔は図星って顔ねっ!?」
「みつなりって疑い深いのね、私のお母さんは私のマネージャーでもあるんだからっ!?」
その情報は初耳だった。あまり、彼女のプライベートの事を聞いてはいけないのだと思っていたから今まで知らなかった。そんな人に可愛いって言われてしまった。
「随分と強情な子ね。この子はっ!?」
「そうなんだよね。私もいつも苦労してるんだ。どうしたらいいかなっ!?」
二人の機嫌を悪くさせてしまっただろうか。二人は私から距離を置いてひそひそ話を始めてしまった。自分の対人スキルの低さに嫌になってしまう。
その時、私の背筋に悪寒が走る。何事かと顔を上げると彼女と彼女の母親がにこりと微笑み私の手を握っていた。
彼女はとにかく忙しい。アイドル活動で学校を休む事はしょっちゅうだ。学校に登校しても、休み時間や教室の移動時、昼食の時間、放課後などは常にファンの生徒たちに囲まれて笑顔を絶やさない。家でも、勉強の遅れを取り戻すために寝る間も惜しんでやっているらしい。その他にも、新曲の歌詞や振り付けを覚えたりと忙しい日々を送っていると聞いた事がある。私は大変ではないかと質問した事がある。そんな私の質問に彼女は笑顔でこう答えた。
『アイドルは私の夢だったから辛いなんて言ったら罰が当たる。それに、学校生活はみつなりがいるから楽しいよっ!?』
その時の彼女の笑顔が眩しかった。私には到底理解が出来ない。私なんかと一緒にいて楽しいはずがないのに、私に気を遣ってくれたのだろうか。優しい子だよな、まったく。
「ねぇ、これはどうかなっ!?」
「そうねぇ。でも、もっとこう」
彼女たちが私の洋服を選んでいなければ、ほのぼのとした風景なのに。私がこんな事を考えているとにししと笑いながら彼女がまた新たな洋服を持ってやって来た。
「ねぇねぇ、今度はこれ着てみてっ!?」
「っあ、うん」
私は彼女らの着せ替え人形と化している。彼女らは服を着た私を見て、あーでもないこーでもないと激論を交わし、また洋服を探しに行く。その繰り返しだ。もう、何十着目だろうか。ほとほと疲れてきた。が、私のために選んでくれている二人に申し訳がたたず何も言えない。私は黙って、二人の話を聞いていた。正直、二人の会話にはついていけない、私は、ファッションには無頓着なのだ。流行にも疎い。それに、洋服には嫌な思い出しかない。小学校の時は私がスカートを履くと男子たちがからかってきた。中学でも、制服がスカートで私にとっては地獄だった。だから私は、女子でもズボンを選べる高校にわざわざ入学したのである。
結局、二人とも意見がまとまることはなく服を買うことはなかった。
「じゃ、今度はこっちに笑顔下さい」
視線の先では、アイドルの衣装に身を包んだ彼女がカメラの前でポーズをとっている。フラッシュが眩しい。彼女はカメラマンの指示に従い、どんどんポーズや顔の表情を変えていく。さっきの無邪気な顔が嘘のようだ。こんなにも人は切り替えられるものなのか。
「付き合わせて、ごめんなさいね」
「いえ、家に帰っても暇だったと思うので」
ここは、撮影スタジオ。彼女は今、新作のCDのジャケット撮影を行っていた。私は成り行きでここにいる。
「あの子、学校であなたに迷惑かけてない?」
「いえ、迷惑をかけているのは私の方です」
「ふっふ、あの子の話の通りの人ね。あなた」
一体、彼女はどんな話をしたのだろうか。気になる。が、私から聞けるはずがない。だが、やはり気になってしまう。
「はい、今日の撮影は終了です。お疲れ様」
彼女はカメラマンやスタッフに挨拶をして、こちらへやってくる。カメラマンに名前を呼ばれ一人の女性が立ち上がった。アイドルだろうか。彼女と似たような格好をしている。テレビに疎い私にはその女性が何者か分からない。
「ひでよしちゃん、お疲れ様っ!?」
彼女と顔見知りなのだろうか。彼女は足を止め、その女性となにやら世間話をしている。そして、彼女はその女性に別れを告げこっちへこようとした。次の瞬間、彼女は地面に倒れ込んでしまう。
騒然となるスタジオ。
「大丈夫か?」
「はは、恥ずかしいところ見られちゃったね」
彼女は、顔面から手をつかずに転んだ。しかし、彼女は私の心配を余所に笑っていた。彼女の母親もスタッフの人たちも慌てて駆け寄ってくる。
「皆さんごめんなさい転んじゃいましたっ!?」
「まったく、そそっかしいんだから」
「気をつけてね、ひでよしちゃん」
そして、その場は笑いに包まれていく。だが、私はあの女性が彼女の足を引っかけるところを見てしまった。私は無性に腹が立った。
「待って、私は平気だから」
その女性に文句を言おうと立ち上がろうとした瞬間、彼女に腕を掴まれてしまう。そして、私にしか聞こえない声で彼女が囁いてきた。私の腕を握る彼女の手が震えている。
「ほら、立てるかっ!?」
「うん。でもちょっと足が」
見ると足が赤く腫れ上がっていた。それなのに周囲の大人たちに心配をかけまいと涙を堪え必死に作り笑いをしている。
そんな彼女に私は彼女に手を差し伸べる事しか出来ない。彼女はにししと笑い、私の手を掴む。
「これで大丈夫でしょう。このぶんだと六日間は絶対安静ですね」
「お騒がせしました。ありがとうございます」
「気にしないでくださいな。年中無休で営業していますから、気軽にどうぞ」
「えぇっと、絶対安静ですか」
私の母であり、この小さい個人病院の医院長・大石遙香に彼女はおずおずと聞き直した。
「もしかして、不服かなっ!?」
「いえっ!?」
鋭い目つきの母に睨まれ、彼女は俯いてしまう。膝の上に乗せている拳が震えている。私の母は、患者が自分の忠告を無視して無理をするのを嫌う。だからこうして、患者がそんな気を起こさないためによく釘を刺す。
「お医者さんの言う事は守らなくちゃいけません。仕事の方もセーブしますからね」
厳しい顔つきで彼女の母親は、彼女を見つめる。母親に見つめられ、彼女はあからさまに嫌そうな顔をする。しかし、彼女の母親はバックから携帯を取りだして、何処かに電話をしながら外に出て行ってしまう。
「一時の感情で医者の忠告を無視して、将来を棒に振った人を私は何人も見てきた。君もそうなりたいっ!?」
患者が反抗的なら、母は容赦をしない。その反抗心が折れるまで徹底的に患者を追い詰める。折れた骨のレントゲンや壊死した患部などの写真を見せて患者を怖がらせる事も多々ある。もはや釘を刺すレベルではなく、脅しに近いかもしれない。
「はい、分かりました」
母の脅しに屈したのか、彼女は俯いたまま首を縦に振った。私からは彼女が今どんな顔をしているのか分からない。母は満足げに席を立ち、私を見つめくすりと笑う。
そして彼女は私の母のオーケーガ出るまでの間、松葉杖で生活をしなければいけなくなり、芸能活動も休む事になった。
「寝ぼけて階段から落ちちゃってさ。参っちゃうよね」
生徒たちに捻挫の経緯を聞かれる度に、彼女はこう答えていた。彼女の怪我の噂を聞きつけた生徒たちは、こぞって彼女を心配するふりをしてここぞとばかりに彼女との距離を縮めようとしてくる。彼女が動くと生徒たちもついていく。その姿はさながら、秀吉の周りを付きまとう腰巾着のようで見ていて滑稽だ。別に子供ではないのだからあれこれと気を遣っても仕方がないだろうに。トイレにまで付いていこうとする輩まで現れる始末。流石に呆れてしまう。
彼女自身もうっとうしく感じているらしく、ちらちらと私の方を見つめてくる。きっぱりと断ればいいものを彼女は断らない。にこにこしながら生徒たちの申し出を受け入れてしまう。アイドルとしての性なのか、怒る事をせず常に笑顔を絶やさない彼女の姿に感服する。だが、それにも限界が近づいているのか私の事を見てくる頻度が多くなっていく。仕方なく私は彼女に助け船を出すことにした。私は、彼女に何気なく近づいていく。すると、私の事を怖がっている者たちは蜘蛛の子を散らすように何処かへ行ってしまう。
まぁ、なんて言うか。複雑な気分だ。
「皆の気持ちは嬉しいけど、私だって子供じゃないんだから一人で出来るのにっ!?」
普段彼女は、学校が終わったらダンスの練習か撮影。仕事がなくても、テレビやラジオの台本チェックや休んだ分の学校の宿題に追われているらしい。
だが、足を怪我して芸能活動を休止している彼女は大幅に時間に余裕が出来て暇になった。彼女は普段私が寝ているベッドに腰掛け、足をぶらぶらさせている。生徒たちの前ではにこにこしていた彼女であったが、やはり不満が相当溜まっていたらしい。
私は当たり障りのない言葉を選び、彼女に溜まったガスを抜こうとする。ちょっとでも彼女の役に立てるのならば、例え汚れ役でもいい。今日みたいに人払いのための道具にもなってやる。
「そうだったら、いいんだけどさ」
彼女は溜め息を吐いて、辺りを見渡している。彼女の視線が気になってしまう。やはり、私の部屋はおかしいだろうか。置いてあるぬいぐるみや壁に貼られたポスター、小物は全てゲームセンターやゲームの初回限定版で手に入れた物ばかり。部屋の色合いもブルーが基調で一見するとオタク男子の部屋のようだ。
彼女が何も言わなくなってしまった。気まずい。どうにかして、この場を盛り上げなくては息が詰まってしまう。何か、キッカケになる話はないか。辺りを一生懸命に探すが、見当たらない。勉強は今さっきやったところだ。年頃の女の子がする話と言ったらなんだろうか。アイドルなんかの情報には疎いから無理だろう。それに、ファションは論外だし、恋バナなんて、ありえない。
「おーい、入っていいかっ!?」
その時、救世主が現れた。私の三つ上の兄・大石健太郎である。私だけでは荷が重かったから、兄の出現に内心ほっとした。
「勉強お疲れ様、二人とも。俺からの差し入れだ。ほら、ケーキ買ってきたぞっ!?」
「あぁ、ありがとう」
「ありがとうございます。お兄さんっ!?」
ちょっと情けないが、これで重たかった空気も少しは軽くなる。それに、兄は昔から私とは正反対で社交的で誰とでもすぐに仲良くなれるスキルを持っている。兄ならば彼女の話し相手には最適だろう。
「ケーキは君とお近づきになるための建前なんだけどねっ!?」
「まぁ、お兄さんったらお上手ですねっ!?」
彼女の顔を見つめ、兄は微笑む。確かに助かったが、別の問題が発生した様な気がする。
なのに彼女は楽しげに笑っている。その姿を見つめ、少し悔しい気持ちになった。私だって彼女と話してあんな風に笑わせてみたい。
「冗談はさておき、我が妹は君に迷惑をかけていないかなっ!?」
「迷惑だなんて、私の方こそ何度も妹さんには助けて貰ってばかりで申し訳ないです」
「それを聞いて安心したよ。妹は学校での出来事なんかを話したりしてくれなくてね。この通り妹は仏頂面で無口な奴で、あまり友達もいなかったもので友だち付き合いというものを知らないんだ。君がよければ、妹に友達付き合いのなんたるかを教えてはくれないだろうか?」
おいおい、ちょっと待て。二人で何を話し始めているんだ。彼女が困っているではないか。折角軽くなった空気をまた重くして。
「それは、ちょっと」
ほら、見ろ。彼女完全に引いちゃったじゃないか。明日から彼女とどうやって話せばいいのだろう。恥ずかしい兄のせいで散々だ。
「私も知らないんです。友だち付き合いってどう言うものなのか」
悲しげに笑う彼女の顔が妙に印象的だった。
そして、数日はあっという間に過ぎ彼女の足は完治した。
「さてと、じゃ始めますかっ!?」
そう言って彼女は、運動着に着替え準備運動をしている。母からの完治宣告を受け、彼女がまず向った先はダンススタジオであった。
「あんまり、無茶しないでね」
彼女の事が心配でついてきてしまった。彼女はにししと笑ってくる。昨日まで足を怪我していたとは思えない。
「大丈夫、みつなり。心配しないでよっ!?」
「でも」
彼女は楽しそうに鏡に映る自分を見つめ、軽やかなステップを踏んでいる。普通なら、怪我をした箇所を庇ってぎこちない動きになるはずなのに。あんなに楽しそうに踊っている彼女にこれ以上何かを言うのは野暮というものだ。
その時、扉が開きパンツスーツ姿の彼女の母親が入ってきた。今日もきりっと決まっている。仕事が帰りだろうか。
「あぁ、丁度よかった。文ちゃんもいたっ!?」
彼女の母親はにこりと微笑み、私に近づいてきた。文ちゃんは恥ずかしいから止めて欲しい。彼女曰く、私の事を気に入ったらしいのだが、私は特に彼女の母親に気に入られるような事はしていない。彼女も私の何処を気に入ったのかを教えてはくれない。
「ねぇねぇ、葵とこれに出てみないっ!?」
彼女の母親は、バックから一枚のチラシを私に手渡してきた。
「ねぇ、駄目かなっ!?」
「無理です。他を当たってください」
彼女は、両手を合わせて私に頭を下げてくる。だが、彼女の頼みだが、聞く気にはなれない。
「私は、みつなりと一緒に出たいのっ!?」
「私からもお願い。この子と一緒に出てくれない。お願い」
これは一体、どう言う状況だろうか。彼女と彼女の母親から、頭を下げられている。この二人は、私を四年に一度開催されるダンス大会に出場させたいらしい。
「私は、ダンスしたことないから。私なんかよりダンスの上手くて可愛い子は他にいっぱいいるでしょ。なんで、私なんかに頼むのさ」
私を選んだのか分からない。でも、私なんかが彼女と一緒に出たら笑いものになるのは目に見えてる。彼女の為にならない。彼女の将来の事を考えたらマイナスなはずだ。
「今度、私なんかって言ったら怒るからっ!?」
なんなんだ。今度は急に怒り出した。彼女は、目くじらを立てて私を睨んでくる。訳が分からない。
「しょうがないわね。時間をかけて説得するしかないわね」
ぼそりと呟く彼女の母親の声が耳に入ってきた。
翌日、いつものように学校に登校した私に彼女はこう告げた。
「今から私はみつなりと絶交します。理由が分かるまで私に話しかけないでください」
入学当初からなんやかんやでずっと彼女と遺書にいた私にとって彼女と一緒にいられないのは辛い。こんな事を思った事は、今までなかった。私の中で彼女の存在が大きかったのだと気づかされる。だが、それとこれとは話は別。彼女と話がしたければ、ダンス大会に出なければいけない。横暴にもほどがある。今時のゲームでもこんな選択肢はない。
その日の放課後。私は彼女に白旗をあげた。私が観念した姿を見て、彼女はとても愉快そうに笑っていた。
「なんで、私なんかを相手に選んだの?」
「みつなりと踊りたい。そう思ったからっ!?」
「そう。でも、あまり期待しないで。私、ダンス初心者だし」
「大丈夫、私が保証する。一緒に頑張ろっ!?」
「う、うん」
彼女の策略にまんまとはまってしまった悔しさから、意地悪な質問をした自分が恥ずかしくなる。にししと笑ってくる彼女の顔を見られない。
「あと、私は聞き逃さなかったからね。みつなり。また、私なんかって言ったよねっ!?」
彼女にデコピンをされてしまった。
「さて、こんなところかなっ!?」
この間の比ではない。手足が悲鳴を上げているのが分かる。怪我から復帰したばかりの彼女にも容赦がない。
「やっぱり、鈍ってるわね。葵」
「うん、まだ体が重い」
「まぁ、それは想定内の事だから少しずつ元に戻していきましょう」
そう言って彼女の母親は部屋を出て行ってしまった。私たちは、ブラウスにパンツ姿の彼女の母親からダンスの基礎を教えて貰っていた。なんでも、彼女の母親は昔アイドルで歌やダンスを今でも彼女に教えているらしい。彼女たちと結構長い間一緒にいたが、まだまだ知らないことが多すぎる。
「あんなに楽しそうなお母さん、久しぶりかも。みつなりに教え甲斐があるのかもねっ!?」
「買いかぶりすぎだよ」
「みつなりは、自分の事を過小評価しすぎ。もっと自分に自信を持ってっ!?」
彼女は、にししと笑う。
そして、あっという間に時間は過ぎてダンス大会当日。予選の第一試合、私と彼女の番が回ってきた。四年に一度のお祭りだけあって、すごい賑わいである。
『では、続いて紹介するチームは《ひでよし&みつなり》だ。アイドルとして人気沸騰中のひでよしが高校の同級生である女子生徒と一緒に踊るぞっ!?』
アナウンスの紹介で、観客のボルテージは最高潮に。開場から《ひでよしコール》が沸き起こる。やはり、彼女の人気は数週間の怪我では衰えることはない。
ダンス大会は、長浜駅からすぐの豊公園(豊臣秀吉の居城だった長浜城跡とその周辺を整備した)内にある野球場に特設のステージを設けて行われていた。
私は、彼女の背中を見つめながらステージに登る。緊張でどうにかなりそうだ。だが、私なんかの為に夜遅くまでダンスの練習に付き合ってくれた彼女やこの日のためだけに私の衣装を作ってくれた彼女の母親の為にも頑張ろう。気持ちを奮い立たせ、私はステージの上に立った。
『何だよ、来る場所を間違ってるんじゃねぇか。お前みたいな木偶の坊はお呼びでないからさっさと帰りなっ!?』
私に対するものなのは明らかだった。罵声や物が投げつけられる。投げつけられた空き缶が私の顔に当たった。
痛い。笑い声が心に突き刺さり、大勢の観客の視線が私へと注がれる。久々に味わう感覚だった。
「皆様、ステージ上へ物を投げないようにお願いします」
確か、小学校の頃にもこんな事があった気がした。運動会で何かの競技でメダルを取り表彰台煮立ったときだった気がする。クラスのお調子者の男子生徒に同じ様な事を言われたっけ。心の奥底に押し込め封をしておいたはずの昔の嫌な記憶がふつふつと湧き上がってきた。押さえつけようとしても溢れてくる。膝が震えて止まらない。目の前がかすむ。これは、彼女と仲良くした罰なのだろうか。この場にいるのが恥ずかしい。
「私の友達を笑うなっ!?」
スピーカーから大音量で聞こえてくる彼女の声に私ははっとする。あんなにうるさかった会場は静寂に包まれていく。顔を上げると目の前に、マイクを握りしめた彼女の姿があった。彼女はマイクを捨て、私の方にやってくる。静寂の中に響き渡るキーンという音。
にししと笑い、彼女が私の胸に顔をうずめ抱きしめてきた。そして、私の手を握りしめる。
「みつなり、大好きだよっ!?」
彼女の手から伝わる温もりが心地いい。嫌な気持ちも何処かへ飛んで行ってしまう。私は今まで彼女の存在が恐くて友達だと言われても逃げてきた。でも、今だったら胸を張って言える。
私の一番の友達・椎名葵。
その日以来、私と彼女の関係はぎくしゃくしてしまった。別に私は彼女を憎んではいない。むしろ大切な気持ちを気づかせてくれた彼女には感謝している。問題は彼女の方だった。自分がダンス大会に誘わなければ、あんな目に遭わずに済んだのに。と、ずっと後悔し続けていたのである。私は、彼女にどうやってこの気持ちを伝えれば良いか分からなかった。そこで、彼女の母親に相談を持ちかけたのである。
そして、私たちはダンス大会を終えて打ち上げ旅行と称して管浦に来ていた。
葛龍尾崎の付け根部分に位置する管浦。険しい山に囲まれ、外界との交通手段は一昔前までは水運だけ。隔離された集落。これにより、早くから惣村が作られ自検断を行使して近江国を領有していた京極氏や浅井氏の統治を嫌い対立したこともあった。集落の東西には境界となる「四足門」が残されている。かつては、集落の四方にあって部外者の出入りを厳しく監視していた。
ちなみに、湖岸まで山がせり出しているその地形は北欧のフィヨルドの美しさ。と称され、平成二六年十月六日に国の重要文化的景観に指定された。
「ねぇ、アイドルになったキッカケとか教えてよっ!?」
「単純だよ。お母さんのアイドル時代の映像や話を見聞きしているうちに私もアイドルになりたいって思ったの。どうしたの、みつなり突然っ!?」
「いや、今まで聞いた事がなかったなって思ってね」
私は今まで彼女に対して一定の距離を置いてきた。でもあの日、彼女は大衆の面前で私の事を友達だと言ってくれた。私はそれが嬉しかった。私は彼女の気持ちに応えたい。私なりに考えた結果だった。
「私が小学校三年生ぐらいだったかな、私が事務所に入ったの。オーディションだったんだけどね」
それから、彼女は芸能事務所に入ってから、忙しくて学校にあまり行けず行事に参加できなかった事、有名人になった事で今まで親しくもなかった同級生から馴れ馴れしくされた事、同級生の女子たちからいじめを受けた事などを私に教えてくれた。
「はぁ、良いお湯だったねっ!?」
私と彼女は宿で無料に貸し出されている浴衣を着て廊下を歩いていた。イエローを基調とした色合いに、ピンク色の花柄があしらわれオレンジ色の帯を締めている。バリエーション豊富な浴衣がこの宿の自慢の一つらしい。ここは、彼女の母親が予約をしてくれた宿・つづらお荘だ。今日私たちはここに泊まる。
すると、彼女の存在に気がついた宿泊客たちが集まってきた。たちまち、彼女の周りには人だかりが出来てしまう。握手や写真、サインを求められ、彼女はもみくちゃにされる。しかし、そこはアイドル・ひでよしだ。営業スマイルに切り替え、次々に宿泊客の要求に応えていく。
やはり、彼女には笑顔がよく似合う。彼女の母親から、彼女がもしファンに囲まれたら無理をしないように見張ってって欲しいと頼まれていたけど大丈夫だろう。
そして、彼女が宿泊客から解放されたのは夜の十時を過ぎた頃だった。
「はぁ、疲れた」
「お疲れ様」
「なんか、新鮮だな。みつなりにお疲れ様だってっ!?」
そう言って、彼女はベッドに横になった。どこか嬉しそうに笑っている。疲れたとは口で言っているものの全然疲れている気配がない。アイドルが心の底からすきなんだな。
「ねぇねぇ、みつなりはマネージャーって興味あるっ!?」
「突然、どうしたの?」
「いやね、今のやりとりでみつなりが私のマネージャーだったらいいなって思ったのっ!?」
私の顔を見つめ、彼女はにししと笑う。私は電気を消して、ベッドに横になった。
「おやすみ、ひでよしっ!?」
「っあ。今、みつなりが私の事をひでよしって呼んでくれたっ!?」
彼女に言われ、驚いた。何気なく彼女の名前(アイドル名だが)を呼んでいたのである。何故突然、言えたのだろうか。不思議だ。
「ねぇねぇ、もう一回言ってよっ!?」
彼女が私のベッドに潜り込んできた。そして、私の顔を見つめにししと笑ってくる。
「おやすみ」
「みつなりったら、言ってよっ!?」
彼女は私の事をぎゅっと抱きしめてくる。そんな彼女の顔から視線をそらして私は目蓋を閉じた。そんな私に対して、彼女はくすぐてきたりつねってきたりしてくる。
「ねぇ、みつなりったらっ!?」
それにしても、彼女から言われてどきっとした。彼女のマネージャーか。考えた事もなかった。もしなれたら毎日が楽しそうだ。家に帰ったら早速調べてみよう。
―終わり―
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