突然山が現れたので、青年は身体をよじって振り返った。普段山を見る機会がない彼は、口元を緩めながら、スマホに記録として残した。
 そのまま画面を操作し、ラインを確認する。ユリナは既読をつけなくなった。本当に上手くいくのか心配だ。
(つ、疲れた)
 寝ておけばよかったかな、と、青年は後悔しながら新幹線を降りた。東京駅から二時間。米原駅に到着だ。特に静岡駅が長かった。景色は充分に楽しめたけれども。
 新快速の近江塩津行に乗ろうとしたが、なかなかドアが開かない。困っていると、後ろから声がした。
「ボタン……」
「あっ、そうか、すみません」
 教えてくれた男性に会釈して、ボタンを押し込む。琵琶湖線の車両はボックス席だ。ドア前のシートを、引き出して座っている人達が物珍しい。自分も真似して、ドアの細長い窓から景色を楽しむことにした。吊り広告は、見たことがないものばかりだ。中には関西弁の広告もある。それに、お喋りをしている人が多くて新鮮だ。耳から入ってくる情報も、目から入ってくる情報も、異国のもののようだった。
 米原駅を発ち、坂田、田村としりとりをした後、目的の長浜に着いた。降りていく人達についていき、階段を上がって改札を出る。その旨を伝えると、ようやく既読がついた。
「どこ?」
 久しぶりに届いた返信は、素っ気ないものだった。
「改札出てすぐのところ」
 そう送って、バイブレーションにすぐ気づくようにしっかりとスマホを握り、辺りを見渡した。親子連れが、展示物をじっと眺めている。長浜の観光名所が載っているようだ。手が振動を感知するまで、彼も遠くから読んでみることに決めた。
 そんな男性を、エスカレータ近くで見つめる女の子がいた。服も髪型も全然決まらなくて、待ち合わせぎりぎりに到着した次第だ。今、改札前にいる二十代の男性は、彼一人。あれがとよさとだとは思うけれども、確証がなくて声を掛けづらい。そこでユリナは、すこーしずつ近づいてみることにした。
 彼はパネルを読むのに夢中で、なかなかこちらに気づかない。顔を覗きこんでみてようやく、とよさとは彼女の姿を認めた。
「あ……」
 春色のコートを身にまとったユリナは、とよさとが思っていた以上に可愛らしい女の子だった。言葉が出てこない中、彼女ははにかみながら挨拶する。
「はじめまして」
「はじめまして、とよさとです」
「ユリナです」
 SNSで知り合った二人は、今日初めてリアルで会った。とよさとは平日を狙って、一泊二日で長浜へ旅行に来たのだ。ネットではお互いタメ口だが、現実ではどうしたらいいのだろう。とよさともユリナも、気まずさが隠せなかった。
「とりあえず、い、行こっか……」
「うん……」
 彼らは、改札を出て左側、東口の方へ歩き始めた。トイレの隣にはガラス作品が展示してある。とよさとが顔を向けると、ユリナも立ち止まった。
「綺麗やなあ」
 ガラス展のチラシの上に、半球体のガラスが置かれていた。紙の上には、赤や緑の細かな光が落ちている。
「うん。なんて言うんだっけこれ、紙に乗せる……」
「ぶんち……」
「あっ、ペーパーウェイトだ」
 自分は文鎮という単語がぱっと思い浮かんだので、ペーパーウェイトなどという横文字が出てきたとよさとは、やっぱ都会の人なんやなとユリナは感じた。
 初めて来たところなので、様々なものが気になる。エスカレーターの上には、巨大なステンドグラスが飾られていたし、モンデクールという店が直結している。ペデストリアンデッキが、長浜にもあるのは驚いた。都会にしかないイメージがあったからだ。
「モンデクールって、外国語なのかな?」
 デッキを歩きながら、とよさとが尋ねた。
「『もんでくる』っていう言葉があるんよ」
「揉んでくる……?」
「帰ってくるとか、戻ってくるとかいう意味なん。もんでくる」
 えきまちテラス長浜に入った。ユリナは駅をほとんど利用しないので、久しぶりに来てみたらこんなところが出来ており驚いた。中は綺麗で広々としており、休憩用のソファがいくつか設置されている。なんなら、寝転んで目を瞑っている人もいる。それを見て二人は微笑した。
「ええー、面白い。他になにか、方言ってある?」
「急に言われたら分からんー。しゃーるとか……?」
「しゃーる?」
「するーって意味なん。宿題しゃーるーとか、さっきの人寝てやあたーとか」
「へえ、そうなんだ。しゃーるかあ」
 ユリナはえきまちテラスに入るのが初めてだったので、少しうろついてみたかった。とよさとにそれを告げて、階段を上り下りする。お洒落な店があって、小さい子供が遊ぶ場所も確保されている。平日だからか、人はほとんどいなかった。
「……関西弁の中でも、湖北の言葉なんやけど、変?怖い?」
 彼女は上目遣いでとよさとを見た。テレビ番組だと、東京の人は関西弁を嫌っているみたいだし、自分がずっと使ってきた言葉を否定されないか不安だった。
「全然?寧ろ、もっと喋ってほしいよ!」
「ほんま?ありがとう……」
 お互い、全然聞き慣れないイントネーションで喋り合っているので、始めは違和感もあったが今は新鮮さが楽しい。とよさとは、方言を話す女の子が可愛いなとさえ思っていた。
「十一時や。お昼よばれへん?」
 それに、ちゃんと聞いていれば、前後の文脈から言葉の意味も分かる。どうやら、ご飯を食べることを「よばれる」と言うようだ。話すたびに、色んな気づきがあった。
「お店決まってるの?」
「親子丼にしようと思ったんやけど、ええ?」
 店を出て、横断歩道を渡り、モンデクールの横を歩いた。
「うん!新幹線でなにも食べなかったんだよね。お腹空いた」
「よかった。はよ食べよ!」
 二人は小さな飲食店に着いた。ここは、駅前通りにある「鳥喜多」の支店だそうだ。本店の方はいつも観光客が列を成していて、ユリナは行ったことがなかったが、ここの親子丼が大好物なのだと言う。
「じゃあ俺も、親子丼にしようかなー」
 向かい合わせに座って、彼女は改めてとよさとを見ることになった。SNSでも話しやすい男の子だったが、実際に会っても柔らかい物腰で、一緒にいてて安心する。思っていたより元気そうで、ユリナは安堵していた。それに、初デート(だと本人は捉えている)はどきどきする。
 親子丼が二つ届いて、とよさとは目を見開いた。頂に卵黄が鎮座していたからだ。親子丼にさらに卵が乗ったものを食べるのは、生まれて初めてだった。
 手を合わせ、彼らは早速食べ始めた。とろとろした卵に、噛みごたえのある鶏肉。黄身を崩すと白米との親和性が増し、胃がどんどん求めてくるのが分かった。
「美味しい!連れてきてくれた理由が分かる」
「ほうやろ?久しぶりに食べれて嬉しいわ」
 味の濃さだって丁度いい。水を挟まなくても、するすると平らげることができた。

 来た道を戻って、えきまちテラス長浜の裏を見ながら道路を渡った。黒い信号の左右に道が伸びていて、左側は大きな駐車場(御旅所(おたび)がある)、右は商店街のようだ。
「ここが黒壁なん」
「言ってたね。楽しみにしてたよ」
「ついてくで、好きなとこ見て?」
「うん、ありがとう」
 とよさとは多くの観光客に倣って、道のど真ん中を歩いた。和菓子屋や漬物屋、それから蔵みたいなものもある。
(結構お洒落なんだなあ)
 広々としたカフェテラスは、とよさとには珍しかった。東京は地価が非常に高いので、こんな海外のようなイートインスペースは設けられているところが少ない。ここでコーヒーを飲んだら、さぞ美味しいだろう。
「とよさと君……胃に空きある?」
 ユリナは、彼が見ていたのと反対側の出店を見ていた。お菓子販売を見て、食べたくなったらしい。
(ついさっき食べたばかりなのに……)
 とよさともユリナに合わせ、一緒に食べることにした。饅頭が有名のようだが、彼女はもちパイの方が気になったようだ。長方形のパイ生地の中は、餡が薄い餅に包まれている。さくさくともちもちが同時に楽しめて、なんだか得した気分だ。
 さて、黒壁の西端には、ガラス工芸品の店が密集している。とよさとはそれらを、じっくり見学することに決めた。建物の壁は文字通り黒く、明治や大正といった昔を想起させる趣だ。
「結構いい値段するなー。でも、これで酒飲んだら美味いだろな」
 一万以上するグラスから、とよさとは目が離せなかった。ジャケットがうっかり商品を掴んでしまわない様、慎重に店内を歩く。
「とよさと君いつもお酒飲んでるもんな。ストロング……」
「あはは……」
 ある建物では、実際に職人がガラス製品を作っていた。窓に近づくと、頬に熱を感じる。五十度近くある過酷な部屋の中で、一つ一つ手作りしているのだ。
「めっちゃ汗かいてやーるな」
 熱い窓をつんつん触りながら、ユリナは職人を見た。二十代半ばの女性が、重たい鉄の棒を操って吹きガラスをしている。ガラスは儚く繊細なイメージがあるが、その美しさのために多くの汗が流されているのだ。
「そうだね。頑張って……やーるな?」
 湖北弁を使ってみたとよさとに、彼女は笑いが止まらなかった。とよさとも恥ずかしくなってしまい、笑みをこぼす。久しぶりに大笑いしたので、頬が突っ張る感じがした。
「これだけ手間掛かってると、高いのも分かるよね」とよさとが言う。「高すぎるのは買えないけど、折角だし買っていこうかなあ」
「カネモやなあ」
「うーん、使う機会ないからね」
「……」
 彼は陳列されたものをよく吟味しながら、購入するグラスを選んだ。薄暗い空間で、明かりに照らされたそれらは、彩光を散りばめている。
「ユリナだったら、何色にする?」
 色違いのタンブラーたちが、虹色になるように展示されていた。
「赤!その赤色、めっちゃ綺麗やもん」
「じゃあ、これにしようかな」
 とよさとは、紅のような赤いタンブラーと、深い青色のものをレジに持っていった。誰かのお土産にするのかな、と、ユリナは思った。

 大きな「長浜曳山まつり」の絵が、入り口を飾るアーケード。これがあるお陰で、雨の日も観光を楽しむことができる。
「あれ?」
「どうしたの?」
 ロングヘアの女性は、ある建物の前で立ち止まった。ここは海洋堂フィギュアミュージアム黒壁だが、閉館しているようだ。
「ここな、フィギュアの博物館やったんやけど、閉まったるんよ」
 フィギュアの嫌いな男性はいないと思っているユリナは、是非とよさとをここに連れていきたいと考えていたので、本当に閉館してしまったのかスマホで調べることにした。
「移転しとかーるわあ。あっちの方みたい」
「それじゃあ行こっか?」
「その前に、大通寺で鳩に豆ぶつけへん?」
 とよさとはそれを聞いて苦笑した。
「しないよー。鳩が可哀想じゃん」
「えー」
 ユリナがぶーと口を尖らせた。

 余った豆を子供にあげて、彼らは地図を頼りに来た道を戻った。和風の屋敷の前で、大きな恐竜が出迎えてくれる。二人共わくわくしながら入館した。入館料は一人八百円だが、長浜浪漫パスポートというものがあり、千円で五つの施設を回ることができる。そちらの方が得だと考えた彼らは、パスポートを購入することに決めた。
 階段を昇ると、まずは大きいフィギュアたちが展示されていた。フィギュアになったキャラクターが出てくるアニメのことを語りながら、とよさととユリナは館内をうろつく。普通こういう施設は撮影NGだが、海洋堂ミュージアムでは自由に写真を撮っても構わない。とよさとは後でSNSにアップするため、何枚かスマホに収めた。
「ええー、他、どこ行こー?」
 パスポートで回れる施設は、後四つ。ユリナは胸を躍らせながら、長浜浪漫パスポートを確認した。入館料無料だけではなく、飲食店での割引やその他サービスも受けられるようだ。ミュージアムはとよさとも大満足したようで、嬉しそうにしているので彼女もほっとしていた。
「すぐそばに建物あるっぽいよ」
 青年はそう言って、目の前の通りを南に歩き、古民家へ向かった。こちら「北国街道安藤家」。入館料は四百円なので、既にパスポート分の費用を回収したことになる。
「お客さんは、遠くから来てくれやあたんですか?」
 チケットをちぎった老人が尋ねる。
「ええ、僕は東京の方から。彼女は地元の人で、案内してもらってるんです」
「ほうなんですかあ。楽しんでってくださいね。二階もどうぞ、見てってください」
「ありがとうございます」
 そのやりとりを聞いて、ユリナは顔を紅くした。「彼女」はSheの意味なのだろうが、一瞬胸がぎゅっと締めつけられる感覚がした。標準語で話されると、ふとしたところでどきっとする場面がある。
 安藤家は、長浜の自治を任された「十人衆」の中の一つで、商人としても発展を遂げてきた。また建物内には、かの有名な北大路魯山人が装飾を施した箇所がいくつもあり、広い庭園と共に楽しむことができる。
「静かな場所だねー。ここで昼寝したら最高だろうな」
「ほんま、庭もええ感じ」
 すぐそこを大きな道が通っているのに、まるでこの家だけ喧騒から切り離されたかのように静寂が満ちていた。お腹もいっぱいだし、日がぽかぽか照っていて眠気がしてきた。二人は安藤家を堪能すると、畳に転がってしまわないように慌てて屋敷を飛び出した。

 パスポートは残り三つ。結構歩くが、とよさとは長浜鉄道スクエアに行きたいと言った。踏切を渡ってすぐのところにそれはある。ユリナは普段車移動なので、ふくらはぎがぱんぱんになってしまった。一方とよさとは、東京で歩く生活に慣れているらしく、ぴんぴんしている。
「もう、なんでー。あんなに歩いたのに余裕やん」
「駅から家まで、歩いて二十分かかるからね」
「二十分かかるんやったら車使ってまうわあー……」
「もっと歩かなきゃだめだよ」
 電車が収められた建物前のベンチで、ユリナは深呼吸した。気を利かせたとよさとが、水を買ってくる。
「よーし、頑張るかあ」
 喉を潤して、彼女は気合を入れ直した。長浜鉄道スクエアは、旧長浜駅舎を改装して使われている。パネルを読んでいると、長浜は流通の要として、初期に駅を設けられたことが分かる。初代長浜駅の駅長は、後の初代東京駅駅長を務めたそうだ。保存されている大きな電車は、実際に操縦席に乗り、車掌気分を味わうこともできる。
 そして、鉄道スクエアの向かいにある建物、慶雲館に彼らは赴いた。明治天皇と皇后の行幸啓に際し建立された館であり、手の掛かった庭園が視覚や心に訴えてくる。初春には長浜盆梅展が開催され、二ヶ月間数多もの盆梅が展示される。早咲きのものから遅咲きのものまで用意されているので、例え毎日訪れても飽きないだろう。また、春から初夏にかけ、ツツジ祭りも行われる。どちらも見に行ったことがあるけれども、本当に綺麗だった。作者はこれが伝えたかった。
 二階に上がると、なんだか人の声が聞こえた。気になって覗いてみると、……。
「わー、べっぴんさん」
「結婚式の撮影みたいだね」
 ユリナは目を輝かせながら、着物に身を包んだ女性を見た。部屋の奥で微笑んでいる二人は今、人生で一番幸せな日を過ごしているのだ。
 カメラマンに勧められ、部屋に入ったとよさと達は、絢爛華麗な庭を見下ろした。周りは高い木が植えられていて、時間を忘れて庭園を眺めることができる。百年経った今でも、この穏やかさは不変のようだ。

「……なー、めっちゃ綺麗やったなー!」
 少し早い晩ごはんを食べながら、二人は談笑していた。海洋堂ミュージアム、北国街道安藤家、長浜鉄道スクエア、慶雲館、そして最後は長浜城を見学した。二千二百円必要なところを千円で回れたのだから、長浜浪漫パスポートを買って大正解だった。
「ユリナは結婚式、和装がいいの?」
「ドレスがいい!」彼女は即答した。「でも、お金あったら着物も着てみたい。折角日本人に生まれたんやし……」
「写真だけ撮るっていうのもあるし、出来るんじゃない?」
 彼らが舌鼓を打っているのは、滋賀の郷土料理だ。ほんのちょっぴり、近江牛も付いているコースである。ユリナは二十一年間ずっと長浜に住んでいるが、こうやって郷土料理をあらたまって食べるのは初めてだった。
 しかし、驚いた。「長浜に遊びにおいで」と軽い気持ちで言ったつもりだったのだが、ユリナが都合のいい日を聞くと、すぐに来てくれたのだから。その代わり、観光案内するための充分な準備ができなかった。次回があれば、竹生島にお参りしたり、ガラス工芸品を作る体験を予約したりしておきたい。
 とよさとがこんなに思い切りよく行動できたのは、最近仕事を辞めたばかりだったからだ。ユリナが本当に会ってくれる保証はどこにもなかったわけだが、時間とお金が有り余っていたから、最悪一人で観光して帰ればいいやと考えていた。
「いやー、ユリナがおっさんじゃなくてよかったよ」
「どういうことー!?」
「ネカマだったらどうしようかと思ってた」
 お酒が入っているから、ついつい口が軽くなる。ユリナもビールを飲んで、テンションを上げていた。
「ほんなわけないやーん。名前も、本名から取ってるし」
「聞いてもいい?」
「中川由梨やから、ユリナなん」
「俺、豊岡聡で、とよさと」
「まんまやん!」
 お互い、本名からもじったハンドルネームを使っていたので、その単純さに爆笑してしまった。
 昼間は目を合わさないようにしていたが、対面しているとどうしても目線が重なってしまう。とよさとは彼女を見る度、優しい目元や柔らかそうな唇に心を奪われそうだった。
「会えてよかったよ。今日楽しかった」
「うちも楽しかったー」
 それはユリナも同じだった。もっとやつれた青年が現れるかと思っていたが、ずっと笑顔で会話を盛り上げてくれた。こんなに充実した気持ちになったのは、生まれて初めてだ。
「あ、料理最後かな?」
「ううん、この後焼鯖素麺出てくるよ」
「……焼鯖素麺?」
 とよさとは顔をしかめた。鯖と素麺に、あまり素晴らしい関連性を見出だせなかったからだ。焼いた鯖が茶色い素麺の上に載っているという、そのまんまの説明をユリナから聞いた直後、それは運ばれてきた。
 彼は訝しみながらも、とりあえず鯖を口にした。こくのある煮魚といった感じだ。山椒がアクセントになり、平坦になりがちな味に刺激を与えてくれる。小鮎の佃煮にも載っていたが、山椒と甘辛く炊いた魚の相性は抜群のようだ。
 少し安心して、素麺も啜ってみた。しょっぱい醤油の出汁でしか食べたことのない素麺。甘辛いつゆも美味しいだなんて、二十五年間気づきもしなかった。
「意外と美味いっ」
 焼鯖素麺は、コース料理の最後に提供された。最初から最後まで、琵琶湖の恵みを堪能することができ……。
「……鯖?なんで滋賀で鯖?」
 そう、内陸県で魚が食べられていることが、とよさとは不思議でならなかった。
「北に福井あるやろ?そこで獲れた海の幸が、この辺ではごちそうやったんよ」
「そっか、それで郷土料理になったんだね」
 最後に水菓子と茶をいただいて、大満足の晩ごはんは終わった。日がすっかり落ちて、黒壁で光を洩らしているのは飲食店くらいになっている。
 もう解散にしてもいいのだが、琵琶湖を見たいというとよさとに、ユリナはついていくことにした。今日はかれこれ、五キロ近く歩いたのではないだろうか。もうへとへとだが、まだこの時間を終わらせたくなかった。
 コンビニで飲み物を買って、湖岸の堤防に腰掛けた二人。豊公園の街灯が届いているはずなのに、水面は油性ペンで塗ったように真っ黒だ。そんな黒の上で、薄い墨が線となって砂浜を擦っていく。波の音は、とよさとが聞き慣れた海のそれと変わらなかった。ただ、限りある暗闇の果てに、新たな街がぼんやりと見えた。
「さむーい」
 これ以上飲むなよと肝臓からお達しが来たので、ユリナはホットココアを口にしていた。身体の内側が温まってくるのが分かるが、細い二の腕が鳥肌を立てている。とよさとは自分のジャケットを彼女に掛けてあげた。実は雪国なんかよりずっと、東京の冬の方が湿度が低く、刺すような冷たさなのだ。
「ありがとー。めっちゃ温かい……」
 とよさとの匂いがするジャケット。なんだか、抱きしめられているみたいだ。自分は大丈夫なのかと聞くと、これ飲んでたら温まるからと、彼はチューハイを飲んだ。家でもいつも、こうやって酒を飲んでいるのだろうか。そう思うと、ユリナは悲しくなった。
「とよさと君」
「聡でいいよ」
「もう『疲れて』ない……?」
 彼女は、ここしばらくずっと気に掛けていたことを尋ねた。
――疲れた……。
 豊岡聡はある日、そんなことを投稿した。息苦しい社風に、過酷な労働。彼の心身はもう限界だったが、周りの人達は皆現状維持を押し付けてきた。誰もが知っているような、大企業に勤めていたからだ。
 逃げるのか。どこに行っても同じだ。後一年頑張りなさい。
 追い詰められた彼に、唯一心の居場所を作ってくれたのが、他でもないユリナであった。会ったこともないような赤の他人だからこそ、無責任でも優しい言葉を掛けられたのかもしれないが。会社を辞めてもいいと背中を押してくれた女の子に、とよさとは一度でいいから直接会ってみたいと思っていた。
「うん。ユリナのお陰で、大分楽になった」
「由梨でいいよ」
「由梨」
 返事の代わりに、中川由梨はにっこり微笑んだ。彼女と会ったらきっと惚れるだろうな、という、とよさとの予感は的中してしまった。インターネットという海の中で、たまたま近くに在った泡の一つでしかなかったのに。ユリナと知り合った当初は、こんな大きな存在になるなんて思ってもみなかった。
「……嫌じゃない?」
 だめだな、酔ってる。とよさとは自嘲しながら、胸いっぱいに彼女を感じた。
「うん……」
 ユリナは突然のことにびっくりしたが、自分がやってみたかった通り、彼に身体を密着させる。後ろの道を誰か通ったらどうしようなんて、そんなことどうでもよかった。
「あんな……。明日、朝一で帰るんやっけ」
 気まずくて恥ずかしい雰囲気を破ったのは、彼女だった。さっきまで寒かったのに、今は外気に触れた頬でさえ熱く感じる。
「そっちがよければ、明日も一緒にいたいんだけど」
「嬉しい」
 こんな幸せな時を手放したくなかった。色んな保険を掛けて、早く帰ると伝えていたけれども、長浜は予想していたよりずっと楽しかった。ユリナがいてくれたからだろうか。
「鴨やんすで」
 鴨が一匹、すぃ~と浮かんでいた。もう少し北西、噴水の西側に行くと、鴨たちの溜まり場がある。そこから散歩しに来たのだろうか。
「鴨肉有名なんよ。めっちゃ美味しいん」
「鴨見ながら鴨肉の話するの……」
 湖面の影が、些か悲しい顔をしたように見えた。鴨肉のステーキは、わさびをちょんと付けて食べると最高に旨い。作者は毎年、鴨すき(鰹と昆布の出汁を使った鍋だ)を正月に「よばれて」いる。鶏肉よりなめらかでむっちりとした食感があって、旨味と甘みをしっかり感じられるご馳走である。
「また一緒によばれよな」
「うん」
 とよさとは「また」という言葉が引っかかったが、この場合アゲインではなく「機会があれば」といった意味で使われている。
「明日なにしたい?」
「……ドライブしたいかも」
 彼の口から意外な答えが出たので、由梨は驚いた。
「どの辺行こ?」
「もうほんとに、ただぶらぶらしたい。適当な道曲がってさ。車借りて」
「借りんでも、うちの車使ったらええで?」
「え!車持ってるの?」
「田舎やから、車持ってる人多いと思うで?私は進学祝におばあちゃんから買ってもらったん。中古やけど」
 聡は大学生の時分に免許を取得したが、所謂ペーパードライバーだ。彼女の方が運転に慣れているし、今回はユリナにお願いすることにした。
「長浜制覇できるかな?」
「どうやろー。長浜市、琵琶湖より広いで」
「まじで?」
「合併しまくってるもん」
 長浜市は滋賀県二位の面積を誇っており、某有名ペディアでは「長浜県」などとネタにされているくらい栄えている。
「じゃあ難しそうかなー。あ、金糞岳は?」
「金糞岳……!」
 二人は思い出し笑いをした。長浜城に登った際、金糞岳(かなくそだけ)という汚い名前の山を知ったのだ。調べてみると、長浜の民話にも出てくるくらい由緒ある山だったので、そのギャップもまた面白かった。
「ここから金糞岳―」
 スマホのAIアシスタントに話しかける。「ここからかな服装だっけ」、「ここから金くそがき」を経由してようやく、経路が表示された。どうやら、二時間以上かかるようだ。「行けたら行くか」と、二人は結論を出すことにした。

「時間は大丈夫?」
「十時に帰るって、お母さんに言ったる」
「じゃあそろそろ解散かな……」
 えっ。ユリナは寂しそうな表情を浮かべた。
「遅くなるってラインしたら大丈夫やで?」
「だめだよ。遅く帰したら、おうちの人に顔が立たないから」
「うー」
「その代わり、明日早く会おうよ」
 確かに、帰るのが遅くなって親に詮索されたら面倒だ。
「頑張る……」
 朝の弱い彼女は、しぶしぶ了承した。
 聡がこちらを向いたので、由梨も彼の顔を見た。食後にリップ塗ったから大丈夫やんな?心の中で自分に確認する。
「……?」
 受け入れる覚悟はできていたのに、熱を感じたのは耳の下だった。そのまま解放されてしまったので、不思議がって彼を寄せようとする。
「待って今酔ってるから」
 今日はもう五杯も飲んでしまった。酔った勢いで大事なことをするのは、すごく気が引ける。そんな彼の意図とは裏腹に、由梨は立ち上がって聡に抱きついた。街灯の光が、彼女の瞳に星空を作っている。それを認めた直後、彼は目を閉じざるをえなくなった。
「……もー。シラフのときにしたかった」
「えー?明日もしたらええやん」
「もう」
 ムキになって、今度は自分からキスしてみる。時間もあるので、とよさとは無理矢理彼女を帰すことにした。彼女が母親に連絡すると、駅まで迎えに行くと返事が来た。改めて、早く解散してよかったなと感じた。
「ほんじゃ、また明日」
「由梨、これ」
 豊岡は、昼間に色違いで手に入れたグラスを彼女に渡した。
「ええの!?」
「オソロにしようと思って買ったから……」
 透明と紅のグラデーションが美しいグラス。買ってもらった人は幸せだなと思っていたが、まさか自分が貰えるなんて。ユリナは抱きつきたい気持ちでいっぱいになったが、駅前は人が多いので我慢した。
 駅と湖岸までまた歩いて、とよさとは宿泊先のホテルに入った。ラインのやりとりが止められない。明日寝坊しないか心配だ。
 裏で彼は、この街のことについて調べていた。電車に乗っている途中でヤンマーの文字を見かけたけれども、長浜市は工場が多いようだ。こちらで就活することを視野に入れてみてもいいかもしれない。
 それに、家賃がかなり安い。四万円台で綺麗な部屋を借りられるなんて、東京に住んでいるとよさとからしたら信じられなかった。東京で家賃四万というと、築うん十年の古臭いアパートばかりだ。
(長浜、悪くないかも……)
 じっくり考えて、貯蓄が尽きるまでに結論を出さないと。彼は部屋の明かりを消して、眠くなるまで琵琶湖を眺めた。

 朝食バイキングに焼鯖素麺が用意されているのを、とよさとは見逃さなかった。トレーの上は、料理でいっぱいだ。ユリナはさっき起きたばかりのようなので、ゆっくり味わって食べよう。
 待ち合わせの場所に着くと、赤い車が近づいてきた。助手席に乗り、朝の挨拶を済ませた二人は、早速行く宛のないドライブを始めた。
 湖岸を少し走った後、アンダーを通ってうねうねと好きな道を走る。やがて高校の脇に出ると、ユリナが「ええもん見せたろ」と言ってきた。
「これ、長浜市役所なん」
 駐車場に入ると、目の前には黒色の洗練された建物が。
「すっげー!新築?かっこいい」
「三年くらい前に出来たんかな?持ってやーるでこれ」
 ユリナは前方を注意しながら、親指と人差し指で作った円を見せた。とよさとは笑いながら、市役所で働くのも楽しそうだなと考えていた。

 彼らはドライブをしながら、町名の読み方クイズをしていた。宮司町や川崎町は簡単に当てられたので、いじわるなユリナは馬車道へ入る。早速山階という難読な町名が現れ、唸るとよさとを見て彼女は笑いが止まらなかった。やましななんて、地元の人じゃないと読めないだろう。
 口分田(くもで)、保田(『ほだ』ではなく『ほうで』だ)を通過しながら、パッソは姉川へ到着した。
「琵琶湖から流れたる川はなー、瀬田川の一本だけやねん」
「一本だけ?知らなかった」
 虎御前山に着く頃には、太陽は大分高いところに昇っていた。ずっと座っているのも疲れるので、二人は疲れない程度にプチ登山することにした。自然を楽しんでからここを発てば、丁度いい時間に昼食にできるだろう。

 虎御前山を北に出て、河毛駅と高月駅を見てから、さらに北西にある北近江リゾートに向かった。日帰り温泉と料理が楽しめる施設だ。朝もバイキングだったとよさとだが、朝食を取りすぎたので、量を調節できるから丁度よかった。
「パン美味しいで!」
 寝坊したせいで朝を抜いてきたユリナは、幸せそうに前菜を頬張っている。
「ここ温泉あるんだよね?入りたいな」
「ほんなら入ろっかー」
「ホテルにも露天風呂あったんだよ」
「ほうやったん?ええなあー。ホテル泊まるのってわくわくするやんな」
「うん、久しぶりに泊まったから楽しかったよ」
 パンが気に入ったようで、彼女はおかわりしてきた。上品に千切って口に運ぶ姿が、なんとも愛らしい。こんなに美味しそうにごはんを食べる人が一緒だと、毎日楽しいだろうなと聡は思った。
 突然スマホを操作し始めたユリナは、画面を彼に見せた。そこには「春照」と入力されたメールの下書きが映し出されていた。
「これなあ、なんて読むと思う?」
 長浜市のお隣、米原市にある地名だ。伊吹山の麓に位置する。
「……はるてる?」
 くすりと笑ったユリナ。
「『すいじょう』って読むんよ。絶対読めんくない?」
「ほんま。すいじょうは読めないね」
 他にもなー?と、ドライブ中遊んでいた地名当てクイズの続きをする。南の方にある「膳所(ぜぜ)」、長浜の「垣籠(かいごめ)」、「列見(れっけ)」、すもうではなく「相撲(すまい)」、高島市の「朽木(くつき)」、米原市の「顔戸(ごうど)」、……。箸を持つ手がゆっくりになっているのも忘れて、彼らは遊びに没頭した。
「後はなー、焔魔堂っていう地名もあるんやでー」
「えんま?怖―。お寺でもあるのかな」
「それからな、浮気、って書いて、ふけってところもあるん」
 へえ、と感嘆するとよさとを、ユリナはじっと見た。彼はそれに微笑で応える。
「聡は浮気せーへん?」
 失笑するとよさと。
「するわけないじゃん」
「ほんまー?」
 なんだかやけに心配しているので、この後なるべく手を繋ごうと決めたのだった。

 お風呂に入って一服していると、そろそろいい時間になってきた。太陽が赤みを帯びながら西へと傾いていく。
「米原まで送ってくわ……」
「ありがとう。助かる」
 ハンドルがやけに重く感じる。次にとよさとと琵琶湖を見られるのは、いつになるだろう。四百キロ、三時間。二人を容易く引き裂ける距離だ。
「また来てくれる……?」
 別れの時間が近づくにつれ、由梨のテンションがどんどん下がっていくのが分かった。
「絶対遊びに行くよ。次はもっと長居できるように、日程を調整してみる。もしいい条件が見つかったら、長浜で仕事見つけてもいいかなーって」
「ほんま!?引っ越してきてくれるん!?」彼女の表情がぱっと明るくなった。「来て!絶対来て!長浜ええとこやし!絶対来てー!」
 とよさとは強く頷いた。またユリナは、自分の背中を押してくれた。これから先、何回彼女に救われるのだろう。恩返ししたい、と、とよさとは思った。
 湖岸道路を外れて、米原駅へどんどん近づいていった。すごく寂しいけれども、希望のある、晴れ晴れしい別れだ。
「送ってくれてありがとう」
「気をつけて帰ってな?」
 ロータリーに車を停めると、とよさとはシートベルトを外して手荷物を携えた。
「由梨」
「ん」
 最後に、お互いの願いを軽く交わして、彼は駅へ入っていった。聡は途中何度も振り返って、手を振り、由梨もその度に手を振り返した。
“電車、座れたかあ?”
 家に帰ったユリナは、真っ先にそうラインした。

 とよさとがいつでもユリナの会える距離に引っ越すのは、そう遠くない未来の話かもしれない。

薄氷雪
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薄氷雪

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