風のない日
家に帰ると、ネットを開き、余呉湖の天女伝説について片っ端から調べた。これで、何か解決するのか半信半疑だったが、じっとしていられなかった。
次の日も僕は大学を休み、天女伝説が書かれているという「近江国風土記」についての資料も読み漁った。
天女の資料を読むうちに分かったのは、羽衣を纏うと、記憶が全て失われてしまうということ。そして、天界へ行かなければ行けないということだった。
「これだ」
僕はこの文章を読んだ時に疑念が確信へと変わった。
葉は、「自分が忘れられること」を恐れていた。そして、「柳と約束したのは一年」と言っていた。台風で柳が倒れたのが、二〇一七年十月二三日で、葉が天女の子孫だと仮定した場合、葉が天界へ帰るその日は、二〇一八年十月二三日。明日だった。
僕はまだ葉の事が分かる。記憶ははっきりと残っている。だから、この地上に絶対に葉がいると信じられている。
すぐに、僕はこの事を、直樹と梓に話したが、2人は一切、取り合ってくれなかった。
そして僕は一人でその日の内に柳の元へ向かった。
葉が現れるとしたこれから、これから二四時間以内だ。
しかし、いくら待っても、葉は現れず、時間だけが過ぎていく。僕は信じて待つことしかできなかった。
時計がまだ夜の明けきらない、午前四時を回ったときだった。
一人の女性が現れた。黒髪のロングヘアー。見た途端、葉だとはっきり分かった。
僕は無心でそっちに向かって走った。
「葉!」
葉が驚きながらこっちを向く。
「幾太くん。なんでいるの?」
葉が初めて見た時と同じ悲しげな表情で言う。
「誰だい?」
大柄な男が僕に言う。
「お前こそ誰だよ」
「私はこの子の父親だ」
大柄な男は葉の父親だった。
「葉をどこへ連れて行くんですか」
「君には関係ないだろう。早く帰れ」
「嫌です」
僕はこんなに自分がはっきりと物を言えることに初めて気づいた。
僕と葉の父との間はもう、一触即発の状態だった。
「お父さん、ちょっと2人にして」
葉が割って入った。
「ダメだ」
「10分だけでいいから。娘の最後のお願いくらい聞いてよ」
少しの間、葉の父は黙った。
「分かった。10分だけだぞ」
そして渋々許した。
僕たちは少し離れた余呉湖のほとりに移動した。
ここは、初めて葉を見た場所だった。
「気付いちゃったんだ。私、言いすぎちゃったもんね。幾太くんの前だと何か全部言えちゃって」
葉が沈黙を破る。
「うん。全部分かったよ。葉が何者で、どんな事を背負っているのかも」
「それ知ってどう思った?」
「葉は葉だよ」
「嘘!」
葉は目に涙をいっぱいに溜めて叫んだ。
「不気味だと思ったでしょ! 私、人間として生まれて、天女の血なんてほとんど流れてないのに。去年、柳が倒れた途端にこんな未来を背負わされて。どうして良いのかわかんないの!」
そう言うと葉は大粒の涙を流した。
葉のこんな姿を見るとは夢にも思わなかった。
そして、僕は葉にそっと近づいて、強く抱きしめた。
葉が僕の胸で泣きじゃくる。
「大丈夫だよ。僕が絶対にそんな事させないから」
僕は葉と約束した。
そして僕たちは元いた場所に戻った。そこには、更に2人の男が増えてていた。見たことのないような衣服を着ており、恐らく、神官であることが分かった。
「さぁ、準備はできたか。」
神官の一人が言う。
「いいえ」
僕が返した。
「貴様、何者だ」
「葉の親友です。絶対に葉は渡さない」
「何を言っている。これは決まりなのだ。あの柳から見つかった羽衣は、この娘の祖先のもの。そうなれば、この娘は天界に帰らねばならない」
「ふざけんなよ。勝手に決めんな」
そう言うと僕は渾身の力を込めて、神官に殴りかかった。
完璧に決まったと思ったが、神官は顔色一つ変えずにそこに立っていた。
「どけ」
僕は一瞬でぶっ飛ばされ、もうひとりの神官に腕を掴まれた。
全く身動きが取れない。
「待てよ! やめろ!」
僕は精一杯の声で叫んだ。
「幾太くん!」
葉も大声で僕を呼ぶ。
そんな葉に神官が羽衣を着せようとしている。このままでは、葉の記憶も、僕の記憶も消えてしまう。
しかし、どれだけ力を込めてもびくともしない。
諦めようとした時だった。
「待つのじゃ」
聞き覚えのある声だった。
振り返ると、そこには、柳で出会ったお婆さんが立っていた。
「大おばば様」
神官たちが一斉に膝をついた。
「お前達、この者たちを見逃してくれんか」
お婆さんが言う。
「ですが、これは決まりですので」
神官が下を向きながら言う。
「我々は何世紀にも渡って下界で人間を見て、そして人間と恋にも落ちてきた。もはや、純血と呼べるのは、天界におるごくわずかだけじゃろうが。この娘には、天女の血は流れておらんわい。ワシも下界で長く暮らし、すっかり人間びいきになってしまった」
神官がお婆さんの顔を見る。
「我々、天女は人間と交わった瞬間に力を失ってしまう。羽衣さえ、数世紀に渡って見つかっておらんかったのに、ワシが、柳に中でついうっかりしてもうての」
そうお婆さんは笑いながら言い、お婆さんは柳そのものだったんだと言うことが分かった。そして、あの時、僕に葉を守れと暗に教えてくれたことも。
「我々に決定権はござざいません。下界の事は全て大おばば様に従えと申し使っております」
神官が言う。
「娘。お前はその男を愛しておるか?」
お婆さんが葉に聞く。
「はい。大おばば様」
葉が頬を赤らめて静かに答えた。
「ならば、精一杯生きよ。小童、貴様もじゃ。この娘を命を掛けて守ってみい」
そう言うと、お婆さんと神官は消えた。
次の瞬間、葉の父が膝から崩れ落ちた。
「葉。良かった。本当に良かった」
父親が葉に抱きつく。
「ちょっと、お父さん」
葉が笑みをこぼしながら言う。
その後、とてつもない安堵感に駆られながら、葉の父と僕も喜びを分かち合った。
葉の父は休むはずだった、仕事に向かい、葉と2人きりになった。
「葉。さっきおれの事好きって言ってたけど本当?」
うやむやになっていた事を聞いた。
「うん。こないだ言ってくれたときもそう。私は幾太くんが好き」
また頬を赤くしながら葉が言う。
「私が本当に毎日怯えてた時に急に現れて、私と同じような、寂しい想いをしたのに、私を励ましてくれた。笑わせてくれた。そんな幾太くんに、私、ダメなのに……どうして良いのか分からない位、惹かれちゃったの」
もう、それ以上言われると、僕は泣いてしまうのが分かったから、葉をただ、抱き寄せた。
「ありがとう。葉。地上で僕の前に現れてくれて。何があっても守るから」
僕はがそう葉に囁くと、葉の身体は小刻みに揺れていた。
そんな、僕たちを祝うかのように、今日は風がなく、余呉湖の水面には天国が落ちてきていた。
僕たちが、家に戻ると、直樹と梓が待っていた。
「葉。良かったぁー」
梓が大泣きしながら葉に抱きつく。
「ほんまに良かった! 何がどうなってん?」
直樹が半泣きで聞いてきた。
「それは、おれと葉の秘密だよ。あとおれ達、付き合うから」
直樹と梓は自分がどういう感情になれば良いのか分からず、見たこともないような顔をしていた。
その顔を見て、葉は今までに無い、まるで本当の天女のような美しい笑顔を見せた。
それから暫く経って、僕たちは普段の生活に戻りつつある。
変わったのは、僕と葉が2人で出かけるようになったこと。それが、直樹と梓は気に入らないらしく、たまに付けてくるが、それが結果的に2人でデートしていることにはまだ気付いてないらしい。
この街に越して来て、もうすぐ1年になる。絶望から始まったが今では毎日が本当に楽しい。
「幾太! 早く起きなさい」
母がいつものように起こしに来た。
寝ぼけ眼で、2階の部屋から下へと降りる。
「やっと起きたか。朝飯作ったから早く食べろよ」
父が言う。
メニューは、ご飯に味噌汁に、卵焼きだ。
「親父、この卵焼き美味いよ」
今では父の作る卵焼きも好きになっていた。