2不忍池

 翌日の午後、僕は轟氏に指定された待ち合わせ場所に出向いて驚いていた。
 意外過ぎるその場所は台東区、上野。西郷さんの銅像があることで有名な上野公園のすぐ向かいにある、
不忍池(しのばずのいけ)のほとりだった。
 この場所を初めて訪れた僕は、蓮が群生する池のほうを物珍しげに見つめてボーッと突っ立っていた。
すると向こうから、僕を呼ぶ声が聞こえた。

「オーイ、音弥君、ここ、こっちだよ!」
ハッとして声のするほうを見ると、渡橋の向こうで手を振っている、轟氏の姿があった。その背後には、
朱塗りの美しい八角堂が建っているのが見えた。その上部には、「不忍池・弁天堂」と書かれていた。

「こんにちは、お待たせしてすみません。実は僕、ここに来るのは初めてで・・・」
 頭を掻きながら正直に告げると、彼は笑ってこう言った。
「ハハッそうだったのか?それならきっと君は知らないだろうな?実はこの不忍池はね、琵琶湖を模して
造られたものなんだよ。その昔、京都からここ東京に都が移された時、鬼門であるこの場所に鬼門封じとして、
この弁天堂と寛永寺が建てられたんだ。」
「へえー、それは知りませんでした。」
「しかもね、この弁天堂は、琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)とちょうど同じ位置にあるんだよ。あそこには
日本三大弁才天のひとつとして有名な、弁天堂がある。」
 
 竹生島の名前なら、僕も知っていた。
琵琶湖の中ほどに浮かぶその島は、滋賀のパワースポットとして有名で、近年若者たちがこぞって訪れている
人気の場所だ。東京の有名な観光名所と故郷の聖地に意外なつながりがある事を知った僕は、驚きを隠せなかった。
 そんな僕の反応を満足気に見た轟氏は提案した。
「まあ、そういうわけで長浜と縁のある場所に来たんだから、中に入ってお参りして行こう。」

 不忍池弁天堂の主祭神である弁才天は弁財天とも呼ばれ、人々に豊かな才能と財力をもたらす女神なのだという。
もともとは、インドの河の神に由来することから、水の神様としても崇められているらしい。

(水の神と言えば、龍神様とも繋がりがあるんだろうか・・・?)
 参拝を済ませた僕は、そんなことを考えながら祭壇の脇に売店がある事に気付いた。
何気なく陳列されている物を眺めていると、その中にひときわ輝く黄金色のお守りがあるのを見つけて思わず
手に取ってしまった。

「ほう?それは龍神様のお守りじゃないか?」
背後から轟氏の声がするので振り向くと、彼も僕にならってその隣に並んでいた色違いの黒いお守りを
手にしている。それぞれのお守りには龍の刺繍が施されており、その下には赤い字で「天竜開運」と
記されていた。
「音弥君、せっかくだからこのお守りを記念に買って帰らないか?」
僕は文句なく同意して、僕たちはそれぞれ金色に輝く龍神様のお守りを手に、弁天堂を後にしたのだった。

 参拝後、もと来た道を歩いていると、轟氏はこう言った。
「音弥君、実はここ上野にはもう一カ所、長浜とゆかりの深い場所があるんだよ。
それもここから目と鼻の先にね?」
彼はそう言うや否や急に歩く速度を速めて橋を渡りきり、右方向に進んで行った。そこで僕は慌てて
彼の後を追った。

 「琵琶湖長浜・KANNONHOUSE」
 数分後、彼はあるビルの前で立ち止まり脇道の前に出ている看板の前に立った。
「カンノン・・・ハウス?」
 その言葉が何を意味するのか解らずに、僕は首を傾げていた。
「いいから入って。中を見ればわかるから」
彼はそう言って僕の背中を押した。そこで訳がわからないままに、入口の扉を開けた。

 一歩入るとそこは、モノトーンでまとめられた小さな空間になっていた。奥に進むと部屋の片隅には、
意外な物が展示されていた。お堂のように造られた木枠の中心にはガラスケースがあり、その中にひっそりと納まって
いるのは一体の観音像だった。
「そっか、カンノンっていうのはつまり、観音さまのことだったんだ!」
「ご名答!その通りだよ。ここ長浜カンノンハウスでは、長浜にある観音様たちを運んで2、3ヶ月おきに
交代で展示公開しているんだよ。」
「なるほど、そういうことだったんですか?」
わざわざここまで運んで来るなんて、ご大層な事だなあと僕が感心していると、近くにいた係の女性が
詳しく説明してくれた。

「長浜は、古くから観音様への信仰が篤く、”観音の里”としても有名な場所なんです。
市内には130体もの観音像が保存されていますが、それらの像を故郷とゆかりのある、
ここ不忍池のほとりで公開することによって、より多くの人々に長浜の大切な文化を知って頂きたい
という主旨のもとに、ここは有るのです。よろしければ、ビデオをご覧下さい。」
 
 彼女に勧められ僕は椅子に腰掛けて、10分程の映像を鑑賞した。
それによると、長浜の観音様は長い歴史の中で何度も、戦乱や災害などの不幸に見舞われて来たそうだ。
 しかし、その度に人々は観音像を土の中に埋めたり川の底に沈めたりして隠し、護り通して来たのだという。
そのため幾つかの像は損傷して痛々しい姿になってしまったが、人々は決して捨てたりせずに、先人から
受け継がれた観音様たちを、今でも大切に祀り続けているのだと言う。

「長浜の人々の観音様への信仰は、よくある現世利益を願うためのものばかりでは
なくて、神様や仏様といった聖なる存在を、日々の生活の中で大切に慈しんで行こうという純粋な心が現れているんだよ」
 轟氏はしみじみと語った。
 そういえば余呉のおじいいちゃん家の仏壇にも、小さな観音様が飾られていたっけ?
毎朝毎晩決まって手を合わせているおじいちゃんおばあちゃんの姿は、とても印象的だった・・・
 ガラスケースに納められた柔和な表情の観音さまを仰ぎ見ながら、僕はそんな事を思い出していた。

「ああ、来て良かった。すっかり心身がリフレッシュされた気分がするよ。君はどうだい?」
外に出るとすぐ、彼は伸びをしながら聞いて来た。
「そうですね、そう言われてみれば・・・」
「だろう?あの場所はいつ訪れても、清らかな空気が満ち溢れているんだよ。まさに都会のオアシスだな」

(オアシスか?確かにそうかもしれない・・・そうだ!これからは時々ここに来ることにしよう。そして
観音さまのお姿を拝見しつつ故郷を思い出して、パワー充電しよう!)
 この時僕は、心の中で考えていた。

「ところで君、まだ時間はあるかい?良ければどこかでひと休みして行かないかい?」
「いいですよ、まだ充分時間はありますから。そうだ!それなら今度は僕が案内しますよ」
 待ち合わせ場所が上野と聞いた僕は、夕べスマホで周辺の店を下調べしていたのだった。
「ええっとこの近くには一軒、和風カフェが有りますよ。あ、4時からはバーになってお酒も飲めるみたいです」
「おっ、それはいいねえ。そこに決まりだな?」
 そんなわけで店は即決し、僕達は最近流行の古民家風カフェの暖簾をくぐった。
奥の席に着くと早速、彼はビールをふたつ注文した。

「さあ、まずは祝杯をあげなくてはな?橘音弥君のデビュー公演の成功を祝って!」
 轟氏はそう言ってジョッキを高々と僕の前で持ち上げて見せた。
「ウーン、なんかちょっと照れますけど、それでは有り難く、カンパーイ!」
 乾ききった喉にキンキンに冷えたビールはたまらなく美味しくて、僕は思わず
「ハアーッうまい!!」とオヤジのように唸ってしまった。それからあらためて、轟氏に礼を言った。

「昨日はわざわざ公演に来て下さって、ありがとうございました。それに今日は長浜ゆかりのスポットにまで
案内して頂いて」
「いやあ何、こちらこそ。君の龍笛の演奏は前からずっと聴いてみたいと思っていたからね?
だから念願叶って嬉しかったよ。今日上野を案内したのは、お礼を込めてのサプライズプレゼントと言ったところかな?
それにしてもすごかったぞ。演奏を聴いている間中、僕は異空間にトリップした気分だった。客席にいた人の多くが
そう感じたんじゃないかな?それともうひとつ、目を閉じていた時僕のまぶたには鮮やかに、君が龍にのって大空を
駆け巡る姿がハッキリと見えたんだから、たまげたよ」
 アルコールが入った彼は興奮気味にそう語った。彼のその言葉は、僕の胸の内にしまい込まれていた記憶の扉を
一気に開け放った。

 それは去年の夏のこと・・・
故郷に帰省していた僕は、近くにある余呉の湖で、決して忘れることの出来ない体験をしたのだ。
その湖には「菊石姫伝説」と呼ばれる物語が残されている。
 その昔、干ばつに苦しんでいる人々を救うため、菊石姫という一人の娘が自ら湖に身を投げた。その結果、
姫は龍となって雨を降らせた。姫は自分を養育してくれた乳母のため、神通力を持つと言われる自らの両目を
抜き取って与えた。その目が当たって凹みがついたと言われる”蛇の目玉石”が、今でも湖畔に残っている。
 
 その悲しい物語を知った僕は胸を打たれて、姫のために毎日のようにその場所に通って龍笛を奏でた。
 そうして何日か経ったある満月の夜、突然龍となった姫が湖中から姿を現したのだ。そして僕を自らの背にのせて
大空を舞って見せてくれた。姫はまたテレパシーで語りかけ、当時奏者として悩んでいた僕に勇気を与える
アドバイスまで与えてくれたのだった。翌日倒れていた僕をたまたま見つけて介抱し、僕が体験した驚愕の出来事を
全て聞き、理解してくれた恩人が、乎弥神社の神主、轟宗次郎その人なのである。

「あの日を境に、僕の笛の音色は劇的に変わったと思います。
特に集中力が高まって無心で演奏している時には、菊石姫の存在が身近に感じられる時もあるんです」
 グラスに立ちのぼる細かい泡を見つめながら、僕はそう告白した。
「ふうむ、そうだったのか?それで君の演奏を聴いていると、不思議な感覚を覚えてしまうという訳か?
あの出来事をきっかけに君と菊石姫の間には、何か特別な絆が結ばれたのかもしれないな・・・」
 彼はそう呟くと、新たに注文した日本酒の杯をあおった。

 その後僕達はしばらくスピリチュアルな世界のことについて、酒を酌み交わしながら語り合った。
彼によると近年、学者仲間(彼は歴史学者の肩書きも持っている)の間でも、高次元の世界の存在について
話題にのぼる事が増えており、世界中でそうした世界に住む者達からのコンタクトがあった例が報告されているという。
そしてそうした事実は恐らく今、地球全体が新たな次元に向かって変化の時を迎えている事が背景にあるらしいと述べた。
その上で、僕が体験した出来事は重要であると言い、今後もまた姫からのコンタクトが来る可能性もあるので、
その時には必ず連絡して欲しいと言った。

 久しぶりにゆっくりと語り合い、満足して外に出ると、夕日がまさに落日のときを迎えようとする所だった。
金色に染まった不忍池は美しく、僕達二人はしばし足を留めて、その絵のような光景に見入った。

「ところで君は、この夏も帰郷出来そうかい?」
「はい、ぜひそうしたいと願っています。久しぶりに母の墓参りもしたいので」
「ああ、それはいいね?君の舞台の成功を報告すれば、お母さんもきっと喜ばれるだろう。
8月には祭りもあるから、それをめがけて帰って来いよ」
 それじゃあ、また逢おう!彼は片手を上げて夕闇の迫る街並に消えて行った。








 



神倉万利子
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神倉万利子

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