奇跡的な接触
翌日の放課後、重徳は学校から例の図書館に直行した。しかし、少女は来ていないようだった。せっかく来たのに、と少しがっかりした重徳は少女の事を石黒に訪ねてみた。「昨日のあそこに座っていた子はいつも来ているんですか。」石黒は忙しそうにカウンターのパソコンを触りながらも、穏やかな口調で重徳に微笑みかけた。「ああ、あの子は毎日来とるよ。今日もそろそろ来る頃じゃないかね。」
重徳は心の中でほっとした。それは無論、図書館に訪れた事が無駄足にならずに済んだ事への安堵の気持ちからくるものではない。「あの子も確か高校三年生で受験生だったね。早いもんだ。」独り言のように石黒が呟く。時が経つ事に対してまるで自分は関係のないかのような言い草に、不覚にも重徳の頰は少し緩んだ。
重徳は昨日と同じ席に着こうと思ったが、今日は自分の方が先に来たので、昨日少女が座っていた席に着くことにした。十五分ほど参考書をパラパラとめくっていると、斜め向かいの椅子が動く音がした。見ると昨日のポニーテールの少女が昨日の自分が座っていた席に着いていた。相手も自分のことを意識しているのではと少し嬉しくなった重徳であったが、なんとか平然を保ち参考書に目を落とす。すると、なにか視線を感じる気がしたので再び顔を上げると、少女が自分の方を覗きこんでいた。
重徳の視線に気がついた少女は、
視線を落とすことなく、真っ直ぐではあるが今度は何処かイタズラ心のあるような表情で、照れ臭そうに微笑んだ。思いがけない少女の行動に、重徳の顔にも思わず笑みが零れた。しかし、話しかける勇気の出ない重徳は、高鳴る鼓動を抑えながら何ごともなかったかのように再び参考書に目を移した。
一時間ほど経っただろうか。
暖かい春の夕暮れの陽気につつまれ、重徳は夢と現実の世界を行き来していた。
「英語が得意なんですか?」うとうとしていた重徳は驚いた様子で大袈裟に飛び起き、顔を上げる。その様子が可笑しかったのか、少女は楽しそうに微笑みながら続けた。「だって私が来た時からずっと英語ばかりやっているから。」少女の意地悪そうな笑顔に内心ドキッとしながらも、重徳は寝ぼけた低い声で答える。「いや、逆に英語が苦手なんですよ。だからずうーっとやってたの。大体ね、大学に行くのになんで英語をやらないといけないのか僕にはぜーんぜんわからないね、だって日本人だもん!」ジェスチャーを交え戯けたように見せようとした重徳だったが、少女の反応が少し心配になり、恐る恐る顔を上げる。少女は一秒ほど面を食らったような顔をしたが、直ぐに声を出した笑いだした。「クセが強いですね、おかしくなっちゃった。」自分の渾身のネタが受けた事に感激したと同時に、自分の考え方を受け入れてもらえたような気がして少女に親近感を覚えた重徳は、息を大きく吸って深呼吸したあと、落ち着いてはいるが少し震えた声で少女に問いかけた。「得意な教科は?」思いがけない素っ頓狂な質問に一瞬目を丸くした少女であったが、直ぐに頰を緩め、穏やかな口調で答える。「英語です。大学は国際系の学部を志望していて、将来はキャビンアテンダントになりたいと思っているの。」ああ、しまった、重徳は英語は必要ないなどと言ってしまった数秒前の自分を殴ってやりたいと思った。「そ、そうなんだね!それなのにさっきは英語の悪口を言ってしまって、ごめんなさい。」空気を悪くしてしまった、と自分を責めたのも束の間、少女は間髪入れずに話し始めた。「ううん。気にしないで。それよりここ、間違えてるよ。」重徳がさっきまで解いていた英語の参考書の問題部分を指差し言い放った。重徳が返事に困っていると、「ここはね...」少女は今度は席を重徳の隣に移し、問題の解説を始めた。少女との距離が近くなった重徳は正直問題どころではなかったが、少女の真剣な説明を真摯にきかなければ彼女に失礼だと思い、全身の集中を耳に傾けた。「どう?わかった?」
少女が真剣な眼差しで重徳を見つめる。「うん、ありがとう。」しばらく声をきいて少女と話すことに慣れた重徳は、すっかり落ち着きを取り戻していた。そしてそういえば、重要な事を聞き忘れていた事に気がついた。「僕の名前は轟重徳。君の名前は?」
「私の名前は中島桜。私が産まれた時は桜が満開で、桜のように、人に元気や勇気を与えられれようにって、両親がつけてくれたの。よろしくね。重徳くん。轟なんて珍しい名字だね!」
「よろしく!桜さん、いい名前だね!」
その後は暫く2人並んで勉強した後、また来るね、と念を押し解散したのであった。