再会
日の差し始めた地上部と違って船底は常夜の暗さだ。廊下にあった小さな灯火も消えかかっていた。
船底にはまず治部が下り立ち、刑部が続く。
「さ」
目の良くない刑部のために治部は手を差し出した。治部の手を取った刑部の手はひたりと冷たい。
「寒い? 大丈夫か?」
「ああ。だが俺の手、そんなに冷たいのか?」
刑部は治部に申し訳ないと思って手を振りほどこうとしたが治部はかえって刑部の手を握りしめた。
「そういう意味じゃない。海に落ちたあと甲板で風にもさらされ、寒いに決まっている。心配だ」
「そうか、ありがとう」
実際治部の手は暖かくて気持ちが良かったので刑部はそのまま治部の手を離さなかった。
「でもほら、もう着くから」
治部の言葉通り、さほど長くない廊下なので牢まではすぐだった。しかし先ほどまで治部がいた牢の扉は開いていて中には誰もいない。
「人の気配はもう少し向こうの方で沢山するぞ」
刑部がもう一つの牢の方を指さしたので治部も同じ方へ視線をやった。そちらの扉は荷物のようなものによって窓格子の高さまで内側から完全に塞がっていた。
「向こうの牢の方に皆で集まって立て籠ったのか」
守る扉は一つに絞ったほうがいいに決まっている。刑部はそこまで指示を出していないので、人々自身でどうすれば適切に自分たちの身を守ることが出来るか考えた結果だった。
「紀ノ介が皆を呼んであげて。俺は女性のふりに戻る」
やはり説明の手間と時間を惜しんだ治部は女を貫くことにし、小声でそう言って刑部を扉の前に立たせた。
「そうか、そうだな」
こういうとき率先して発言するのは基本的に治部の方なので刑部は少しどぎまぎしながら扉を叩いた。
「おおい! もう危険は去った! 迎えに来たぞ!」
それまで静かだった扉の内側が沸き上がるように騒がしくなった。
「お、お武家さまだ!」
「うおおお!」
「今! 今すぐに扉を開けますので!」
刑部の一声で扉を塞いでいたものは次々に取り払われていった。何事も積み上げるのは大変だが崩すのはすぐできることだ。南蛮の者を追い払ったその強固さからは考えられないほど扉はすぐに開いた。
「よく、頑張った。見事な籠城戦だ! 全員、無事か?」
扉が開いて一番、刑部がそう言うと人々はそれぞれが大きくうなずいた。
刑部には人々が首を縦に振ったか横に振ったか見えていない。だが全員無事だと察せるほどに安堵の空気が牢の中を満ちていた。
「良かった。安心しました」
治部は女の設定に矛盾しない声と口調で当たり障りのないことを話した。もちろんそれは本心ではあるのだが、扉が開いた瞬間から治部の目は袖を探すのに必死だった。
(どこだ、お袖さん!)
初めて袖に牢の中で出会ったとき、彼女は入口扉の付近に一人離れたところにいたので治部はまず扉付近を捜した。
しかし袖は見つからない。仕方がないので手前から奥の方へと順に目線を動かしていく。
(あっ、あれ!)
治部が袖を見つけたのは結局、牢の一番奥、光の全く当たらないところだった。注意して探さないと絶対に見つけ出せないほどに人混みの中へひっそりと埋もれていた。
治部はここで初めて気が付いた。
『……あれ? 新しく連れてこられた人? 気付かなくってごめん』
『大丈夫。私は味方よ。袖って呼ばれてる。すぐに目のやつと口のやつ、外してあげるから』
袖は連れてこられた人になるべくすぐ話しかけられるように、そして目隠しと猿轡を外してあげられるようにあの牢の中では扉付近に一人でいたのだ。
(お袖さん……)
治部が一旦、袖を見つけ出せると袖はずっと治部を見つめていたことに気が付いた。目が合うと袖は泣き出してしまった。
そんなに心配してくれていたのかと思うと袖が健気でいじらしい。ここへ袖や皆を迎えに来られたことは決して当たり前のことではなかったと治部はしみじみと実感した。
そういえば斧の船員に打たれた鎖骨のあたりはずきずきと痛んでいる。これがもし斧の柄ではなく、刃が当たっていたら……
治部は袖に向かってうんうんと頷きながら自分を含めた皆の無事を噛みしめた。治部の目はもらい泣きしてしまっていっぱいに潤んでしまった。
(ああ、だめだ。ちゃんとしないと)
治部は強く瞬きをして涙をぽろぽろと落としたあと、着物の裾でさっとはらって目に力を込めた。
「もう、そなたたちの自由を邪魔するものはありません。ですがこれから帰ると言っても食糧、路銀、連絡手段……何もかもが十分じゃありません。ここを全員で出た後、わたくしたちで奉行所へ話をつけてきます。よくしてもらえるようにするつもりです」
「奥様、何から何までありがとうございます。おらたち、なんとお礼を申し上げてよいか……」
一連の流れで人々の代表のようになっていた平作はなんとか言葉を発したが泣き笑いしている。他の皆もほっとしてうれし涙を流している。
(お、奥様!? そうか、そうだった)
すっかり忘れていた設定を改めて言われると少し気まずくなり、治部は刑部の方をちらりと見た。だが刑部は治部にだけ分かるようにやりと笑っただけだった。
「ほれほれ、もう少しの辛抱だから気を抜くな。舟を漕げる者は脱出を手伝ってくれ」
こういうとき完全に気を抜くと新たな問題が発生しがちであることを刑部はよく理解していた。船を全員で脱出するまで誰もかれも気が抜けない。
皆最後の力を振り絞るようによく動いた。地道に小舟で往復を重ねてとうとう全員で船を後にすることができた。