最後の謎

 港に着いてすぐ治部と刑部は一旦皆の元を離れ、人々は港で二人が奉行所へ掛け合う結果を待つことになった。
 そのような待つだけの時間でも、船底から脱出した人々にとっては誰にも邪魔されずに美しい朝の光を浴びられる貴重な時間となり、それでなくとも希望を持ちながら人を待つことに何の苦もないはずだった。
 しかし夜明けと共に海から人がたくさん港へ寄せてきたことは少なからず町民の目を引くことだった。そして噂はすぐに広まる。
 町民の中には「鬼に食われた」人の顔を覚えている者もいて、そのうち「鬼に食われた人々が海から帰ってきた」と瞬く間に騒ぎになってしまった。
 ここに貧乏くじを引いてしまった若い役人がいた。
 彼は中央で働いていたこともある役人なのだが、つい最近転勤を命じられてしばらく、この長崎の奉行所で働くことになっていた。
 その矢先のこの事件である。
 一体何が起こったのか誰に何を聞いてもさっぱり様相が掴めない。
 騒ぎが気になって港に集まって来た町民の何人かに話を聞くと「人食いの鬼じゃなかった」「神隠しだったのか」とまるで浮世離れしたものばかりで全く当てにならなかった。
 次に、港に急に現れた人たちにも直接話を聞く。だがここでもやはり「南蛮人にずっと捕まっていた」とか「船にまで助けにきてくれたお武家様がいる」なんておよそ現実とは思えないことを口々に言っている。
 それなのに唐入りの計画のせいで奉行所には純粋に人手が足りておらず、先輩役人と自分しか港に来ていないのだ。
 そうこうしている間に、町民たちがどんどんと集まってきて今では何層にもなる人垣が出来てしまった。
「こら! 野次馬は邪魔だ! 下がっていろ!」
 先輩役人がしっしっと虫を払うようにしたのだが人垣の中の誰かが
「何も出来ていないのに邪魔も何もないだろ!」
と言い返し、皆がどっと笑い、完全に馬鹿にされている。
「くそ、どうしろっていうんだ。人手さえありゃすぐにあんな奴ら蹴散らしてやるのに」
 町民たちの威勢に負け、ぼそぼそと町民には聞こえないように言うこの先輩役人は口だけ一丁前だが、そういう者にありがちの意気地なしだった。今の言葉だって数の暴力がないと何も出来ないと丁寧にも説明したことになっている。
 若い役人は心の中で泣きたくなった。自分はここへ赴任したばかりで長崎のこともよく分からず先輩役人だけが頼みなのに、この有様である。
「……某はもう少し人々に話を聞いてみようと思います」
 若い役人が完全に先輩役人を見捨てて一人で何とかできることをしようと宣言したとき、先輩役人はまた人垣の方を見つめていた。
「誰か来たぞ」
 若い役人が先輩役人と同じ方を向くと、いつの間にか人垣が一本線を引いたようにぱっくり割れていて、そこから二人の武士がこちらに向かって歩いて来ているのが見えた。
「良かった、応援じゃないですか」
「いや、見たことない人だ」
「えっ」
 その二人の武士は一言も言葉を発していないが人垣を構成していた町民たちは「偉い方が来た」との直感で自ら道を開けているようだった。もれなくいつの間にかしんとしている。直感は正しい。
 若い役人はその二人が人垣を抜けてとうとう自分の間近にまでやって来たとき二人の正体に確信を持った。
 豊臣の獅子と牡丹と呼ばれる、太閤殿下の側近中の側近――
「石田治部少輔(じぶのしょう)様、大谷刑部少輔(ぎょうぶのしょう)様!?」
「来るのが遅くなってすまなかった」
 本当にすまなそうな顔をしながら治部は言った。
「使いの者が上手くやったらしいな。話は全て聞いた。あとは任せなさい」
 刑部は悠々と薄く笑みを浮かべながら言った。
 二人は先ほどまで着ていた女の服や遊び人風の服でない、ちゃんとしたものに着替えていた。
 奉行所で一連の話をするとき、自ら船に乗り込んでおいて「通りすがりの者です」とはいかないので遅かれ早かれ身分を明かさねばならない。そのときに女装や遊び人の格好のままでは持っている立派な地位との隔たりが大きすぎて話がややこしくなる。
 そう考えた二人は助七と麻が待つ宿へ一旦戻り、助七たちを驚かせたまま着替えてすぐ、とんぼ返りに宿から飛び出し奉行所へ向かっていたのだった。
 だが奉行所にはそういう重大な話をする相手ではないような、眠た目をこする若い留守居しかいなかった。それで役人とすれ違いになってしまったと気づき慌てて港へと戻ってきたのが今だ。
 固唾を飲んで見守っていた人垣が堰を切ったように再びざわめき始めた。船に囚われていた人々も同じくざわめく。
 刑部は「使いの者が」と言ったが、自分たちを助け出してくれたのは紛れもなく今現れた石田治部と大谷刑部だとこちらは二人の背格好や声で確信したからだった。
「……お、おらたち、大変な方にお助け頂いたんだな……!」
 平作は特に刑部とよく喋っていただけに驚きも大きい。
「私も、流石に豊臣の獅子と牡丹って聞いたこと、あるわ……」
 もう一人、驚きの特に大きいのは治部と一番話していた袖であり、袖と平作は互いに顔を見合わせた。
「でも、なんか良く分かんないけど、とにかく話は合わせておいた方がいいのよね」
「もちろんだ。船に来たのは使いの人だ」
 治部が意味ありげに囚われていた人々の方へ目配せすると各自、分かっているとでも言うようにこっそりと頷いた。
 治部はそれでほっとしながら、声はむしろ厳しい調子で早速指令を出した。
「どうしてかれらをこのようにさらしておくようなことをする。おぬしらは事情を知らないとはいえ、かれらに何かただ事でないことがあったのは見れば分かるだろう。早く奉行所の中で休ませてあげなさい」
「あ、はい……!」
 指令を受けた役人はもちろん、それを聞いた人垣の町人たちもそれがもっともだと思って、またそのためにぞろぞろと動いて道を開けた。
 今までの無秩序が嘘だったかのように流れがすとんと決まり、混乱は一つもなく、そのまま一行は奉行所まで辿り着く。
 奉行所では人々が休むための空間が確保され、家族へ手紙を出したい者にはそれを出させてやり、食事もその間に手配して全て行き届いた。
 そうして囚われていた人々が落ち着けるようになって、ようやく役人との情報の共有が始まる。“人食い”がなぜ起こったのかを一から説明していくのは中々骨の折れることだった。
 情報の共有が済むと次はさらに、この事件の始末をどうつけるかについて考えなければならない。
 南蛮船への対応については国と国との問題に発展しかねないことから、太閤殿下の裁可を仰ぐことにした。逆に梶屋への対応については全般的に役人たちに任せることにした。
 そういうわけで治部と刑部が一番深く関わったのは海賊たちへの対応についてだった。これは役人にもどのような仕置をするかよく説明した上で、一番袖とよく話していた治部が彼女たちに直接会いに行って言い渡すことになった。



 袖たちは加害者にもなりかけたが直接加害はしておらず、むしろどちらかといえば被害者であるという微妙な立場で、他の人々とは別の部屋に留め置かれていた。
 変装を解き、立派な姿となっている治部がその部屋へ現れると皆、どうやって応対すればいいのか分からず、ばらばらとぎこちなく頭を下げた。
 治部はこれから言い渡さなければいけない内容のこともあり、むしろ申し訳ない気持ちになった。
「堅苦しいからそんなの良い。楽にしてくれ」
「ごめんなさい。どうしていいのか全然分からないのよ、偉い人に会ったの、これが初めてなんだから」
「儂のあのような姿を見て置いて今更偉いも何もないだろう」
 治部が苦笑いすると袖は真面目な顔で首を横に振った。続いて南蛮の宣教師たちが祈りのときにする仕草のように手を胸の前で組み合わせた。
「そんなことはないわ。ちゃんとしたふるまいが出来なくて伝わらないかもしれないけど……だから口だけみたいに聞こえるかもしれないけど、感謝の気持ちも尊敬の気持ちもたくさんよ。私たちに合わせてこんなところまで下りてきてくれた。あなたが偉い人なのは身分のせいじゃなくてあなたの行動が偉いからよ」
 袖の純粋な言葉と瞳がより治部の心に刺さった。
「だが、そなたたちの仲間の男たちを捕らえているのは、儂だ。村で預かっている」
「えっ?」
 袖の表情がぴしっとこわばった。
「儂も後になって気付いた。だから隠していた訳でないのは信じて欲しい……そなたたちの仲間は南蛮の者と結んだ契約のための行動を実行して、長浜という町を襲ったのだ」
「うそでしょう」
「儂と刑部殿で長崎へ来たのは、捕らえていたうちの一人が『長崎で南蛮人に雇われた』とだけ言って死んだからだった」
「うそ……」
 袖は「こんなところまで下りて来てくれた」治部の役人としての側面を見せつけられた形となり、なんだか裏切られた気持ちになった。胸の前で組んでいた手が意識するでなく自然とほどけていた。
「儂たちが男たちを捕らえたのはちょうど半年前だ。それからずっと口を閉ざしてきたのにどうして今になって雇い主たる南蛮の者を裏切ってまで儂らに情報を伝えたか、分かるか」
「知らない」
 仲間の死も治部の変わり身も受け入れたくなく袖は気(け)だるく答えた。
「そうか。儂はそなたの話から全てが繋がったんだがな……」
 どうして今なのか――これが治部たちにとっての最後の謎だった。もう治部も刑部も答えに気が付いている。それをここで言ってしまうのは簡単だったが治部は袖自ら答えに辿り着いてほしかった。
「儂らは今、唐入りの最中だ。儂も近々そのための準備として高麗(こうらい)へ向かう。村もそれに合わせて準備で慌ただしくなっている」
「それと仲間が死んだことの何が関係あるのよ」
「まだある。長浜でのことは公になってはおらず、儂と刑部殿でしか関与できない」
 治部から放出される色々な情報に、ふてくされた様子だった袖も少し真剣になって考え始めた。
「その、あなたと刑部さましか私たちのことを知らないし関われないってこと、男たちは知ってたの?」
 治部はこくりと頷いた。
「儂の故郷の村にとどめ置かれていることから気付いていた」
 それを聞いて袖は唇をぎゅっと噛みしめた。
「唐入りの噂は私たちでも知ってた。だから男たちは周りの慌ただしさからあなたの唐入りを察せたはず……」
 袖は両手で顔を覆った。肩は小刻みに震えている。
「そんなの、もう、決まってる。……あなたたちが唐入りでいなくなってしまう前に、あなたたちに私たちを助け出させたかったのよ」
「儂も刑部殿も同じ意見だ」
 泣きじゃくる袖に治部はどうしていいか分からず、ぎこちなく背中をさする。
『忠と愛との間に揺れたんだなあ』
とは刑部の評である。
 盗賊たち、今は海賊たちと分かっている彼らは南蛮の者への忠を守りたかった。同時に仲間たちも大事だった。
 だからこの件に唯一関われる治部と刑部が唐入りでいなくなってしまうと察して初めて、仲間たちを救う鍵となる情報の断片を伝える気になったのだ。だが情報を渡した者は死んで詫び、他の者はそれ以上頑として口を割らなかった。
 今の感覚からするとこの忠義心は突飛に思われるかもしれない。だがこの盗賊たちの件に限らず「小悪党のような者までも日本人は忠義心を持っている」と驚く南蛮の者の記録は今も実際に残っている。
「だから、あの船の存在に気付き人々を見つけることができたのはそなたの仲間のおかげなのだ」
 治部はそう言ってうつむいて泣く袖をなぐさめようとした。
「……でも罪は罪。結局みんな罰を受けなきゃならない。死ななきゃいけないのよ」
 見せかけの優しさはいらないとばかりに、袖は治部の手を振り払った。
「そんな話をしにくるならこんな穏やかにいられるか!」
 治部は袖の真正面を向いてがっしりとそれぞれの手で袖の両肩を掴んだ。
「いいか。男たちが長浜を襲って罪を犯したのは確かだ。でもさっきも言った通り男たちのおかげで、見つけ出すことすら叶わなかった多くの人々を無事全員救出することができた。そこは加味されるべきだろう? よって死罪じゃなしに島流しとなった」
「島流し?」
 袖が顔を上げると治部は袖を真っすぐに見ていた。
 ああ、これよ、と袖は治部の瞳を見て思い出した。あの暗い牢の中で唯一きらきらとしていて、芯に力強さを秘めた瞳。
 袖は悲観的な気持ちがすう、と自分の中から去っていったのが分かった。治部もそれを察して今まで以上に優しい声で話しかける。
「流石に何もなかったことにすることは出来ないのだが……でもその島では漁業が出来る。食うに困るようなことはもうない」
「罰がそんなことでいいの? それどころかそんなの……」
 島流しと言われても海賊をしていたときは島から島を渡りながらの生活だったのでそれが裁きだという感じは全くしなかった。そして島では漁業が出来ると……! 食うに困らないことは何より嬉しかった。
「その代わり海賊稼業からは必ず足を洗いなさい。島での生活も初めは大変だろうが海賊をやったり、南蛮の者との契約で無茶したりする気概があれば絶対に乗り越えられる。大丈夫だ」
 治部が真面目な顔で言うので袖は思わず笑ってしまった。
「それは励ましの言葉なの?」
 そう言いながらも袖の瞳からは一度は驚きで引っ込んだ涙が再びあふれ出てきた。
「でも、本当に、ありがとう。真っ当に生きる機会を与えてくれて。頑張ってみせるわ、私たち」
 泣き笑いしながら袖が言うので治部の瞳もやはり潤んできてしまう。だが治部は泣かなかった。その代わりこれからの生活に立ち向かう袖や皆のため、言葉に気持ちを乗せた。
「生きている以上何をするにも等しく苦しいときがある。だったら自分で選びとった苦しさと立ち向かおう。追い立てられて望まぬ苦しさを味わうのはもう仕舞いだ! 頑張れ!」
 今の袖には治部の言葉の意味がありありと理解できた。これからの慣れない漁業や規則正しい生活には今までにない努力を要し、それは苦しいものだろう。でもそれは海賊をやったり人身売買に手を出したりしなければならない苦しさよりも絶対に前向きな苦しさなのだ。
「それは本当に励ましの言葉!」
 袖は数年ぶりに心からの笑顔を見せることが出来た。

江中佑翠
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江中佑翠

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