虎穴に入らずんば

 盗賊の意表をつくため長浜城へ潜入したときと違い、今回は人身売買の有無について確かめるのが目的なので梶屋へは堂々と宿泊客として潜入することにした。
 そこでもしその現場を確認したなら、人買いを尾行してその本拠地を直接見つけ出す。
 しかし治部は麻に自分たちの身分が見抜かれていたことで変装に対してすっかり自信をなくしていた。
 もし中央から来た武士だとすぐにばれてしまったなら梶屋は警戒してしっぽを出すそぶりも見せないだろう。
 それに昨晩の南蛮の者たちが人買いである可能性も捨てきれない以上、その者たちで「武士の二人組には気をつけろ」と梶屋に注意喚起までしていたら……?


「梶屋へ行ってくる」と助七の前に姿を見せたのは男と女だった。男の方は刑部である。髷も着ている物も少し崩して遊び人風になっていた。
 女の方は見たことがない……と言いたいところだが、背丈といい黒目がちな力強い瞳といい、そして何より刑部と一緒にいるのだからこの人しかいない。
「佐吉さま?!」
 治部はふふん、と笑ってみせた。
「どうだ、助七どの。これならばれないだろうか」
 助七はその声にも驚いた。芯の強い知的な女性を思わせる朗らかな声だ。
「ええ……ばれないどころか……」
 街をこれで歩いたら違った意味で目立ってしまうのではないかと危惧されるほど治部は美しかった。
 繊細な作りの顔へ薄らかにではあるが白粉(おしろい)を塗り、唇には紅を差している。黒髪はほっそりとした肩から逆らうことなく垂れ落ち、動くたびにたゆたゆと揺れる。身につけている薄蘇芳色の小袖はそれらの美しさを一層引き立て心憎いほどだった。
「良かった。これで安心して行ける」
 伏し目がちに、ただ瞳に少しいたずらっぽさを含ませてほほえんだ治部に助七は思わず固まってしまった。
「これこれ、あまりからかってあげるな」
 刑部はにやにやして治部をたしなめたのだが、不健全な見た目の奥に見え隠れする上品さのせいで刑部も中々罪作りな雰囲気を漂わせている。<武士崩れの遊び人とそれに振り回される薄幸な佳人の夫婦>という設定が助七にはすんなり理解出来た。
「ふふ、では行ってくる」
 治部が市目笠を被ったのでそこから垂れる薄い絹の布によって治部の顔はやや見えづらくなった。助七は何かもったいないような、一方でほっとしたような気持ちを同時に抱いた。


「佐吉は本当に面白いなあ。初めて会ったときから佐吉といて退屈したことがない」
「長浜でもそんなことを言っていたな」
 刑部には自分の隣をしずしずと歩く治部の美しさは目に見えずとも感じるものがあったし想像で補うこともできた。
 治部の女装の達者さは主君である太閤殿下の宴会好きにあって、小姓のときにももちろん顔の可愛らしかった治部は酔っぱらいに目をつけられてよく女の装いをさせられていた。
 初めこそ恥ずかしがっていた治部だが立派にやると褒美ももらえるので案外悪くないと思い、ならばいっそ極めてやろうと妙な方向に開き直った。その過程で偶然身につけたのが女声を出す方法であり、これで喉仏も奥へ引っ込めることができた。
 このへんの気持ちの切り替えが刑部曰く「前向きすぎる」のだが、これが役に立つときがあるのだから人生は本当に何が起こるか分からない。
「しかし、まさか衣装をこちらへ持ってきているとは思わなかったぞ。それで荷物があんなにかさばっていたのか」
「備えあれば憂いなし、だろ?」
 治部はもちろんいつも女装の準備を持ち歩いているわけではない。だが長期滞在の名護屋在陣で能の衣装やかつらと共にそういうものも備品として紛れており、それらを拝借してきていた。今回の調査は市井に紛れることが予想されたので、さいあくその手も使う覚悟はしていたのだった。
「あ、あれは梶屋の暖簾(のれん)じゃないかな」
 助七に教えられたとおりの道を歩いているうち、その目印は見えてきた。
 梶屋は噂のせいか、建物の規模と比較してあまり客の入っていない雰囲気だったが完全に客が途絶えているという様子でもなかった。助七たちの宿と同じように一階は主に客を応対するための座敷がある広い空間だったので、二階に宿泊のための部屋があるらしい。
「いらっしゃいませ」
 番頭は店に入って来た二人をにこやかに出迎えた。本当にここで“人食い”の噂が立ったのかと疑いたくなるほど爽やかな笑みだった。
「二人、ここに一週間ほど泊まりたいのだが」
「かしこまりました。さあ、お疲れのことでしょう。ようこそおいで下さいました。どうぞこちらへ」
 番頭は自ら治部と刑部を案内した。しかし階段の前は素通りし、そのまま奥へと導かれる。
「部屋は二階じゃないのか?」
「はい。それが二階は満室でございまして、あ、一階のお部屋も二階のものと同じ造りですのでそこはご安心ください」
「そうか」
 刑部は気配で二階にそう多くない人しかいないと分かっていたので(やはり何かあるんだな)と睨んだ。
「こちらでございます」
 番頭が扉を開いた先にあった部屋は薄暗くじめじめしていた。特徴的なのは縁側がついていたことだった。襖(ふすま)の先には二畳ほどの広さの苔むした庭もついていた。
「へえ、御庭があるのね」
 治部は素直に感心して言った。
「はい。お気に召されましたか?」
「ええ、とても」
 治部はにこやかに言ったが、庭以外は全く気に食わなかった。特に湿気で黴(かび)くさいのがたまらなく嫌だった。
「ありがとうございます。それではどうぞごゆっくり」
 こうして番頭が部屋を出て行ってから、夕餉が終わるまで何の怪しい動きもなかった。例えば、話に聞き耳を立てているなど、そういった様子さえ感じられない。
ただ、自分たちがあえて一階に泊まらされていることの意味を無視することは出来なかった。
「他の客に気付かれないよう人をどこかへやるのに一番てっとりばやい方法は、標的とする客と普通の客の部屋を極力離しておくことだ。そして二階にいる客より一階にいる客を拉致する方が楽に決まっている……もしかしなくても、俺たちはその標的に選ばれたんじゃないか?」
 治部が布団に横になりながら小声で言った。日はすっかり陰り部屋の中はもう暗い。
「佐吉もそう思うか」
 刑部は治部のすぐ隣へ寝ころんで続けて言った。
「気配の様子だと二階にはまだまだ空室がある。嘘までつかれて一階に連れてこられているのはおかしいなあと俺は思ったんだ」
「紀ノ介もか」
 二人、意見が一致したので朝の出来事を思い出してくすくすと静かに笑った。
「まあ、それならそうで俺たちが追いかけずとも向こうがわざわざ連れて行ってくれるんだ。手間が省けていいじゃないか。計画通りだ」
 さらりと言い切る刑部に治部はそこまで楽観的にはなれなかったが、おおむね計画通りにいきそうだと思う点に異論はなかった。
「梶屋が人をどこかへやっているとしたら真夜中だ。まずは今夜、どう動くか……」
 一見、二人は夫婦のように寄り添って寝そべってはいるものの、ちょっとした動きでも察知できるよう最大限に気を張っていた。急に闇の中から誰か襲ってくると思うとあまり気持ちの良いものではないので眠気は感じなかった。
 そうしてすっかり夜が深まり外を歩く人の気配もなくなった頃、そのときがやってきた。
「庭の方から何か来るぞ」
 刑部は治部の肩を掴んで引き寄せ、耳元でささやいた。
「庭の方?そうか」
「多分……五人だ。どうやら本当に奴らのお目がねにかなったようだな」
 暗闇の中で刑部がにやりと笑ったのが治部には見えた。
 やがて刑部の言った通り庭の方から静かな人の気配を感じるなと思えば直後に襖がそおっとゆっくり開いた。
(来た……!)
 あくまで眠ったふりをしているが、治部の心臓は走りまわっているときのようにどくどく言っていた。
 治部の方には二人、刑部の方には三人そっと人影が忍び寄る。
「……っ!」
 人影はまず猿轡(さるぐつわ)を噛ませた。その動きに一切の無駄がなく、かなり手慣れているなと治部は思った。この時点からでも反撃できるのだが、寝ぼけていて何がなんだか分からないという風に仕方なく演技する。
 それから組み敷かれて、すぐ後ろ手に縄をはめられた。刑部の方を見ると刑部も首尾よく同じような状態になっていた。そして最後は目隠しを締められた。
「ほら、立て。大人しくしていれば命を取る気はない」
 影たちは治部と刑部にささやいた。二人はもちろんそれに大人しく従う。治部が意外だったのはもっと手荒なまねをされるかと思いきや、こちらが抵抗しない限りは大丈夫らしいことだった。きっと目立たず何事も無く連れて行くのが最重要課題なので、余計なことをして標的を刺激しないようにしているのだろうと考えた。
「ついてこい」
「…………」
 ついていくと言っても目隠しをされているので手につながれた縄が引っ張られる感じで何となく歩く。部屋から出る時には草履をはかせてくれたり、段差があるときにはちゃんと教えてくれたりするのでこの丁寧な扱いはむしろ気味が悪かった。
 景色は見えないが鼻がきいた。磯の香りが涼しい風に乗って顔を撫でていた。
(海にどんどん近付いている……)
 目隠しをされていても自分が梶屋からどの方角に向かって歩かされているかは認識していた。
(この向きだとやっぱり、そうだったのか)
 治部と刑部は小舟に乗せられ、そして小舟の辿り着いた先は船――南蛮船だった。

江中佑翠
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江中佑翠

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