船底にて ―刑部

 治部の気配なら特に察知できる刑部には治部がどこかへ連れて行かれてしまったことがすぐに分かった。
 何やら話声がするのは聞こえていたのだが話の内容までは聞きとれず、おまけに猿轡をまだ取ってもらっている最中で何も反応できなかった。
(佐吉……!)
 女装した治部は本当に綺麗なのだ。
 そんな治部がこんな真夜中にたった一人、“女”のままどこかへ連れて行かれるとすれば……基本、楽観的に考えることにしている刑部には珍しく嫌な想像がはたらいた。
 しかし治部が連れて行かれてしまった以上、むしろここにいる人々を助けられるのは自分だけしかいない。まず囚われた人々をどう解放するべきかその算段を立てなければいけなかった。
(すぐに、すぐに、そちらへ向かうからな)
 はやる気持ちに応えるかのように刑部の猿轡が口から外れた。
「時間がかかっちまってすまねえ。今連れて行かれちまったの、もしかして……」
「ああ。俺の連れだろう。だがありがとう。よく外してくれた」
 袖のように手が自由だった女性たちと違って男性たちは全員が手に縄をくくられた状態のままだった。刑部の猿轡を外してくれた男性ももちろんその状態だったからむしろ器用と言うべきかもしれない。
「目の方はもうちょっと待ってくだせえ」
「手間をかけるな」
 刑部にとって目隠しはあってもなくても大して変わらない視界なのだが、ずっとつけておくわけにもいかないのでそのまま外してもらう。
「しかし、お武家さまでもこんなところに連れてこられちまうなんて、おらたちが抵抗したところで無駄だったわけだ……もう一生日本の地面を踏めねえのかなぁ……」
 この男性、平作という。長く囚われているらしく気弱になっていた。
「そんなことはない。俺たちはおぬしらを助けに来たんだぞ」
 刑部があまりに軽く言ったので平作は、はっは、と笑った。
「まさかどうしてそんなことがありましょうか。元気づけて下さるのはありがてえですがお武家さまがわざわざこんなところへ来ることないくらいは知ってるだよ。……それに今日は見張りにいないですけど日本語の分かるやつもいるからあまりそういうことは言わない方がいいだよ……」
「番人か。牢の外に三人いるだろう? まずそれを俺が倒そう。それから……」
「ま、待って下せえ。牢の番人を倒すって……助けに来たって本当、なんですか?」
 動揺して平作の作業している手がぴたりと止まった。今度は刑部がはは、と笑った。
「これこれ。あくまで普通にふるまってくれ。それこそ番人に怪しまれるぞ。ともかく、信じるか信じないかは任せるが俺たちは確かにおぬしらを助けに来た。そう驚くな」
「いや、十分驚くことだよ……」
 平作は言われたとおり再び手を動かし始めた。だがその手が少し震えている。
「見捨てねえでくれて、ありがとうごぜえます」
「うむ、分かった分かった」
 涙声で絞り出すように言った平作の言葉に刑部は普通にふるまってくれとは言えなかった。平作はずっとぐずぐず言っていたが泣きながらもちゃんと刑部の目を覆っていた布をほどききってくれた。
「よし、ではやろう。平作どのも手伝ってくれるか」
「へ、へえ!」

 刑部の考えた作戦は面白いほど上手くいった。
 まず平作が「腹が痛い」と言う風に叫んでのたうち回る。このとき平作が真剣に演技したのとそれより前の刑部とのやりとりで顔が涙にぬれていたのがあり、何かあったのかと番人が二人、見事に騙されて牢の鍵を開けて入って来た。
 介抱している然に平作に寄り添っていた刑部は番人が至近距離に入った瞬間、目にも止まらぬ速さで一人目の番人のみぞおちに膝蹴りを加え、その脚の勢いのままもう一人の番人には膝蹴りから伸ばした足の甲で首裏を打ち叩いて気絶させた。
 ここからの早さが勝負所だった。
 牢の外から様子をうかがっていた三人目の番人が異変に気付いて応援を求める前に、刑部は牢からしなやかに走り出て綺麗な回し蹴りを彼にお見舞いしたのだ。
 数秒足らずで憎き番人が見事に床にへたっているのを見た人々は皆――この頃には寝ていた者も目を流石に覚ましていて一部始終を茫然と見ていたのだが――声を押し殺しながらも喜びを爆発させた。
「夢みたいだあ……」
 一仕事終えた平作は緊張が解けてへたりこんだが、同じ床に伸びている番人を見てまた感極まる様子だった。
「あれあれ、何を言っている。今までが悪夢だったんだろう?」
 刑部は平作の方に笑いかけたがすぐに厳しい顔になった。
「これから俺は連れを助けに行く。そして連れを助け出せたら次は船の中にいる他の連中をなるべく倒す。幸い、応援は呼ばれなかったからここの様子はしばらく南蛮の者には気付かれないと思う。安全が確保できれば呼びに来るからそれまではむしろここに南蛮の者が入ってこられないよう扉を工夫して閉じこもって待っていてくれ。あと隣にも牢があるな? そちらにも同じよう言って、互いに手助けしてやるんだ。歯がゆいだろうがもう少しの辛抱。良いか?」
 皆、自分たちに降って湧いてきたかのような幸せからはっとした顔で刑部の言葉にうなずいたり返事したりした。
「では」
「待って下せえ!」
 牢を出て行こうとした刑部を引きとめたのは平作だった。
「どうした?」
「あの~……お武家さまがお倒しになった南蛮人、一丁前に腰に刀をぶら下げてるでしょ。これで手の縄切って差し上げます。そんで刀一本持っていかれたらどうです?」
 平作が言っているその刀は牢の番人たちが日本人を脅すために飾りとしてつけていた。だがそれは牢の番人たちが刀の使い方を知らないから飾りになっているだけで刀そのものは実用的に使える種類のものだった。
「おやおや、そうだったのか。俺は目が良くない。教えてくれなかったら気付かなかった。ありがとう」
 実は刑部、さらわれたときに刀を持ち出すことなんて出来なかったから自分の刀は梶屋に置いたまま。丸腰だった。
「い、いえ、とんでもねえです」
 平作も他の皆も手を縛られた状態であんなに的確に見張りを倒せた刑部の目が悪いだなんて信じられなかったが、彼が言う限りそうなのだろうと信じざるを得なかった。
「じゃあ平作どの、刀をしっかり握っていてくれ」
「へ、へえ」
 言われたとおり平作はぎゅぅと刀を握り締めた。
 すると刑部は自らの手を平作の持つ刀の方へ勢いよく振り下ろしたのだが、それが見事に縄だけ切れた。
「おお~……」
 皆の様子には気付かない風に、刑部は平作から刀を受け取って次は平作の縄を切ってやる。
「番人はあとの二人も刀を身につけているのか?」
「そうです」
「はあ。使い方もろくに知らないだろうに……まあそれはいい。では二本、刀を持って行っても良いだろうか」
「もちろんでごぜえます。二刀流とは頼もしい! ささ、どうぞ」
 平作はすぐ近くでのびている番人の腰から鞘ごと刀を差し出した。最初に奪った刀の鞘もこのとき一緒に渡した。
「ありがとう。あとの一本で平作どの、おぬしが皆の縄を切ってやるんだぞ」
「お任せくだせえ!」
 刑部は牢から出たところでふう、と精神を集中させた。南蛮の船は大きいといっても所詮は船なので探る範囲はそう広くない。治部の気はすぐに探り当てることができた。

江中佑翠
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江中佑翠

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