虎児を得る
船長は自分でも驚くくらい治部のことを気に入ってしまった。
それがどのくらいかというと、牢の中で初めて治部の姿を見たとき、薄明かりの中に佇む可憐な花のようだ、と柄にもない例えが浮かんできたほどだった。
さらに船長を有頂天にしたのは治部の歯が黒くなかったこと。
船長は船長らしい気位の高さを持っていて、自分には支配階級出身の女子がふさわしいと考えていたが、この当時の武家の女子は鉄漿(お歯黒)をする習慣があり、矛盾するようだが船長はこの鉄漿は気味が悪くて嫌いだった。
それが今日、目の前に現れた娘は武家の娘らしいのになんと白い歯をしている――!
治部は意図せず船長の理想の具現化としてここへやってきてしまったのだ。
袖の言葉は正しく、治部は確かに船長室に連れてこられていた。だが船長が自分に丁重と言える扱いをしたことは治部にとって予想外だった。
船長はそう広くない部屋の中なのに治部をエスコートし、部屋の奥にある長椅子に座らせた。その長椅子の前には机があり、その机の上にはかすてらと葡萄酒が用意されていた。
「オタベナサイ」
にこにこしている船長をいぶかしみながらも治部は饗応を潔く受け入れた。
(つっぱねたところで事態が好転する見込みはないし、それに、かすてらに罪はない)
何食わぬ顔で食う。治部は意外と神経が太かった。
かすてらは治部の期待を裏切らず甘くほろほろとして美味しい。葡萄酒はかすてらに持って行かれた口内の水分を取り戻すためだけに、少しだけ含んだ。
葡萄酒の芳気で治部の頬があでやかに染まるのをことに、うっとりと見とれているのは船長だ。
(あぁ、美しい。白さがまた一層際立つようだ。どうしてこう色が白いのに故郷の者と違ってそばかすがないのだろう。肌もきめ細かい)
そのうちまた船長の中の詩人が顔を出し始めた。
(そして瞳は打って変わって神秘的な黒色だ。まるでオニキス……君の瞳に映る世界の景色は全て美しい……)
最後に顔を出したのはただの助平根性だった。
(その瞳を見つめながら手入れの行き届いたその長い髪に早く、くるまれてみたい、白い肌が全てあらわになるのを早く見たい……)
しばらく治部が食事をしているのを夢中で観察していた船長だったがいよいよ気分が高まってきて長椅子の、治部の隣にぬるりと座り込んだ。
「?!」
治部は今まで黙って見ているだけだった船長が急に密着して座って来たので今まで食べたかすてらを全てむせかえしてしまいそうなくらい驚いた。
(なんだ? 近くないか? これが南蛮の者の距離感なんだろうか)
治部は気を落ち着けて船長と自分の間に空間を開けるように座りなおしたが船長はまたその隙間を埋めるように座る。
「…………」
至近距離、船長の息がかかるくらいに顔が近くにある。
「スキ。ワタクシノヨメ」
(いやいやいや、まてまてまて!)
治部は変装に気づかれてしまう心配はしていたが、自分が懸想されてしまうとは夢にも思っていなかった。
(変装がばれないままで上手く船長をあしらえるか?)
治部がどう対応するかの方向性を決めかねている間にも船長は次の一手を、まさに一手を繰り出した。
「ウツクシイネ……」
船長はうっとりとした表情で、治部の顎をすくいあげるようにしてくい、と軽く持ち上げた。
触れられた部分から伝播するように悪寒が治部の体中を駆け巡り、悪寒が通り過ぎた後には肌がざわざわと粟立つ。
変装がばれないままで、なんてことはすっかり頭の中から飛んで行ってしまった。
「……この、不埒者……!」
治部の瞳がまごうことなき武士の怒りで急に異様な色を帯びたとき、船長は訳も分からないまま全身の筋肉が縮こまるような恐怖感を味わった。だがそれは一瞬のことだった。
治部は帯に隠していた扇を素早く取り出すと、船長の右のこめかみをうち、左のこめかみをうち、仕上げとばかりに最後は額を鋭く打ちのめしていた。
この扇、見た目はごく普通の扇だが骨が鉄で出来ていて殺傷能力が高い。鉄扇というものだ。
船長は目から激しく火花を散らしてそのままへにゃりとなった。
(全く、とんでもないやつだ)
治部は埃をはらうように手をぱんぱんと叩き長椅子から立ちあがった。
こうなってしまったからにはもう後には戻れない。
(紀ノ介を迎えに行くか? いや、でも紀ノ介のことだからとっくに牢を抜け出してこちらへ向かってきているかも)
そんなことを考えていたら入口の扉の方でごん、ばきっと派手な音がして刑部が勢いよく船長室へ飛び込んできた。扉は粉砕された。
「佐吉!! 大丈夫か!!」
治部は間合いの良さに、ふふふと笑いながら刑部の方へ自ら歩いて行った。
「大事ない。ちょうど片付いたところだ」
「良かった、本当に……」
思えば刑部は治部の手が自由になっていることすら知らなかったのだ。何かあったならと思うと今でも刑部の心臓は、かっと燃え上がりそうだった。そんな刑部の表情を見て治部は刑部の気持ちを理解した。
「心配させてごめん」
「これからはずっと一緒だ」
刑部は持ってきた二振りの刀のうち一振りを治部に差し出した。
「そうだな」
治部はそれを受け取って凛々しく笑った。
だが刑部は口をきゅっと引き結んで何か納得のいっていないような顔をしている。
船長が倒されているなら、そのきっかけとなる我慢ならない船長の不埒な行動があったのだ、と刑部は看破していた。そしてその内容次第では、今は気絶しているだけの船長の息の根を完全に止めてやると内心決意していた。
治部は刑部がそこまで考えているのには気が付かなかったが、心配をまだぬぐえていないことは察して刑部が来るまでに起こったことを説明しようと思った。
「本当に大丈夫だ。ただ、長浜城で盗賊の頭領がしたみたいに船長が俺の顔を触ってさ……」
言いかけて治部は自分が言った言葉にはっとした。
「……佐吉?」
「紀ノ介、ちょっと待って」
治部の頭の中で半ば自動的に思い出されていたのは、長浜城で盗賊と戦った際、気を失ったふりをして頭領の元へ運ばれたときのことだった。
――『お頭、これでどうでしょう』
『上々だ。だがこの男、邪魔者でさえなければなあ』
頭領は治部の顎をくい、と持ち上げて、なめるようにその顔を見つめた。
『美しい顔だ。売れるぞ、これは』――
治部は真実に辿り着いたときに走る電流の閃きを感じていた。
『売れるぞ、これは』
耳の奥で何回もこだまする。
「何か分かったのか?」
治部は刑部の着物の裾を巻き込みながら刑部の手首を握りしめていた。
治部は深い思考に入って行こうとするとき、何かを握りしめる癖があった。そうしていないと自分がどこにいるのか分からなくなるくらい、集中するからだった。
そして刑部が隣にいる場合は大抵、刑部の腕とか太ももを着ている物の上から握りしめている。刑部は治部のその癖を知っているから治部が何か気付いたことに気付いたのだった。
治部はやや早口になりながら刑部の問いかけに答えた。
「あのとき盗賊の頭領は確かに俺を『売れる』と言っていたんだ」
既に人身売買の禁止は固く命じられていたのに、と治部が補足するまでもなく刑部はすぐ反応した。
「盗賊たちも人身売買が禁止されている中でそれに関わっていたんだな」
「そうだ。“人身売買”、だぞ」
そのあとの微妙な間と治部の苦笑いで刑部はその先に治部がどのような結論を出そうとしているのか分かってしまった。
「……まさか、長浜の盗賊を雇ったのがこの船の南蛮の者だったなんて言い出すんじゃないだろうな」
「いや、それがまさにその通りなんだ」
刑部は知らないが治部は知っている、その結論を補完するだけの情報は船底の牢の中で得たものだ。
「俺はある海賊の仲間だという女の人に出会ったんだ。その仲間の男たちはこの船の南蛮の者との『契約』を果たすために一年ほど前からどこかへ行っていて、そして人身売買の禁止を知っていながらそれを手伝う気さえいたということなんだが」
長浜の盗賊たちが初めにここ長崎で南蛮の者に雇われたということはしっかり判明している。時期もおおよそ一致している。
そして何より人身売買の禁止がかなり厳しく言い渡されている中で、人身売買に関わろうとしていた人がそう何人もいるだろうかいうことだった。
その海賊たちの情報は長浜の盗賊たちの情報と見事に合致して、逆に矛盾するところは一つもない。
「じゃあその佐吉が会ったという女性の仲間の海賊が、長浜の盗賊だったのか!?」
「そういうことだろ?」
治部は刑部がすぐ自分の思考に追いついてきてくれるので嬉しい。良い笑顔で笑った。
「じゃあ、ここの船長が“人食い”のみならず長浜の件の黒幕でもあったということか」
「それもそういうことになるな」
治部も刑部も示し合わせたわけではないのだが長椅子の上で伸びたままになっている船長の方を眺めた。
「……それになんだ、船長は佐吉の顔に触ったと? 無抵抗の相手をなぶる趣味は俺にはないのだがな」
刀に手を伸ばしながら刑部が漆黒の微笑を浮かべているので治部は首を横に振った。
「いい。どのみち全てのことが済んだら裁かれる人だ」
そのとき部屋の入り口の方がわっと騒がしくなった。入口の扉は刑部が壊してしまったので船長室の中は丸見えである。脱走者がいると、とうとう気付かれたようだった。
「……確かに、あれに構う暇はなくなったようだ」
刑部は蔑んだ目で船長を一瞥したら、あとは扉の向こうに増えてきている船員たちの方へ向き直った。治部は刑部の袖をちょいちょいと引っ張った。
「紀ノ介、この部屋には出口がもう一つある。今、ここで船員たちを迎え撃つと、その出口から船員たちが入ってきたときにこの狭い部屋の中で挟みうちにあってしまう。まずはここから出よう」
「分かった」
「俺が連れていくから」
治部は刑部の手をぎゅっと掴む。刑部がその手を握り返すと治部は走り出した。
治部の手は細く柔らかく、強く握れば壊れてしまいそうに思われる。だが同時にその手は誰のものよりも頼もしい手だった。