力試し
船長室のもう一つの扉を開け放つと海の匂いがする、暗い廊下のような空間が現れた。その廊下の途中には昇降口であろう床の穴が見え、その奥にはまた扉がある。
(ここはもしかして……)
治部は刑部の手を引きながら昇降口の脇をすり抜け、奥にある扉を勢いよく開放する。
そこで治部の眼前に広がったのはまばゆいばかりの満月だった。そう、出口は甲板に繋がっていたのだ。
「外に出られた!」
治部は新鮮な空気を肺に巡らせるため大きく息を吸った。
「ここでなら存分に相手できそうだ」
刑部も穏やかな潮風に気持ちよさそうな様子で目を細める。
「しかし思ったより数が多いな」
治部は甲板のちょうど真ん中でぴたりと立ち止まると、後ろを追いかけてきた船員たちを見て少し険しい顔をした。
船長室で見たよりもはるかに多い数の船員たちが甲板の上にぞくぞくと集まってきていた。それらの手にはすでに小剣など思い思いの武器が握られている。
人身売買にまで手を出しているような連中だから船員と言っても柄の悪いことこの上ない。
昨晩、喧嘩を仲裁した南蛮の者たちは刀を見て怖気づいていたがここの船員たちはそんなこと構いもしていなかった。不敵ににやにやしながら二人を追い詰めるようにじりじりと間を詰めている。
「二人して牢から勝手に脱走し、牢に残っている者には立てこもるよう入れ知恵をし、船長は気絶させてきたんだ。そりゃあ、これだけ集まるくらいに恨まれるのは当然だろう!」
刑部は治部とは対照的に、愉快そうに笑っている。
「紀ノ介、油断は出来ないぞ」
治部が刑部の腹のあたりをひじでこつんと突く。
「分かっている」
返事は良かったがその言葉と裏腹に刑部の口元はまだ少し笑みを含んでいる。
「ただ、これは一体何の巡り合わせなのだろうと思うと楽しくてならないんだ。唐入りのために名護屋に来たはずの自分が今、長崎の海原でこんな真夜中にこんな大勢の南蛮の者を相手するなんてどうして数日前の自分さえ予測出来ただろうか」
これは皮肉から出た言葉ではなく、刑部はこうなったいきさつも含めて心の底から今を楽しんでいる。刑部は鞘からするりと刀身を抜き、形だけしゃんとしたように見せた。治部も同じくして刀を抜くがこちらは小さくため息をついた。
「それを楽しいと思う紀ノ介は本当にすごいな。俺はこの戦局を打開出来るか不安でならない」
「佐吉はそれでいい。それだけ真剣で懸命ということだ」
刑部は船員たちと自分との距離を自ら一気に詰めた。刀が月の光に呼応するように不気味なきらめきを放つ。
「うぬらが何人いようと同じだ!」
刑部の手に届く範囲にいた船員たちの膝は瞬きの一瞬で地面に落とされる。
船員たちを「何人いようと同じ」と言う刑部には現に船員たちの覇気がほぼ一塊に感じられていて、言うなればくらげの群体なのであった。くらげの群体にくらげが少々増えて連なったところで捕食者からすると違いはない。
そして群体は、ばらばらにしてしまえば簡単に片付くのだ。
刑部はひきめしあう船員たちの数を確実に減らしながら、一方で船員たちの塊をなるべく小分けにすることに徹した。これはどちらかといえば魚の解体作業に似ていた。
「やるな、紀ノ介!」
治部は刑部によって小分けにされた船員たちの組に情け容赦なく刀を入れた。治部と目が合ってその後立っていられる者はいなかった。いよいよ刺身の完成だった。
はじめ治部が刀を抜いたとき船員たちの顔にはあざけりの表情が浮かんでいた。
船長を倒したのち治部は声を作るのをやめていたから船員たちも治部が男だということは理解していた。だが薄蘇芳色の可愛らしい着物といい、立端(たっぱ)のなさといい、手短に言えば強そうに思われなかった。それがいざ手合わせしてみると治部は恐るべき力を秘めていて全く太刀打ちできない。
激しい戦闘の中で船員たちはようやく悟った。治部の着物の裾(すそ)がめくれて見えるふくらはぎはあくまで筋張っていて柔さは一切感じられない。刀を握る手には力強い血管の青筋が浮かんでいる。いくら可愛げのある顔をしていようとも治部は紛れもなく武士なのだ。
今や船員たちの額には汗が吹き、顔色は月の光で一層青白い。
(佐吉はいつもやる前は不安だ、心配だと言っているがいざ始まれば誰よりも良い働きをする)
刑部はやはり口元の笑みを抑えることが出来そうにない。そしてその表情のまま船員たちを相手している。
船員からすれば一瞬の油断なく鋭い視線を飛ばしている治部はもちろん怖いが、この状況下で終始笑顔を見せている刑部も怖い。
そしてそんな二人を自分たち自ら攫ってきてしまったのでまたどうしようもない。もっとも、治部と刑部は攫われずとも自分たち自ら潜入する気でいたのだが。
「だいぶん数が減ったな」
いつの間にか刑部と背中合わせで戦っていた治部は刑部に話しかけたが刑部は返事をしなかった。
「紀ノ介?」
「佐吉、上に誰かいないか?」
船員たちに勘付かれないためだろうか、刑部はまるで独り言のようにつぶやいた。
「上?」
すぐ近くに太い帆柱があった。治部は刑部の意を汲み、あえて何気ない様子で上の方へ視線をやる。すると帆柱についている物見やぐらのような台に船員が二人立っているのが見えた。
しかもただ立っているわけではない。鉄砲を放つ準備をしている。
「いた。これは俺に任せろ」
「分かった」
治部はもちろん小石を帯に潜ませていた。
適切な角度から石を投射するため帆柱から距離をとる。その間に刀を左手に持ち替え、空いた右手で帯を探り、狙いを定めた。矢継ぎばやに小石を二つ鋭く投げ打つ。
台の上の船員は一人、脱走者に存在を気付かれたかもしれないとまでは思いが至ったが、同時に高みの見物気分だったから自分に危害が及ぶことを全く想定していなかった。脱走者が何かおかしな動きをしたように見えたときにはもう遅かった。
礫(つぶて)は見事に船員それぞれのこめかみとあごをえぐり、台の上の二人はどっと倒れる。
「流石佐吉だ」
そう言いながら刑部は空席になった自分の背後から襲い掛かりにきた船員に対し、後ろを見もしないまま刀の柄を後ろに鋭く突く形でいなしている。
数で押すのも鉄砲も不意打ちも通用しないと分かり、船員たちは策が尽きたようだった。数人残ってはいるが、もはや戦意を失い呆然として立ち尽くしている。
一方、流石の治部も動きやすさに欠ける女の装いのまま大人数を相手にして少々疲れた。少し肩で息をして呼吸を整えている。だがそれでも頭の中は熱く働かせ続けていた。
(これで終わる気がしない。なんだろう、この違和感は)
刑部も治部と同じ気持ちのようだ。目を閉じ、じっと佇んでいるように見えるが全身の神経のどこも全く緩ませていない。
波の音だけがむやみに大きく聞こえる、そんな時間だった。
刑部がはっとしたように顔を上げ、船長室から甲板まで繋がる廊下の方を見やった。
(誰か来たのか?)
治部も同じく廊下の方に視線を凝らす。そこには小さく影が三つ見えた。
その影が近づいてくるにつれ、顔の詳細が分かってくる。
治部は違和感の正体にようやく気が付いた。
「南蛮の者が二人。日本人が、一人。梶屋の番頭だ」
番頭に今やあのときの爽やかな面影はなく、ぎらぎらした派手な南蛮衣装に身を包み、どすどすと短い脚で大股に歩いてくる。
番頭の後ろ、両脇に二人の南蛮の者が控えていた。一人は横にも縦にも大きな男で斧を肩に担いでいる。一人は細剣を手に持った男でその武器を彷彿させる細身と長身をしている。どちらも手練れであるのは雰囲気から察せられた。
(お袖さんはあれだけ自分たちがどう騙されたかについて詳しかった。それはお袖さんたちにそのことを適切に日本語で話せる誰かが……日本人がこの船に味方して乗っていることの証拠だった。それが梶屋の番頭だったとは予想もつかなかったが……)
しかし暗示はあった。どうして南蛮の者の好みを梶屋が把握出来ただろうか。南蛮の者の手先があらかじめ梶屋にいて、誰を連れて行くかの品定めができる権限を持っていたことは想像に難くなかった。
「もっと骨のあるのがいるはずだと思ったんだ。俺たちは力を試されていたんだな」
刑部の言葉で治部はまた気が引き締まる。
(今までは力試し。これからは……)
番頭がにいっと笑う。黄ばんだ歯の色は月明かりに鈍く反射して見えた。