囚われの船1
番頭は治部と刑部との間に数歩の距離を開けて立ち止まった。
「こんなところでまたお会いすることになるとは」
「それはこちらが言いたいことだな」
刑部が皮肉を込めて返す。
番頭が言っているのは、治部と刑部にはずっと船底にいてもらう予定だったのにということ。刑部が言っているのは、どうして南蛮船の上で番頭に出会うことがあろうかということ。
「あなた方だけなら容易にここから逃げ出すことができるのにしない。おまけに我々が船底の者共に手出しできないようあえて扉をしめ切らせている。なぜか。あなた方は我々を皆、倒してから船底の者共と全員で船を出ようとしているからです。そうでしょう?」
「よくわかったな。その通りだ」
治部が口を挟むと、その声と口調に番頭は分かりやすく目を丸くした。
「あなたは女ではなかったのですか?」
「俺は男だ」
治部はむっとしながら答えた。
「じゃあ、何のためにそのような格好……」
「さあ、何のためだろうなあ?」
刑部は番頭の方を睨みながら言葉をかぶせた。続けて治部が静かに問いかけた。
「俺にも聞きたいことがある。おぬしはなぜ人を……しかも自分と同じ日本人を悪辣な方法で国外へ売り飛ばすことに加担している? 南蛮の者に脅され、働かされているのか?」
番頭はそれを聞いて鼻からふっと息をふきだして笑った。
「そのように見えたなら心外です。私はこの船の船長に次ぐ地位ですよ」
番頭が斧の船員と細剣の船員に南蛮の言葉でなにやら呼びかけると、二人の船員はすぐさま臨戦態勢に入った。
「待て、まだ話している途中だ……」
だが間もなく斧は治部の頭を真っ二つに、細剣は治部の心臓を一突きにしようと襲いかかる。
「このっ!」
治部にも、もちろん武士としての自尊心が十分にある。番頭の表情から「弱そうな方から片づけてしまおう」という考えがありありと読み取れたとき、それは治部の癪に障った。
治部はほとんど無意識のままに、あえて左手で例の鉄扇を細剣の船員に投げ飛ばしていた。そしてすぐさま右手に持った刀にその左手を添え、頭上に降り注がんとしていた斧を勢いよく弾き返した。
抵抗をほとんど予測していなかったこともあり、斧の船員は弾き返された斧の勢いで自分の身体もつられてひっくり返りそうになる。
治部が左手で投げた鉄の塊は細剣の船員の喉元を直撃した。細剣の船員は立っていることもままならず喉を両手で抑えてげほげほと咳き込んでいる。
「ほれほれ、こちらはがらんどうだがいいのか?」
斧の船員と細剣の船員が治部にかかりきりの間、刑部は治部に助太刀するでもなく番頭の背後に悠々と立っていた。目は怒りでらんらんと光っている。
刑部が番頭の後ろに立っていたことは、治部も斧も細剣も、そして番頭でさえ今初めて気づいたことだった。
「意趣返しとでもいこうか」
刑部はあえて刀を派手に振って空気を斬り裂く音を放った。その刃の先は番頭の首元の寸前で止められた。
どうやら刑部、長浜で治部が人質に取られかけたのを余程根に持っているらしい。
番頭は自分の首のすぐ横に並んでいる刃をおそるおそる覗き込んで顔を引きつらせた。
「は、早く助けにこい!」
番頭が南蛮の言葉で叫ぶと、治部から鉄扇を首に投げつけられて咳き込んでいた細剣の船員は斧の船員に軽く目配せをしたあと、真っすぐ自分の剣を刑部の方へ向けた。
「そうだ。それでいい。佐吉が気になるのは分かるが二人して俺を放っておけばいつでもこうだ。分かったな」
刑部は急激に番頭への関心を失ったみたいにとっと番頭を捨て置き、自ら細剣の方へ出向いて行く。そうなると自然に治部と斧が向かい合う形となった。
解放された番頭は先ほどまで味わっていた恐怖をさっぱり忘れてしまったかのように、斧と向かい合う治部の横に近寄ってきて、再び語り始めた。
「あなた様はどうも、日本人が日本人を売るのがおかしいと思っておられるようですね」
「当たり前だろ。今は話しかけるな」
そう言い放ったあと、いや、これが番頭の作戦なのだと治部は分かった。
治部が気にしていそうなことをあえて話題にしてその気を散らせているのだ。治部の気が散らされると思うとそれで刑部の気も間接的に散る。
さらに治部には武器を持たない番頭へ危害を加えるつもりがないということを察したらしい。そのため番頭は安心して治部の横でまさに横槍を入れられるのだ。
「苦労して身に付けた南蛮の言葉。それを活かして金にすることの一体何がおかしいのです? ご存知ですか? 日本人は高く売れます。男は兵士として有能、女は器量良しが多いと共に人気なんですよ」
番頭は余裕綽々、粘度の高い視線で治部を値踏みするように眺めている。斧を相手にしながら番頭にも意識を割かれているこの状況にはもちろん、番頭の話す内容そのものに治部はむかむかしてきた。
「金さえ手に入ればいいのか」
「いいですよ。私だけでなくみんなそう思っています」
「よく分からない」
このときわずかに反応が遅れて斧の刃はもう少しで治部の鼻先をかすめるところまで来ていた。だが治部は気になったことは聞かずにはいられない。聞きたいことは口をついて出てきてしまう。
「南蛮の者は皆、“でうす”を主としているのではないのか?」
治部のこの言葉に番頭はぴくりと肩を揺らした。このとき本格的に治部への興味を持ったようで感心してうなずいた。
「おや、デウスをご存じなのですか」
「神である“でうす”と富の“まもん”、両方に仕えることはできないと南蛮の宣教師は言っていた。それが南蛮の教義なら金の為にはなんでもするというおぬしらの行動と矛盾していないか」
「次は問答のつもりですか? 説破。あえて言うならば初めからマモンに仕えているという、ただそれだけのこと」
番頭は余裕ありげに答えながらも治部の胆力に少し感心してしまった。よく斧を相手にしながらこれだけの会話が出来るものだと。
しかし治部、番頭が受けた印象とは反対に身体的にも精神的にも限界を迎えようとしていた。
睡眠がとれていない。それはまだ、治部にとってはいい。
だがあえて攫われて船へやってくるという作戦は、決して気楽には行えない。船に潜入できたあとも牢に閉じ込められている人々の現状に衝撃を受け、怒り、牢から出されるときにも一悶着あり、そして曰くつきの船長室へと連れて行かれた。
船長とのやりとりでは精神的な体力を中心に削られている。そのあと休む間もなく“くらげの群体”とまた激しく戦った。ここでは単純に体力を消耗した。それに追い打ちをかけるように斧との戦いが始まる。少しでも気を抜けば斧にばさりとやられる緊張感の中、番頭の相手もしなければならない。
治部は自分でも未だ自力で立っていられることが不思議に思われるくらいだった。
そんなとき、なんとか弾き返したと思った斧がその勢いを利用してくるりと半回転し治部に迫っていた。
今までになかった攻撃の型なだけに治部は意表を突かれ、斧の柄はすこんと治部の鎖骨を直撃する。
「うっ」
治部は二、三歩後ろへよろめいた。頭の先から順に身体の力が霧散していくような感覚に陥っていた。
(意識が……)
治部の身体が崩れ落ちようとしたとき、番頭の姿が一瞬治部の眼の端に映った。
今まで目線の先は斧の船員にあったので番頭の方は見もしていなかったのだが……
治部の眼に映ったのは治部との会話で本性を剝き出したままの番頭の表情だった。
人の幸せを踏みにじる手段で己の私腹を肥やすということに快感を覚えている番頭の顔つき。しかもそこには小人間からしか生まれ得ない妙な風味の自己陶酔が混じっている。
その表情は今にも眠りそうになっていた治部の脳内に鋭い衝撃を与えた。そうしてある一つの気持ちが鮮明に治部の中に生まれた。
(こんな奴に、負けてはならない)
今、倒れたらもう戻ってはこられない。意地のようなものが治部の身体を突き動かした。治部は番頭の表情から余りあるものを察してしまったのだ。
この人によって虐げられてきた人々のつらさや無念……先ほども見てきたばかりだった。
(己にも負けるな。今やらなくてどうする!)
治部の瞳にかっと力が宿り、芯の抜けかけた身体に再び気が満ちる。よろめきついでに片手はついたがそのまますぐに体勢を立て直し、斧の方をきっと見据えた。
「では、まもんの僕(しもべ)に問おう。海賊を雇って長浜を襲わせたのは一体何のためなんだ?」
治部は感じた不快さを一切隠すことのないまま核心部分に踏み込む。同時に斬撃を斧の船員に与えた。
斧の船員は治部の斬撃を受け止めきったが、治部の太刀筋が変化したことにも気が付いた。
計算は一切なく、ただ感情を燃やして得た力でのみ相手を焼き斬ろうとする重い一撃。番頭はまだ気付かない。
「なんと、長浜のことまでご存知とは。つい牢の女たちに話を聞かせすぎた自分を後悔してしまいます。あのときは楽しかったもので」
「騙されたという事実を気付かせることが楽しかったというのか!」
このときさらに治部の気合の入った一撃が斧に下るが、この刀、さほど上等のものではない。かえって治部の刀が派手に折れた。それを見た番頭はさらに嫌らしく口元を歪ませて笑う。
「そりゃあもちろん! それまで女たちは男たちが帰ってくることを希望にしていました。それが私の話一つで間逆の意味に変わってしまったんですから。真相を知ったときの顔がとても良かった。今でもそれなりに思い出せますよ、あの顔は!」
「もういい」
治部は折れた刀をぽいと手放し、斧の船員に組みついた。
「刀もなしでそれをあなたにどうこうすることはできませんよ」
一方で斧の船員は全く油断していない。冷静に治部を振り払おうとするが意外にも治部はしぶとく斧の船員に組み付いていた。さらに船員は斧を持っている自分の利き手が全く動かせないことに気が付いた。
「おい、早く始末しろ。何をやっているんだ」
番頭には二人の間でどういう力のやり取りが行われているのかやはり理解できない。斧の船員がただ突っ立っているように見えていた。
「投げる!」
治部は斧の船員にさっと足をかけた。斧の船員は体術に慣れていない。そのことにすぐ治部は気が付いた。船員の身体の軸は地面垂直方向から大きく傾く。
そして斧の船員は身体の全権を治部に委ねる形となった。治部は斧の船員をすくうようにして持ち、たたきつけるようにして力強く地面に向かって投げた。
ずん、と巨体の船の全体が揺れる衝撃が起こったとき、同時にぐきりと太い骨の折れる嫌な音も響いた。
番頭は目の前で起きたことが信じられず不自然に目を何回も瞬きさせている。
「ま、まさか、こんなことあっていいはずがない……」
治部はまさに頭に血が上った状態だったので斧の船員が気絶したのを見届け気が抜けた瞬間、ついに足からも力が抜けた。ふらりとしたあと尻もちをつく。
「はあっ、まだ……信じられないか?」
治部は息も絶え絶えに座り込んだまま挑発するようなまなざしで番頭の方を見る。
「紀ノ介の方も、じきに決着がつくだろう」
自然と治部の口から出た言葉だったが、自分の言葉に引きずられる形で刑部のことにようやく気が回った。
(紀ノ介は?)
先ほどまで近くで戦っていたはずが視界の中に刑部も、細剣の船員もいない。
(どこだ!?)
座り込んでしまっていた治部だったが、ばねのようにばっと立ち上がった。それからもう一度辺りを見渡すがやはり二人ともいない。
しかし直後、どぶん、という不自然な波しぶきの音が治部の耳に入ってきた。