囚われの船2
「まさか」
刑部と細剣の船員は船の上にはいない。何かが海に落ちる音がした。
これらのことが示すのは刑部と細剣の船員が何らかの原因で海に落ちたということだった。
刑部は幼いころ、近くに余呉湖や琵琶湖がある環境で育っている。この時代、泳法を身に着けている人はほとんどいなかったが少なくとも刑部は泳ぐことが出来た。治部もそのことは知っていた。
でも、もし知らない間に刑部が怪我をしていたら? 海に落ちた衝撃で気を失っていたら?
刑部が普段のように泳げる確証はどこにもなかった。
「紀ノ介!!」
治部は青い顔をしながら音のした方へ走っていった。船べりにたどり着いて、全てを飲み込んでしまうような暗い海の中を覗き込む。
刑部は……いた! 無事だ!
刑部の若菜色の着物が海の中でもぱっと映えて目に明るい。刑部が無事だと分かったのは、もう一人海に落ちた細剣の船員と、海に落ちてなお対峙して刀を構える姿が見えたからだった。
(まだ戦っているのか。なんで海に落ちる必要があったんだろう)
治部が不思議に思うのも無理はない。
細剣の船員は刑部がかなり手ごわい相手であることに気づき、いざという時には刑部を海に落として戦闘不能にすることを考えていたのだった。そして少しずつ戦いの場を船の中央部から船べりにまで意図的に動かしていた。
「いざという時」を細剣の船員に考えさせた時点で船上での戦いは刑部の勝ちだったのだろう。
実際、細剣の船員は刑部によって派手に利き手を潰されてしまった。これ以上やっても勝つ見込みがないと悟った細剣の船員は死力を尽くして刑部をなんとか海へ落とす。
しかしここで細剣の船員の目論見は二つ外れてしまう。
一つ目は細剣の船員が刑部を海に投げたとき、刑部もすぐに船員を道連れにしようと船員の服へとっさに腕を伸ばしたこと。二つ目はこの異国の武士が全く溺れる様子のないこと。
細剣の船員は腸(はらわた)が煮えくり返る思いだった。自分も巻き添えを食らったばかりか相手もまさか泳げるとは。
細剣の船員は利き手でない方の手で、腰の短剣を引き抜きなんとか握る。海は陸とは勝手が違う。一つ、傷を負わせるだけで相手はひるむしそのうち息が上がる。そう考えて細剣の船員はもうほとんど残っていない力で短剣を刑部に振りかざした。
しかし刑部はその短剣を刀の一振りで弾き、遠くへ飛ばした。
「もうやめろ」
刑部は小さくつぶやいて首の裏を軽く手刀打ちする。細剣の船員の動きはそれでようやく止まった。
「やれやれ。何もこんなところで決着をつける必要はなかったのに」
刑部は細剣の船員が完全に意識を失っていることを確認して、ぷかぷか浮いているその身体を引っ張りながら船へと泳いだ。服に空気が含まれているため細剣の船員の身体はしばらくの間は浮かんでいられるだろう。
しかしこれからどうしようか、と刑部は考える。自分一人だけなら船に帰れる自信がある。だがこの船員を連れては行けないと思う……
いざとなったら捨て置いていくしかないか、と刑部が少し困っていたところ刑部のほぼ真上の方から治部の声が降り注いできた。
「紀ノ介! こっちだ! 梯子(はしご)をかけたぞ!」
つづいて縄梯子が船に当たって出来る、ばんばんという音が聞こえる。どこに梯子がかかっているのかを知らせるためにあえて治部は縄梯子を揺らしていた。
「佐吉! 助かる!」
刑部は細剣の船員を器用に背負い込んだ。船員の腕は自分の肩にぐるりと回し、船員の手首は左手でぎゅっとまとめて握る。そして自分の右手と両足を使いながら一歩一歩、縄梯子を上っていった。
治部は刑部が上ってくる様子を見て、近くに縄梯子が落ちているなんて幸運だったと満足げな表情を浮かべている。だがその縄梯子は治部と刑部を船に運び込むのに使われたのちその場に放置されただけのものだ。
刑部が自分の腕の届くほどの距離まで上ってくると、治部は自らの手を差し出して刑部を引っ張り上げた。
「ありがとう」
刑部はその場に船員をどさりと下ろし、続いて水を含んだ自らの着物の袖をぎゅう、と絞っていく。刑部の足元にはすぐに大きな水たまりができた。
乱れた髪が頬に張り付いているのも、海水で衣服がねっとりとしているのも中々の不快感である。顔をしかめながらも刑部は最後に襟元をぴんと正した。
「さて、残るは」
治部と刑部がくるりと番頭を見据えると番頭はびくりとして、大きな身振りとともに南蛮の言葉で喚(わめ)き散らした。 “くらげの群体”の残党に二人の相手をする指図だろう。
しかしくらげ達は全く動く気配がなかった。お互いの顔を見合わせながら、まるで番頭の言葉が聞こえないかのように無視している。そしてなんと、おもむろにその場でふて寝を始めた。
それで番頭が怒ってまた喚いたのだが、もはやくらげ達には通じない。形勢逆転は見込めない今、上からの指図を受けるいわれはないということか。
そもそも治部が縄梯子をかけている間も、刑部が縄梯子を上ってきている間も、ずっと無防備だったにもかかわらず誰も何もしてこなかった。番頭は斧の船員がやられたことで呆然としていたのだが、くらげ達にやる気があれば命令を受けずとも喜んで二人を討とうと努力していただろう。
「くそ! 役立たずどもめが!」
番頭は焦りを見せながら日本語で吐き捨てたが状況は何も変わらない。
「さあ、真実を話せ。なぜ海賊を雇って長浜を襲わせるようなことをした」
治部はつかつかと番頭の前まで歩いて行って問いただす。刑部もその後をついていく。
番頭は切羽詰まった表情になったが、腹をくくったのかその表情はまたすぐに変化した。
「はは、あの、け、決して、私だってこのような真似したくはなかったのです! 南蛮人は異国の恐ろしい者です。さっきは仕方なく強がっていましたが本当はやはり無理矢理働かされていたのです!」
今までとは真逆もいいところの発言と態度である。こびへつらった愛想笑いで顔を固めている。治部は思わず唖然とした。
こんな嘘が通じるとでも思っているのだろうか、「船長に次ぐ地位」であったならその立場に伴う誇りはないのだろうか、保身のためならそんなことも言えてしまうのか――!
治部はもう我慢ならなかった。
一旦「嫌い」だと思うと、治部の持っている情や優しさはその相手には一切恵まれることはない。ひたすらの嫌悪感は治部を普段では考えられないほど冷酷な人間にする。
治部は番頭の目の前まで距離を詰めて、正面から首襟をがしりと掴み上げた。番頭の足は宙に浮いている。
「あっ、ひぃ……」
「口を慎め。うぬがどういった経緯でこのような真似をしていたかになど興味はない。なぜ海賊を雇って長浜を襲わせるようなことをしたのか、それを聞いているというのが分からんか!」
番頭は足をじたじたさせるが、治部は表情を一切変えないまま上に見張り台のついている一番太い帆柱まで番頭を持ち上げたまま歩き、そこに番頭を突きつけてからゆっくりと腕を下ろした。
「これ以上余計なことを言うな。ただ聞かれたことだけ答えろ。なぜ長浜を襲わせた」
治部の眼はやましいことをしている人にとって、自分の汚いところをどれだけ奥深くに巧妙に隠してあっても、それをえぐられて目の前に突き付けられているような心地がする断罪の瞳だ。
番頭はその何でも切裂けそうな冷たく燃える瞳に震えあがった。
初めはすぐに片づけられると踏んでいた治部。どこか甘いところがあると期待していた治部。
ところがこの風あたりの強さは何だ。どうしてそんな目で見られなければならない。人は見かけによらないと言うが限度というものがあるだろう。
番頭は心の中でぼやきながら泣きそうになってくる。番頭の頭の中は恐怖の感情でいっぱいになった。自然と身体がぶるぶると震えだし、歯はがちがちと鳴る。それを抑えながらなので番頭はなんとか一言、治部の質問に答えを返した。
「……みやげ」
治部は初め何を言っているのか分からなかった。
「もう一度言ってくれ」
自分がこれから話さなければいけないことはより相手を怒らせることだと、一言発してから番頭は気付いた。だがもう話す以外に道はない。番頭は何も考えないまま口が話すままに任せた。
「だから、土産がほしかったのです、船長はこの航海で日本へ来るのを最後にすると決めていました。それで日本ならではのものが欲しいと、できれば誰も持ち帰っていなくて珍しいような、それでいて日本的なものだとわかるような、そんな土産が! 長浜に決まったのは偶然です。海賊どもにとって都合が良かったのでしょう。私たちはそこまで指示していませんから!」
一転して唾をぺんぺん飛ばしながら必死になって番頭が話した真実は、考えるだけでは到底思いつかないような真実がこの世にはあるのだということをひしひしと治部と刑部に痛感させた。
同時にその真実は真実なだけあって腑に落ちるものがあった。
治部が一番気になっていた曳山の飾りの金細工は番頭が言った土産の条件にまさに符合する。換金する気などなかった。そして取引先はまさに違法に入手したものと分かっていても取り引きしてくれる、人身売買に暗躍する南蛮船なのだ。
「よくもそのような理由で……」
今度は刑部が低い声で獣が唸るように言った。
「いやっ、でも私はそれには反対しましたとも! 船長が無理矢理決めたんです! だから私は……」
この期に及んでまだそんなことを番頭が甲高い声で叫んでいるとき、刑部は急に番頭の口を手ぬぐいで塞いだ。
「まだ誰かいるな?」
「えっ?」
皆が自身の呼吸の音にも気を付けるくらい耳を澄ませたので船の上は不自然に静かになった。
(誰かが、廊下の方か?)
治部がゆっくりと廊下の方を見ると、そこには昇降口を真後ろにして鉄砲を構える船長の姿があった。額から血を垂らし、恨めしそうな目つきと半笑いに歪んだ口元が船長の顔に同居していた。
「船長、おぬし、まだ……!」
治部がぎょっとしてつぶやくと、番頭も船長の存在に気がついた。もちろん鉄砲にも気が付く。
「な、なんて無慈悲な! 私まで巻き添えになってしまうかもしれないではないですか! 船長!」
番頭は南蛮の言葉で船長に呼びかけた。番頭の不安は妥当なもので、当時の鉄砲の命中率はそれほどよくない。まして船長は、鉄砲の扱い方をなんとか知っているという程度で実戦経験はなかった。弾が番頭に当たる可能性は十分にある。
「うるさい! お前は恩を忘れて私のことを悪く言っていたではないか、聞いていたぞ。分かっているぞ。何が巻き添えだ、私は初めからお前を狙っているのだ」
船長は日本語を話すのはそれほど得意でなかったが聞きとることはそれなりにできた。そのため番頭の言葉の大意はしっかり掴んでいた。船長は船長なりに番頭を可愛がっていたつもりだったのに。
可愛さ余って憎さ百倍というべきか、番頭に裏切られたという強烈な感情は先ほど酷い目に遭わされた治部への恨みを上回った。
これらの会話は南蛮の言葉で行われていたことだが治部も刑部も、ここへ来て二人が仲間割れしているらしいことは分かった。番頭はいよいよ頭が真っ白になり言い返すことも逃げようとすることさえ考えられなかった。
「今喧嘩している場合か……」
治部が呆れ果てて声をかけたそのとき、鉄砲が激しい破裂音と共に火を噴いた。
「あっ……!」
治部の目は鉄砲の口の方向をしっかりととらえていた。……鉄砲は発射の瞬間、治部たちのいるところと大きくずれた方向を向いていた。
弾は治部たちの横をすり抜けることすらなく、船長のいる廊下の近くの壁に穴を開けただけだった。
しかし番頭は破裂音を聞いて自分は死んだものと思い込んだらしい、泡を吹いて勝手に気を失ってしまった。
船長は船長で鉄砲を放った瞬間、その衝撃で昇降口に足を滑らせた。治部が廊下へと走っていき、昇降口の下を覗き込んだがまた気を失った船長はそのまま伸びていた。
「終わったみたいだ」
治部は自分でも半信半疑な様子で言った。
くらげの残党の離反、番頭の裏切り、船長の復讐……最後は自分たちが手を下さなくても自然と瓦解していった。仮にも遠い異国の地まで共に旅してきた仲間だろう。それが「負け」が決まりそうになればこうまでばらばらになれるのか。
治部は番頭の人となりにもかなり嫌悪感を持ったが、ことの顛末にもざらざらした気持ちが残る。
刑部は廊下の入口に立っていて、うんうんと頷いている。
「悪欲に囚われた者たちの船。その終わりはこんなものだろう」
「そういうものなのだろうか」
治部が刑部に駆け寄るのに暗い廊下から抜け出ると日の光が淡く、海上に注がれ始めていた。
「わ、日の出だ!」
例外なく毎日上る太陽だが治部には船底に囚われた人々の明るい未来が明示されたようにしか思えない。
「めでたい」
刑部にもこの柔らかい光が見えているのだろうか、治部にそのことはわからなかったが刑部は日の出の方向を見つめながらにこりと微笑んだ。
「早く皆で帰ろう」
「ああ!」
二人は船底で自由を心待ちにしている人々を迎えに走りだした。