業火の責苦3
この二人の敵は手練れだった。
相手にとどめを刺すときというのは、自身の防御に関しては最も意識が薄れるときだ。
それにも関わらず、敵はそれぞれ矢を少し避け損ねはしたものの、かすり傷で済んだ。それだけ反応がいい。
敵としては刑部が治部の元へ辿り着くまでに治部を殺してしまいたい。先ほど身体を掠めた矢は確かに鳥肌の立つ怖さがあったが、官位ある人の首をとるという手柄に目が眩んだ。
一人の敵が治部に手をかけようとしたとき、矢は刑部によってまた放たれた。立て続けに、一、二、三、四本。
敵、一本目は避けたが、それを予測していたかのようにあとの矢は全て突き刺さった。眉間と首と、鎖骨下。即死だった。
「とっとと去(い)ね!!!」
刑部の、低く静かな話し声からは想像もつかない咆哮は、距離のままある治部たちの元へも、びりびりと響いた。
串刺しになった同僚の死骸、怒り狂う刑部。
残された敵は流石に治部をどうこうしようという気持ちにはもうならなかった。あの速度と練度で弓を射られたら避けようがない。犬死にだ。
敵は名残惜しそうではあるが、治部から少し距離をとって、何もしないという意志を示した。
実はこのとき、刑部はもう矢を使い果たしてしまっていたので、もしこの敵が諦めずに治部に手をかけていれば……
治部は敵が離れていったのを感じたが、意識が朦朧としていたので「助かった」とほっとすることもなかった。
ただ、朦朧としていても刑部がこちらへ戻ってきたという事実は分かっていた。それで、ほっとした。ほっとしたら、何やら眠くなってきた。
「治部殿、気を確かにもて!」
しかし刑部の、気の張った大音声(だいおんじょう)は、治部の脳へ突き刺ささるような衝撃を与えた。治部は、勢いよくこちらへ駆けてきた刑部が巻き上げた砂埃に目をしばたかせた。
「き、紀ノ介……」
逆光の中、刑部は治部に駆け寄るでもなく上から治部を見下げて険しい顔をしていた。
「時間がない。血を止めるんだ」
刑部は手拭いを治部の方へ投げ捨て、ばっと治部に背を向けた。
その直後、お預けを食らっていた敵が刑部に斬りかかる。刑部はそれを刀で撥ねたが手が一瞬びりりとするほど、敵に力が入っているのに驚いた。
刑部は治部を、こんなにぼろぼろにされて怒らないわけがないが、敵もまた怒っていたのだ。
彼は同僚が殺されたことで動揺するようなやわな訓練は受けていない。
しかし、刑部がもう矢を持っていないことに、刑部がここへやって来てやっと気付いた己に腹を立てていた。逃した魚が大きすぎる。
しかも、それはよくよく考えれば分かることだった。もし、刑部が矢を以って相手を始末出来るなら、こちらへ走ってくる必要はないはずなのだ。
刑部はここへきて弓をその場へぼとりと投げ捨てたので、敵を欺ける可能性に賭けてわざわざここまで弓を持ってきた。確信犯である。
「くそ!」
敵にとって、この後悔をなかったことにするのは、刑部と治部、両方の首を獲ったときだけだ。そりゃあ、気合も入ろう。
「ぐっ……!」
刑部にも、この敵がそう簡単には倒せないことは分かった。気合でいえば刑部も負けていないが、力も拮抗している。長い戦いになりそうだった。
治部はその間、刑部の手拭いと自身で持っている手拭いとで止血を試みていた。傷口が猛烈に痛む上、一人で適切に止血を行うのは、なかなか至難の業だった。
まず、腕に通す輪っかを作るように緩く手拭いを結ぶ。次に輪と傷との間に、手拭いを挟む。そしていつも持っている筆を、初めに作った輪にくぐらせる。最後にその輪を絡めながら、血が止まるところまで筆を回して腕を圧迫し、最後は襷(たすき)でその筆が動かないように固定した。
これは治部がまだ少年だったとき、修行の場だった近江観音寺に立ち寄った名も知らぬ侍が教えてくれた止血のやり方だった。その侍もまた、名も知らぬ誰かにそれを教わって、実際仲間を助けられたことがあったと自慢気に話してくれたのを治部は一緒に思い出した。
そうして無事止血が済むと、治部は少し楽になってきた。身体的にはもちろん、流れ続ける血をぴたりと抑えられたということは精神的にもいい影響を与えた。
(紀ノ介の……刑部殿の助太刀はできそうにないが、せめて足は引っ張らずにいたい)
治部は刑部が一対一で負けるはずがないと自信を持っていたが、気掛かりだったのは、太閤殿下を追いかけていた敵――治部が礫(つぶて)を投げてそれぞれ倒した――が意識を回復して、参戦してくることだった。
(火車の狙いは殿下だったが、殿下を追いかけることはもう出来ない。ならばせめて殿下の臣を屠(ほふ)ろうと考えるだろう。もしそうなったら……)
もしそうなれば、治部は持てる力を振り絞り、少しでも敵の足止めをしようと考えた。相手を倒すほどの力はもう残っていないが、ただ黙ってやられるだけは嫌だと思う。それほどの気力は回復していた。
(ずっとこうして倒れていたら、敵の格好の的だ。出来るものもこれでは出来ない)
治部はじっと仰向けになっていたが、左腕を上にして横向きになり、それから右手と左足で踏ん張りながらゆっくりと上体を起こした。それだけでも頭から血が引いていくような感覚があり、無理なことをしていると分かったが、それでもやめる気はなかった。
手の届くところに転がっていた自身の愛刀を身体に引き寄せ、それを杖の代わりのようにし、立て膝の状態から治部は右腕と脚に力を込めた。
刀で身体を支えていなければ、すぐにまた崩れ落ちてしまいそうなほど、脚に力は入らず、頭はぐわんぐわんと回っていた。
だが治部は、徐々に、そして確かに立ち上がったのだ。
立ち上がったからこそ治部が分かったことは、治部の“気掛かり”が本当になってしまったということだった。
礫を投げて気を失わせた二人の敵が、こちらへゆっくりと歩いてきているのに治部は気付いた。
(そうか。さあ、来るなら、来い……)
全てを受け入れた治部の魂は、静謐な古寺の仏像に手向けられた小さな蝋燭の火のように清んで、瞬き燃えていた。
吹けば一息で消えてしまうような治部の命だったが、治部は城の燃えてゆく音の他に、ざっざっと走る一人分の足音が背後から聞こえるのに気が付いて「まさか」と思った。
城から彼の屋敷はそう遠くない。城の異変にも気付けただろう。そして城が燃えているというのに、逃げるどころかこちらへ向かって走ってこられる度胸を持つ人を治部は一人しか知らない。
加藤主計頭清正が、助けに来たのだった。
「佐吉! 紀ノ介! 大丈夫か!? いや、絶対大丈夫じゃないな!? これは!」
こちらはずっと命がけの戦いをしているのに、主計頭はそんなのんきなことを大声で言っているので治部は緊張感もなくなって思わず、はははと笑ってしまった。
「ああ、全くもって大丈夫じゃない!」
「でも俺が来たからにはもう大丈夫だ!」
主計頭の言葉はとても爽やかだったが、その顔は爽やかとは程遠く鬼神の如き憤怒の表情を作っていた。
「あとは任せろ」
主計頭は治部の肩をぽんと優しく叩いて、そのまま治部の前へ通り過ぎていった。治部とは少しだけ距離をとったところで、刀をばっと抜く。
「てめえら全員、生きて帰れるとは思うなよ」
主計頭は暗く呟いた。