蜘蛛の糸1
治部は刑部を連れて、火車の間を出た。外の空気を大きく吸い込むと、それだけで頭の中が浄化されたような感覚になった。
(思考を邪魔していたものが雲散霧消するようだ。いつの間にか、平衡感覚も戻ってきている)
治部は相変わらず刑部の手を引いていたが、二人とも足元がふらつくようなことはなく真っすぐ走っていた。
「紀ノ介はもう大丈夫か?」
「火車香」のせいで治部にすがりついていた刑部は、まるで刑部ではないようで治部にとって恐怖だった。おそるおそる、後ろを振り向いて治部は刑部の様子を確認する。
「ああ。まだ頭は少し痛いが、ほぼ問題ない。連れ出してくれてありがとう、助かった」
ふにゃりと笑った刑部に、治部は心底ほっとした。まだ若干青ざめて見えるものの、いつもの調子がほとんど戻って来ていた。
「その二人を捕まえろ! 密儀伝授の秘密を盗み、逃げようとしている!」
だが後ろから聞こえてきたナユタの声に、治部はほっとするばかりではいられなかった。
「どうする!? 外へ出るか!?」
刑部も治部に尋ねたが、治部は首を横に振った。
「……ううん、こっちだ!」
治部が向かったのは既に火車の者たちによって塞がれている出口ではなく、密儀伝授の前にナユタが演説を行っていた台の上だった。
「紀ノ介、ここに登れるか? 畳が敷いてある。出来れば草履は脱いだほうがいい」
「ん? 分かった」
治部は刑部に説明をしながら草履を脱ぎ、台の上に、でんと立った。このときには治部と刑部の手は離れており、刑部は手探りもしながら、そろりと登壇した。
「あいつら、ナユタ様の御座(ござ)に乗ってやがる!」
火車の者たちは出口付近から次は台に向かってわあっと移動したが、治部と刑部が台に乗り切ってしまう方が先だった。
「おぬしら、よく聴け!!」
台の上に立つ治部と刑部を引きずり降ろそうとする火車の者たちに、治部は大きな声で言った。決して力んではいないのによく通るその声に、その場にいる誰もが動きを止め、治部の方を見た。治部は続けて言い放った。
「おぬしらは本当に今のままでいいのか? 火車の一員でいたいと思うのはおぬしらの本当の気持ちだと思うか?」
「はぁ? 何言ってんだ、こいつ……」
火車の者たちはざわついた。そしてしばらくすると、やはり治部たちを台から降ろそうとする者が現れたが、その動きはナユタが止めた。
「いいじゃないか、私が許可する。話を続けてみよ」
ナユタは扇で顔をゆったりと仰ぎながら、余裕そうに微笑んでいる。治部は、かかった!と思った。
(ここで暴力によって意見を封じ込めるのではなく、意見を言わせた上で、それでもナユタの方が正しいと思わせる方が結束力が上がる。そもそもナユタには火車の者たちの精神支配に自信がある。乗ってくると思った!)
治部には己の正しさと討論戦に自信があった。
(この戦、絶対に負けない)
治部がここへ足をわざわざ運んで分かったことは、この火車の者たち自身はそう悪気がないということだった。
『火車は最近、急激に悪名を高めて今や街の誰もが逆らえないようです。とにかく、自分たちの言い分が聞けないとなると、好き勝手に暴れまわるのだそうで』……そう言っていたのは左近だったが、治部もそれを聞いて、火車の人々は街の人に無理難題ふっかけてはさぞかし良い生活をしているのだろうと思っていた。
ところが、実際に火車の者たちを見てみると皆ぼろを纏い、痩せている。決して良い生活というものはしていない。
そして、ナユタが結局は止めたのではあるが、それでも、ここに集まっている火車の者たちは治部たちを台の上から降ろすことすら出来ないのだった。治部が草履を脱いでいるとき、刑部が手探りで台に登っているとき……十分そうしようと思えばできる機会は沢山あった。
そういうわけで、治部と刑部が立っている台の上に置かれているしゃれこうべもまた、とてもこの者たちで取ったものとは思えなかった。
これは左近の言葉で言う『違うニオイ』の集団、つまり火車の中に存在している忍の集団の仕業だと治部は推測する。そしてこの忍の集団は、全員城の襲撃に出掛け、今は牢に囚われているのでここにはいないのだ。
(ここに集まっている人は、ただ何か道を踏み外すきっかけがあったり、心が少し弱かったりする――そういうところをこのナユタという男につけこまれているだけだ。俺はおぬしらを助けたい!)
治部は覚悟を決めて、話し出す。