ある依頼
江戸城より少し離れたところに佐竹の殿さまの屋敷はある。城から少し離れている分、自然が近くにあった。桜の名所として有名な上野山、その麓にある不忍池などは聞いたことのある人の方が多いはずだ。
また、屋敷は同時に町人たちの生活の場と溶け合うように存在していた。この町には人形の職人が多く住んでおり、桃の節句の辺りなどはてんやわんやで賑う。
それも今はすっかり落ち着いて穏やかな春の季節である。
(今年も桜が美しく咲いたな)
佐竹の殿さまは庭園に咲く一本の桜を、縁側からぼうっと眺めていた。今日は体調が良いのか、頬など庭園の桜色が透けて見えているように血色が鮮やかだ。
この殿さま——名は義敦、号を曙山という。
曙山は一言で表せば天才だ。
勉学すれば習ったうちから全て覚えて理解し、絵を描けば並の絵師では全く敵わない。その上、美男とくる。
しかし天は人を平等に作った。曙山にとって、生来の病弱さは十分な足枷だった。
「殿! やはりこちらにおいででしたか!」
「やあ、武助。来たか」
武助と呼ばれた元気な若い男は、曙山の後ろにちょんと控えた。
この「武助」は小野田直武として皆に知られている。絵の才能を見込まれて、久保田から江戸の屋敷へ召喚されているところだ。
絵の力をもはや持て余していた曙山にとって、蘭画という新しい概念を持ってきて、それを教えてくれる武助は、家臣であると同時に師匠でもあった。
「殿、今日はお加減が宜しいのではないですか?」
「見ただけで左様に分かるものか? ああ。すごくよい」
そう言って、桜を背に負いながら嬉しそうに笑う曙山に武助はどきどきする。
すらりとした体躯といい、睫毛の長い切れ長の目といい、曙山は人というより美しい造形の観音像が動いていると思う方がしっくりくるようだった。と、そこへ血の気の通った小さく上品な唇で微笑まれると、下心がなくともつい見惚れてしまう。
「どうした? 何か用があるからここまで来たのだろう。黙っていちゃ何も分からない」
「あっ、あ! すみません! ちょっと考えゴト……」
武助はへへへ、とおどけながら、心のなかではちゃんとしなきゃと自分に言い聞かせた。
「あの、良かったら今日は外へ出て写生でもしませんか? そう、お誘いしようと思って」
「それはいい!」
武助の真心はちゃんと曙山に伝わった。曙山はまたもや美しい笑顔を見せる。
「それではすぐに支度をして参ります!」
そう言って武助は一度曙山の元から退出したが、手に色々と持ち、まさに「すぐ」戻ってきた。
「殿! 準備万端です! 出かけましょう」
「なんだ、武助。お前は初めから私を連れ出すつもりで準備していたんじゃないか」
「えへへ、だってこんなに良いお天気なんですよ? 殿もきっと外へお出かけになりたいと思っていました!」
甲斐甲斐しい武助が曙山には有難く、そしてその健気さは可愛らしくもあった。
(ういやつ)
曙山は心の中でだけ呟き、また微笑む。
二人は不忍池へ行こうと歩き始めたのだが、歩き始めて間もないうちに血相を変えて走ってくる吉次郎に遭遇した。その必死な様子に曙山と武助は思わず顔を見合わせた。
「吉次郎! だよな……?」
吉次郎と呼ばれた男はのちに司馬江漢という名で有名になる。この頃、既に絵師として立派に名をはせていた。武助が久保田から江戸へ来てからの一番の親友だ。
しかし吉次郎は普段、余裕綽々で女をたぶらかし、引き連れて歩いている方が様になっているような色男なのに一体どうしたものか。
「良かった、武助に話がある! 急いで来てくれ!」
「そんな急に言われても、一体何があった? 俺だって忙しいんだぞ」
「移動しながら話をする! とりあえず時間がないんだ」
武助は曙山の方を見た。ここは自分が判断する幕ではないと思ったからだ。曙山もそれを理解して口を開く。
「良いだろう。ただ事でないことは分かる」
「ありがと、殿サン! 恩に着る!」
「ただし、今日は武助と写生に行くつもりだったのだ。その武助を借りていくというのなら、私も一緒に行く」
この言葉に武助と吉次郎が顔を見合わせた。
「本当に⁉ いいのか⁉」
「殿! まだ何の話かも分からないのに、殿まで巻き添えになることはないですよ!」
「だがわざわざ、武助を借りに来るんだ、絵のことだろう?」
曙山がさらりと言った言葉に、吉次郎はぎょっとする。
「そうなんだよ! 俺様はまだ何も言ってねえのに、よく気付いたな! だから、殿サンにも来てもらえたら、そいつは願ってもねえってことよ! ありがてえ!」
吉次郎が手をぱんと叩いて拝む仕草を見せたので、武助は我慢ならなくなり吉次郎を一発はたいた。
「あだっ、なにすんだ」
「なにすんだ、はこっちの台詞だぞ! お前、殿が俺やお前みたいなのにも優しくして下さるから忘れてるかもしれないけど、佐竹の殿様なんだからな⁉ 本来お前なんかがお顔を見られる存在のお方じゃないんだぞ⁉ あまり無礼なことするなよ!」
「わ、わーったよ、悪ィ悪ィ。殿サン、すまねえな。悪気はこれっぽちもねェんだが、俺様は殿サンの絵を知ってるからよ。殿サンは殿サンだけど、やっぱりまずは同士って気がしちまうんだよ」
吉次郎が困り顔を作りながらもへらっと笑うので武助は頭を抱えた。しかし曙山はいたずらっ子のように、にやりと笑っていた。
「むしろ吉次郎からそう恭(うやうや)しく扱われた日には寒気がするわ。そんなことより早く行かなくてはいけないのだろう?」
「そうこなくっちゃ! 道はこっちだぜ!」
かえって免罪符を与えてしまったようで武助はまたもや頭を抱えながらも、身分によって威張ることのない曙山がいるからこそ今の自分がいるのでこれ以上は口出しできない。
「ったくもう……」
武助はまだ、もにょもにょと言っていたが、吉次郎は気にせず話を始めた。
「殿サンも、武助も『蔦重』のことは知ってるよな?」
「ああ。蔦重といえば江戸一の版元だろう。それがどうした?」
曙山は不思議に思った。絵の話にどうして『蔦重』が絡んでくるのか。
「蔦重んところに、ある物語の原稿が持ち込まれたんだ。その話が、まあ……すげえいい話なんだよ。俺も読んだが凄かった。持ってきたやつは自費出版のつもりだったみたいだが、蔦重はそれを買い取った。これを他で出されたらたまらんってな。それくらい魅力的な話ってことよ」
「へぇ~……」
曙山も武助もそこからどう自分たちに話が繋がってくるのかまだ分からないのでとりあえず相槌をうつ。
「ただ、その原稿を持ってきたやつっていうのが、江戸の人じゃない。なんと出羽から、伊勢講のていをとってわざわざやって来たって言うんだよ。しかもその原稿は遺稿だ」
「遺稿……? それを書いた人はもう亡くなっているのか」
曙山が尋ねると吉次郎はうなずいた。
「そういうこと。死んだ兄ちゃんが書いていた話を出版しようとその弟がはるばる持ってきたんだとよ」
「ははぁ。なんとなく分かって来たぞ」
曙山がうんうん、とうなずいているので武助は「えっ」と短い声をあげる。
「これだけの話で何が分かるのですか?」
曙山は逆に「なぜ分からないことがあるんだ」と言いたげな不思議そうな顔をしながらも話を続ける。
「その弟、伊勢講のていをとっているというからには、江戸へ一旦原稿を置いていき、東海道を通って、伊勢へ行ったのだろう。そして帰りは中山道を通る。つまり、弟はもう一度江戸に立ち寄るので、そのときには製本して完成したものを蔦重は弟に見せたいのではないか? その場合、製本に使える時間が限られてくるが、何らかの障害が発生して話につけるための挿絵がまだそろっていない。そこを私たちに手伝ってほしいと、そうだろう?」
さらさらと述べる曙山にこの話を持ってきた吉次郎でさえもぽかんとした。
「ああ……これからその話をしようと思ったんだけどよ、全部殿サンが言っちまったよ」
「さっすが、殿!」
「なんでお前が誇らしげなんだよ」
眼を輝かせる武助に吉次郎はじっとりした視線を向けたが武助は構う様子がない。
「それじゃあ、殿と俺にはその挿絵を手伝ってほしいってことだけど、でも、そういうのお前が一番得意じゃないか。どうして?」
吉次郎は確かに鈴木春信の弟子として活躍していた時期があり、物語の挿絵も多く手掛けていた。
「そりゃあ、この中では俺様が一番だろうよ。でもな、その……」
「なんだ、歯切れ悪いな。お前らしくない」
武助が怪訝そうな顔をすると吉次郎は思い切ったように言った。
「絵の締め切りが明日なんだよ。流石に俺様でも一人ではどうにもならねえって思って……」
「そういうことは早く言えよ! どうしてそんなになるまでほったらかしにしておいたんだ!」
口調こそ怒っているが、それでも「手伝わない」という選択肢を持ち出さない武助に、曙山は優しさを感じて思わず笑みがこぼれてしまう。
「殿! 笑ってる場合じゃないですよこれ!」
「ふふ、すまん。大変なときに笑っているなんて、気を悪くしたなら謝る」
「いや、そんなんじゃないですけど……」
曙山と武助の、かみ合わない会話の間をぬって、吉次郎もさらに話しだす。
「ごめん、ちょっと勘違いされてる気がするから言うけど、元々その挿絵は俺様が描く予定じゃ全くなかったし、もう完成してもいた! けど、完成した挿絵が昨日、誰かに炭で真っ黒に塗られたんだよ!」
「はぁ~? 炭で塗られた⁉」
武助が素っ頓狂な声を上げ、曙山は眉根を寄せた。
「ああ。なんでそんなことされなきゃいけねぇのか分かんねえけどな。でも、蔦重はいまや飛ぶ鳥落とす勢いだ。成功を妬んだ逆恨みっつうのはあるかもしれねえぜ」
「…………」
曙山は無言のままだが、美しい顔が歪んでいる。
「まあ、そのへんのことは父つぁんが蔦重と一緒に調べてくれてっから、大丈夫だろう。とにかく、明日が締め切りの挿絵なんて誰も引き受けてくれねえだろうから、俺様が引き受けたってわけよ」
吉次郎の言う「父つぁん」とは平賀源内のことだ。曙山、武助、吉次郎は皆、源内を中心に縁が出来ていた。
吉次郎は源内に拾われた身である。また今は蘭画の知識を曙山に教えている武助だが、その大本は源内から習っている。そして曙山は阿仁銅山開発をきっかけに源内とは戦友のような間柄だ。
「そうか、先生も大変なのか」
「むしろ蔦重から父つぁんへ、そして父つぁんから俺様に話がきたんだ」
「ほう……」
曙山は少し興味が湧いた。
その弟とやらが江戸に戻ってくるときに本が出来ていなかったとしても、完成した本をどうしても読んでもらいたいというのなら出羽に送ればいい。
しかしそれではだめで、わざわざ急いでいるのは、製本したものを見せたいというよりも、むしろその本が店に並んでいたり、本を手にとってもらえたりするところを、その弟に見せたいのだろうと曙山は思った。
そして蔦重や源内がそのために躍起になるほどの物語が、その兄弟にはある。
「……私は狩野派の絵画や、蘭画は少し嗜むが本の挿絵となると全く分からん。それでも良かったら力になれる」
「殿サァン、分かってくれるのか」
吉次郎の口調はいつもと同じ強気な口調だが、内心ではやはり不安だったのだろう。まるで捨てられた子犬が、飼い主を見つけたときのような甘えたかわいい目を曙山に向ける。
「俺も忘れてもらっちゃ困るぜ。正直、事情は分かったような分からないようなだが、先生が困ってるっていうなら、じっとしてられないし! 殿もやる気だし!」
「武助も! ありがとう!」
吉次郎は武助の肩をがっと抱いた。
「だがよ、吉次郎。俺たちが向かってるの、これ、吉原じゃねえか? これから絵を描くってのに?」
武助がいぶかしむと、吉次郎は「ああ」と言う。
「菊之丞だよ。あいつの顔で、空いてる商家を少し借りられることになってる。沢山描くわけだから、なるべく広い方がいいだろ?」
菊之丞は源内に恋する花魁だった。源内が困っていると言ったら力を貸すに決まっている。
「なるほど、本当に総力戦ってわけだ」
三人は話の尽きぬ間に、吉原にあるその商家に辿りつくことができた。
菊之丞のおかげで借りられたというこの家は商家というだけあって広々としていたが、三人ではもはや持て余してしまうほどだ。中にはいくつもの部屋があり、その中でも一番広い奥の間に三人は座った。
部屋の中には絵を描くための机や、絵の道具などの見慣れたものが既に用意してある。そして、見慣れない原稿が一つ。
「これが、その挿絵をつける物語の原稿だな」
曙山が手に取ると、原稿の初めの行には「桜下覚鏡」と書いてある。
「さくらのしたおぼえかがみ、か。どのような物語なのだろう。これほどまでに人を熱く動かしている」
「俺も一緒に読みたいです!」
武助が横から覗き込み、その様子を吉次郎が見て笑う。
「そうだな、まずはそれを読まなきゃ始まんねぇよ」