婚約破棄。
そんなこと、法律相談のテレビだけの話だと思っていた。
まさか、俺が当事者になるなんて…
しかも、被害者だ。
男も三十六になると、友人のほとんどが所帯持ちになっている。子供が二人三人いる奴らも珍しくない。多いところなんて五人の子だくさんだ。

五年ほど付き合った職場の部下。妊娠や出産を考えると、ギリギリ二十代のうちに入籍した方がいいとか何とか、鬼気迫る様子で説得されて婚約した。
自分は正直、どちらでもよかったのだ。籍にこだわる考えはない。ただ、結婚したくないと頑なに思っていたわけでもない。だから、うんと頷いた。
やれ婚約指輪だ、やれ結納だと、言われるがままに金を出した。
結婚式も披露宴も相手の望むままに決めた。
本当に、どうでもよかったのだ。そして、面倒くさかった。
何だかんだと集まる親族もジャマに思えたし、馴れ馴れしすぎる相手の兄弟にもうんざりしていた。
でも、それなりにうまく振舞っていたと思う。表面上は、にこやかに晴れやかに。これからの結婚生活を夢見る幸せな男に見えたはずだ。

それなのに。
結婚式の一週間前。突然の婚約破棄だ。
おかしいとは感じていた。どこかよそよそしくなった女の態度。しかし、周りの既婚者に聞くと「マリッジブルーよ」と言われた。結婚を控えて神経質になっているだけ。そう言われれば、そうなんだろうと思った。

だけど。
女には、他に意中の相手がいたらしい。俺と五年付き合っていた間、ついたり離れたりしていた男。情けないが、全く気づかなかった。
その男が結婚したものだから、自棄になって結婚を急いだのだという。しかし、結婚わずか三か月でその男は妻に飽きたらしい。早い話、女に復縁を迫ってきたのだ。
女も女なら、男も男だ。
そして。
俺も俺だ。
何も気づかず、翻弄されただけ。そしてそれに大して腹も立っていない自分が更に情けない。
女を愛していたわけではないのだ。五年も付き合っていたのに。結婚するはずだったのに。そんな自分の感情すら理解していなかったのだ。浅はかな俺は。
大変だったのは、怒り狂った俺の両親をなだめることくらいだった。慰謝料だなんだと鼻息荒く言っていたが、どうでもよかった。本当にどうでもいい。姉も旦那と一緒になって、結納金と式場のキャンセル料くらいは取り返せと言って騒いでいた。でも、何もしなかった。自分が稼いだ金を自分が使っただけの話だ。

式場の担当者に頭を下げ、招待客に謝罪の電話を入れる。それくらい、どうってことはない。同僚や友人は馬鹿にすることもなく、生ぬるく見守ってくれた。腫れ物に触るような居心地の悪さは感じたが、それも仕方ない。俺の愚かさが招いたことだ。
既に寿退社と派手に祝われて職場を去っていた女とは、顔を合わせることもなくなった。相手の男がどんな奴かは知らない。知りたくもない。まあ、一生関わることもないだろう。

婚約破棄されても、俺の生活は何も変わらなかった。
ただ、ふと思い出した人間がいた。
社会に出て、忙しくて忘れていた。ずっと思い出すことのなかった人。
高校時代の彼女、優美(ゆみ)香(か)だ。
浪人した俺より先に大学生になり、必然的に先に社会に出た彼女。
いつしか疎遠になり、風の噂で上司と結婚したと聞いた。ちゃんと別れを告げたわけでも告げられたわけでもなかったが、よく考えれば、付き合おうと宣言した覚えもない。何となく一緒にいて、何となく離れた。
でも、俺は、ずっと優美香が好きだった。
そう。
今でも、好きな気持ちはきっと消えていない。俺には、婚約破棄した女を罵る資格なんて無い。生涯で唯一愛したのは優美香だけだったのだから…

ふと気になって、登録したまま放置していたSNSにログインした。優美香の名前を探そうとしたが、今の名字がわからない。そもそも、本名で登録しているかどうかも不明だ。
母校のコミュニティを覗いてみる。ご丁寧に卒業年が自分と同じ登録者の一覧が表示された。案外、ほとんどが本名で登録している。そうなのか。俺は流行りのゆるキャラの名前をもじった、わけのわからない名前で登録しているのだ。そうか。
一人パソコン画面に向かって何度も頷き、マイページに戻る。登録名を本名にして、母校のコミュニティに参加した。
改めてコミュニティの一覧を探す。

「優美香…」
一覧の中に、彼女の名前を見つけた。林田優美香(旧姓:竹井)。間違いない。添えられた写真は、少し輪郭が丸くなっているが、あの優しく美しい笑顔だ。
見つけたところで、どうこうしようというわけでもない。元気なら、それでいい。もう、自分の存在など彼女には過去でしかないだろう。
 日記を読もうと思ったが、閲覧制限が掛かっている。「友達」になっていないと読めないらしい。それは困った。彼女に声を掛けるつもりはないのだ。
「うーん…」
 何も表示されない日記とにらめっこしていると、画面の右下に、赤いマークが光った。「メッセージが届きました」と吹き出しが出る。
 クリックすると、そこには友達申請の文字と、優美香の名前があった。

「!」
 俺は慌ててOKのボタンを押した。押してから、メッセージに本文があるのに気づいた。
 
「お久しぶりです。拓馬くんだよね?よかったらまた仲良くしてくださいね」

 それだけの文章に、俺の鼓動は早くなった。優美香だ。返事を書かなくては…今この瞬間、彼女もオンラインなのだ。自分からのメッセージを待っているかもしれない。
 しかし何と書けばいいのだろう。「こちらこそよろしく」とでも書けばいいのだろうか。それだけじゃつまらないだろうか。何か気の利いた言葉を…
 悩んでいると、また赤いマークが現れた。

「懐かしいね!よかったら連絡先教えて下さい」

 優美香からのメッセージがまた届く。添えられた電話番号とメールアドレス。付き合っていた頃は自宅の電話とポケベルが連絡手段だった。もう少し早く携帯電話が普及していたら。今のようにスマホで手軽にやりとりが出来る時代だったら。もしかしたら自分たちは、自然消滅などせずに続いていたかもしれない。
 いや。あの時代はあれが良かったのだ。もどかしさの中にある幸せや照れくささが、楽しかったのだ。

 俺は一人思い出に浸りながら、返事を送った。

「久しぶり。いつでも連絡ください。俺は三日前に婚約破棄されて独身貴族を満喫中です(笑)」
 
 二十年ぶりに元カノに送るにしては内容が重いだろうか。そう思って、一応最後に(笑)を入れておいた。

 すぐにスマホがメール着信を告げる。優美香は暇なのだろうか。そういう自分も今日は有給を使ってダラダラしている身だから、何も言えないが。

「独身貴族!いいね!私は仕事に子育てに同居に、がんじがらめに窮屈に生きてますよ。でも毎日充実してるから幸せだけどね!」

 すぐに返事をしようかと思ってやめた。このままだと何度も何度もメールをやり取りすることになりそうだ。後にしよう。スマホを置いて、パソコンの前に戻った。
 閲覧が許可された彼女の日記を開く。頻繁に更新しているようだ。
 十日ほど前から順に読んでみる。全然帰ってこない夫への愚痴。同居のストレス。子育ての悩み。仕事のつぶやき。ネガティブな内容から始まる日記は、全部「でも、元気だし毎日充実してるから幸せだと思って頑張ろう」と締めくくられている。
 気になって、さらに遡って日記を読む。「子供が無事に育ってるから、それでよしとしなきゃね」「元気に働けてるのが何よりの幸せだと思わないとね」どこまで戻っても、優美香の日記はまるで自己暗示をかけるかのような文章で終わっている。

 本当に、本当に優美香は幸せだと思っているのか?
 その疑問で頭がいっぱいになった。

 夫が帰ってこない?それは普通なのか?ポツポツと書かれるつぶやきから推測すると、この夫婦はセックスレスなのだ。同居しているのに家に帰らずに妻を放っておく夫。「帰ってこないほうが楽だし」と書かれているのは、本意なのか?俺にはそう思えない。
 そもそも帰ってこないって、どういうことなんだ?遊び歩いているということだろう。他に女がいるのは見え見えだ。
 親の面倒を見るために家を建てて同居を始めたと書かれている。その為に仕方なく働き始めたと。それなのに、家はまるで親の物であるかのように大きな顔をされ。親族や近所の人間が我が物顔で上り込んでくる。
子供の面倒は見てもらえず。体調崩して学校を休まないかと、常に冷や冷やしながら働いている。フルタイム勤務でヘロヘロになりながらPTAの役員もしている。
「毎日充実してます。おかげで毎晩バタンキューで熟睡です」そうニコニコの顔文字と一緒に書かれた日記が、強がりにしか見えない。
 きっとママ友達や同僚には愚痴れずにネットに吐き出しているのだろう。でも吐き出し切れず、自分を諭すように言い聞かせるように、幸せなんだと締め括っているのだ。

 俺はがっくりとうなだれた。勝手に、優美香は幸せな結婚生活を送っていると思っていたのだ。大好きだった彼女には、幸せになっていて欲しかった。

メールを送る。
 
「日記読んだ。なんか、大変そうだな。俺でよかったら話聞くよ。何もできないかもしれないけど、話すだけでも楽になるかもしれないから。メール好きみたいだし。いつでも送って来ていいからな」

すぐに返事が届いた。

「ありがとう。懐かしくてついメールしちゃったんだ。他の同級生はSNSのやりとりだけで、アドレス教えたのは拓馬だけだから」

「そうか。それは元彼の特権ってことだな(笑)ただ、正直メールはそんなに得意じゃないっていうか面倒くさいから、機会があれば直接会って話聞きたいな」

「ありがとう。でも、会って話したら泣いちゃいそうだから止めておくよ」

「いや、優美香が頑張ってるって話聞いたら、俺が泣いちゃうかも」

 結局短時間に何度もメールが行き来した。面倒くさいから嫌い。それは嘘じゃない。メールは苦手なのだ。でも。このやりとりが、殊の外楽しかったのだ。嘘みたいに。
 途中から素直な言葉で愚痴り始めた彼女を、俺は愛おしいと思った。自分だけに見せる弱い姿。
 送信も受信も十通を超えたところで、俺から「そろそろ出掛けるから」と終わりを切り出した。彼女からは「話聞いてくれてありがとう」と返ってきた。少しでも胸につかえたモヤモヤが晴れたなら、よかったと思う。
 
 そこから何をしていても、優美香のことばかり考えていた。思い出すのは、楽しかった遠い昔の日々。思い出は、どこまでいっても美しく優しい。


 泣きじゃくる優美香を抱きしめる夢を見た。彼女の髪を撫でながら、俺も子どものように泣いていた。

 目覚めて胸の苦しさに思わず、大きなため息をついた。

寝ている間に優美香からメールが届いていたらしい。あくびをしながらメールを開く。

「拓馬も、何かあったら言ってね。私でよければ聞くから。男の人って、なかなか他人に弱み見せられないから大変だよね。遠くに住む元カノなら、いくらか話しやすいでしょ?」

 強がってるのはオマエだろ、と突っ込みを入れたかった。そう入力しようと下を向くと、何かが頬を伝って落ちた。
 
 ポツリ
 液晶画面に落ちた、一粒の雫。
「!」
 俺は、泣いているのか。

 いい年をした男が、何を泣いているんだ。何で泣いているんだ。パシパシと頬を強く叩く。しっかりしろ、俺。
 そんな動作を見透かしたように、優美香からのメールが届いた。

「おはよ。もう起きてるかな?泣きたいときは、男の人だって泣いていいんだよ」

 無機質な文字に、優美香のぬくもりを感じて、俺はスマホを抱き締めて泣き崩れた。
 張りつめていた気持ちがスーッと溶けていく。そうか。俺は、傷ついていたのか。苦しかったのか。無理していたのか。

 断られたら冗談だと言い張れるように、わざと冗談めかしてメールを送った。

「おはよ。なあ、俺ともう一度付き合わないか?青春をやり直せるなんて、お得だろ?」

 程なく届いた返事を確認して、俺は洗面台へ向かった。

「それはお得かも。でも、ダメ。私は夫を裏切るつもりはないし、子どもを傷つけるようなことは絶対しない。拓馬も、そう思える家族が早くできるといいね」

 冷たい水で顔を洗い、ネクタイをキュッと締めて出勤する。


「おはようございます」
「おお、おはよう。なんだ。何かスッキリした顔してるな。よかったよ。おとといは抜け殻みたいで声掛けられなかったからな。よかったよかった」
 部長に言われて周りを見ると、同僚や部下も頷いていた。
「ほんと先輩、魂抜けちゃったみたいな顔してましたよ。心配してたんですからね」
 
「そうか。悪かったな。皆さんも、ご心配おかけしました。もう大丈夫です」
 部下の肩をポンと叩き、部署の皆に頭を下げた。

「よし!今日は早く仕事終わらせて、飲み行くぞ!」
 部長の一声に、皆が沸き立った。

「やったー部長のおごりですね!」
 俺は万歳して部長を見た。

「くっ…いや…わ、わかった。ただし、飲み放題2時間コースだからな」
 渋い顔で財布の中身を確認しながら、部長が言う。

「了解です!」
 皆はにこやかに答えた。

「飲みに行きたかったら、まずはとっとと仕事しろ!」
「はい!」


 俺の生活は何も変わらない。でも、ほんのちょっとだけ素直になれたかもしれない。
 仕事が終わったら、優美香にメールしよう。遠く離れた元カレとして。彼女と家族が幸せでいられるように心から祈って。

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