ギンガムチェックのスカートか風になびく。
少し長めの裾がさわさわと足首を撫でてくすぐったい。

瞳美(ひとみ)は手に持っていた買い物袋を草の上に放り投げると、ぐーんと伸びをした。

見上げた空はどこまでも透き通るようなのに、それでいて、その先にあるものが何も見えない。流れて形を変えていく雲。
大きく深呼吸すると、鼻の奥がツンとした。

涙など、とうに枯れ果てたと思っていた。
涙の流し方など、忘れてしまったはずだった。

頬をつたう、あたたかな涙。
ああ、生きてるんだな。
妙な安心感を持った。私はこうして、ちゃんと生きてる。


彼に付き合ってほしいと言われた時、それまで意識したこともなかった相手だったけれど、はいと答えた。
断る理由も言葉も見つからなかったから。

彼に別れてほしいと言われた時、特に感じることもなく、はいと答えた。
付き合っているということの意味もよくわかっていなかったから。

彼に復縁を迫られた時、少し困ったけど、はいと答えた。
別れてみたら、ちょっと寂しような気がしたから。

彼が浮気を許してくれと頼んできた時、悔しかったけど、はいと答えた。
ほんのちょっぴり、好きだという気持ちが芽生えていたから。

彼が結婚するけど今のままの関係でいてくれるよな、と当たり前のように言ってきた時、はいとは答えられなかった。

答える代わりに、思い切り、ひっぱたいた。
叩くつもりなんてなかったけど、無意識に体が動いてしまったのだ。
人を叩くなんて人生初の経験だったけど、結構いい音がするんだな、とまぬけな感想を抱いた。罪悪感はなかった。

彼が頬をさすりながら、でも、ちょっと笑ったような顔で出ていく。
それがすごく憎かった。
彼のことを好きだったと言ってしまったようで。
彼がうぬぼれているようで。

一人になった部屋で、泣き過ぎて頭が痛くなるほど、泣いた。
腫れ過ぎた目は、元がどんな形だったのか見る影もない。
噛み過ぎた下唇が、紫色に変色している。
ああ、彼のこと、大好きだったんだ。
初めてそこで気づいた。

バカみたい。
今まで自分の気持ちに気づかなかったことも。
あんな男を好きになってしまったことも。


メールの着信に気づいて開くと、彼からだった。
結婚しても大好きだよ、とふざけきった一文に思わず携帯を壁に投げつけた。
案外丈夫なんだな。少し表面が凹んだだけの携帯を、瞳美は、他人事のように見ていた。



数週間後。
しれっと届いた結婚式の案内状。

宛名の自分の名前に舌打ちした。
瞳未。違う。間違ってる。私は瞳美。

瞳美は、自分でも何と言っているのかわからない奇声を上げて泣き叫びながら、その封筒を破り捨てた。

返信ハガキも破ろうかと思ったが、やめた。返事を出さずにあちらから連絡が来ては面倒だ。欠席にマルをする。
震える手で、涙で滲んだ謝罪の言葉を添えた。申し訳ありませんが欠席させてください。
都合が悪いわけではない。ただ単純に行きたくなんかないだけ。
祝福の気持ちなんて持てるわけがない。

そんな気持ちもわからずに、こんな案内を送ってくるなんて。
それとも。
わかっていて送ってきたのだろうか。
繋がりをまだ捨てずにいれば、いずれ、はいと受け入れると思っているのだろうか。

バカにしてる。


全身から力が抜けて崩れ落ちた。私は抜け殻のように何も感じなくなった。


そこからも、何もなかったように表面上はうまくやっていけたと思う。

仕事もこなしたし、飲み会にも顔を出した。
だけど、何も面白いと思えなくなった。
休日は家にこもるようになったし、テレビもラジオもつまらなくなった。
聞くともなしに音楽を流し、ただボーっと寝転がっていた。


今日も朝からダラダラ過ごしていた。
洗面所の鏡に映る幸薄そうな女が、自分だとは思いたくなかった。

これは、誰なんだろう。
これは、バカだった自分だ。

鏡を見つめながら、自分の愚かさにため息が出た。


もう、やめよう。

瞳美はパシパシと両頬を叩いて、立ち上がった。

熱いシャワーを頭から浴びる。
ガシガシゴシゴシと隅々まで力いっぱい洗い、勢いよく流した。

さよなら、ぜんぶ。


冷蔵庫から取り出したばかりのスポーツドリンクが、体中に染みわたっていく。
全身が生き返ったようだ。
カラカラだった心に潤いが戻ってきた。

保冷剤をタオルで巻いてまぶたに乗せると、ひんやりと心地いい。
久々に電源を入れたテレビでは、お笑い芸人が賑やかに騒いでいる。
大げさに笑って見せるショートカットの女性タレントが、とても可愛く見えた。この人、こんなに魅力的だったかしら。瞳美は首をかしげた。
特に取り立てて特徴もない、よくいるタレントだったはずなのに。


瞳美は目の腫れが幾分ましになったのを確認して、久々に気合を入れてメイクした。
鏡の中に、いつもの自分がいる。
今にも消えてしまいそうだった、悲劇のヒロインはもういない。

さよなら。

彼にプレゼントされた鞄から中身を取り出し、クローゼットに眠っていた別のカバンに詰める。こっちの方が持ちやすいし、いっぱい入るのだ。

さよなら。

彼が履けと言ったヒールの高い靴は、苦手だったのだ。しばらく履いていなかったスニーカーをつっかける。ほら、こっちの方が歩きやすいじゃない。

さよなら。

美容院に予約なしで飛び込んだ。彼の好みで背中半分まで伸ばしていたロングヘア。バッサリ潔く、ショートカットにしてもらった。何が長い方が君には似合う、よ。短い方がよっぽど私らしいんだから。

さよなら。

彼がかわいいと褒めてくれた花柄のスカート。本当はあまり好きじゃなかったのだ。この服にも、さよならしなければ。

切った髪を気にしながら、ウインドウに映る自分を何度も何度も見ながら歩く。
白と黒のハッキリとしたチェックが目に飛び込んできた。
通りがかった店のマネキンが履く、ギンガムチェックのスカートが目を引いたのだ。
表情どころか顔そのものすら無いマネキンなのに、楽しそうに見える不思議。
若草色のトップスと組み合わせたスカートは、店内なのに風をまとって遊んでいるようにすら見える。

これがいい。

瞳美は購入を即決した。
せっかくなので、上下揃えてマネキンの服をそのまま買おう。
この服を着たら、自分も風をまとえるだろうか。
楽しげに舞えるだろうか。

サイズも値段も確認せずに、あのマネキンの服をください、と言いながら店に入った。
他に客がいなくてよかった。もしもいたら、変な目で見られただろう。

かしこまりました。
ゆっくりとお辞儀してから、店員がマネキンと同じ組み合わせの品物を揃えてくれた。

このまま着て帰りたいと店員に頼み、タグを外してもらう。
試着室を借りて着替えると、そこには爽やかな風が見えた。

これだ。

カーテンを開けると、待っていた店員がお似合いです、と褒めちぎりながら持ち帰り用に袋をくれた。

ありがとうございます。

瞳美は自然に心から、微笑んだ。
社交辞令だって営業スマイルだっていい。今、自分でもすごく似合うと思っていたところなのだ。それを似合うと言われて、悪い気はしない。

笑うなんて、久しぶりじゃないだろうか。

カードで支払いを済ませ、店を出る。軽い足取りは思わずスキップに変わった。

少し歩いて、公園に立ち寄る。
程よい木漏れ日が元気をくれる。
木々の匂いが生きてる実感をくれる。
青々とした草が風で一斉に揺れて戯れて歓迎してくれる。

空を眺めて流れた涙は、もう、悲しいものじゃない。

ぜんぶにさよならして、新しく流れた涙だ。

さあ、歩き出そう。
前を向いて。一歩ずつしっかりと踏みしめながら。

私は、こうして、ちゃんと生きてるんだから。

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