コンサート会場で肩をたたかれた。
 開演までの待ち時間、ロビーで。一緒に来た友人がトイレに立ったときだった。声をかけられるのかと待っていると、紙にペンを走らせるような音がした。筆談? 口がきけないのか。僕はちょっと迷って言った。
「あの、僕目が見えないんです」
 ペンを走らせる音がとまった。耳は聞こえるようだ。
「ちょっと待っていてください。友人がもうすぐ戻って来るので、そしたらお話しましょう」 
 そう言うと、隣にそっと座る気配がした。ふわりと空気が揺れて、甘い香りがする。石鹸の香りとも香水とも違うやわらかで自然な香りだ。山深い秘境に誰にも知られずに咲く名もない花のような、いや、花というより果実だ。みずみずしく実った未知の果実。いや、それもなんだか違うような気がする。香りについての考察は結局結論を得ないまま、僕はその香りの持ち主のことを少しだけ考える。
 三ヶ月前、突然視力を失った。原因不明の視神経麻痺。医者の話では目の機能に異常はなく、一時的なものだろうということだった。
 不安は感じなかった。一時的だという医者の言葉に安心したこともあったが、見えないという未知の体験に妙にわくわくしている不思議な自分がいた。
 とりあえず職場に休職願を出して、食事はデリバリーをたのむことにした。いくつかの店をピックアップし、スマートフォンの音声操作で注文できるように設定した。家の中のことは、多少不便ではあるが、手探りでなんとかそれなりにこなしている。たまにこうして外に連れ出してくれたり、部屋に様子を見に来てくれる友人もいる。おかげでわりとのんきに見えない世界で暮らしている。なんでもないところで転んだり、思わぬ失敗をすることもあるが、それも見えない生活のアクセントとして楽しみ、まあ大過なく過ごしている。 
 見えない世界は、音とにおいとさまざまな肌ざわりに満ちていた。風のにおいや雨の音、街のざわめき。飲食店から漂う食べ物のにおいやCDショップからもれてくる音楽のフレーズ、チラシや宣伝用のティッシュを配る人たちの声やふとふれる手の感触。すれちがう女の子たちのかすかなコロンの香りや、その笑い声が醸し出す華やかな空気の揺らぎ。ぽつんと落ちてきた雨粒の意外なつめたさ。友人に手をひかれて街を歩いているとさまざまなにおいや音、そして肌ざわりに出会った。そこでは今までとは違うリアリティーで街がいきいきと息づいていた。僕は耳と鼻と皮膚で街を感じた。目が見えるということは、もしかしたら、それ以外の感覚に目隠しをしているということかもしれない 。
「悪い。途中で電話が鳴っちゃって。待ったか?」友人の声だ。
「ああ、いや、それより彼女と話がしたいんだが、口がきけないらしい。ちょっと手伝ってくれないか」
「彼女って?」
「ここにいるだろ?」隣を手で示した。
「誰もいないよ。勘違いじゃないのか?」
「いや、そんなはずはない。彼女はたしかにここにいた」
 何よりこのやわらかな香り。この香りこそが彼女なのだ。
 開演のアナウンスが流れる。
「始まっちまうよ。行こうぜ」
 友人に手を取られ僕は立ち上がった。彼女はどこへ消えたのだろう。


彼女はどこへ消えたのだろう。あれからずっと考えている。彼女はたしかにそこにいた。短期間ではあるが、僕の見えない生活で得た経験からいうと、それは疑いようもない事実である。

 彼女についての手掛かりは、口がきけないらしいということと、コンサートの主演ソリスト、それにあの不思議な香り。

 とりあえず、彼女の香りだけは覚えておこう。そう思った。もっとも忘れようと思っても忘れることはできないのだが。



 そして半年が過ぎた。同じソリストのコンサートに一人で来ている。医者の言葉どおり視力はほどなく回復した。
 ふと目を閉じてみる。おかしな話だが、目が見えるようになってから、自分が見ているこれが本物の世界なのか、自信がなくなった。だから時々目を閉じて視覚を遮断してみる。

見えない世界に少々慣れ過ぎたのかもしれない。

 ロビーのざわめき、人々の気配、喫茶コーナーから流れてくるほのかなコーヒーの香り。大丈夫。ここはあの日と同じコンサート会場だ。僕は納得して目をあける。

 もちろん彼女に会えるなんて思ってはいない。そんなに簡単に事が進むはずはない。だが、街でこのソリストのコンサートのポスターを見かけたとき、じっとしていられなかった。彼女を見つける数少ないチャンスなのだ。急いでチケットを手配し、今日ここにいる。

 ロビーの中央の丸い大きな柱にもたれて、僕は待った。開園を。そして、何かが起こるのを。 

 柱の向こうで気配がしたのは、それからほどなくのことだった。

 僕は静かに目を閉じる。

 さらさらと髪にペンを走らせるような音。

 ふいに空気が揺れる。

 そして、あの香り。忘れようもないあの香りだ。

 深い息を一つして、僕はゆっくり柱の向こう側に回りこんだ。

 出会ったのはディープグリーンに輝く一対の目だった。低い位置からこちらをじっと見上げている。

 香りの持ち主は、シルバーグレイの毛並みが美しい、緑の目の、猫であった。

 君だったんだね。

 僕は、自分がさほど驚いていないことに気付いた。そうか、君だったのか。

 しゃがんで手を広げると、猫はゆっくりと近寄ってきて、手の中にすっぽりとおさまった。そっとなでると、シルバーグレイの美しい毛のあいだから、ふうわりと香りが漂ってきた。

柱の、猫のいた付近に小さなキズがあった。爪をといでいたようだ。紙にペンを走らせるような音の正体はこれだったのか。僕はいとしいもののようにそのキズを眺め、しゃがんだまま、しばらくその香りを抱いていた。

 一緒に来るかい。

 猫をはなして立ちあがると、緑の瞳に問いかけた。猫はしばらく小首をかしげていたが、僕が歩き出すと、あとをついてきた。

 結局コンサートは聴かず、僕は猫を連れて部屋に戻った。

 猫はほとんど手がかからなかった。餌もあまり食べず、排せつもしない。それでも変わらず元気そうである。最初は少し心配したが、そのうちこれがこの猫の特性なのだろうと思うようになった。もともと不思議な猫だった。

 猫を飼うようになっても、僕の生活にあまり変化はなかった。毎朝会社に行き、夕方帰る。たまに残業もする。友人と飲みにも行く。かなり遅くなることもあるが、いつ帰っても猫はいつものあの香りで迎えてくれる。

 いつからか、僕は部屋に帰ると目を閉じるようになった。視力を失った数カ月前のように。すると、「彼女」が現れる。とてもリアルに現れるのだ。そうしていると僕は時々、自分が猫と暮らしているのか「彼女」と暮らしているのかわからなくなった。

 ある朝目が覚めると、となりに「彼女」が寝ていた。「彼女」はシルバーグレイの長い髪をした美しい女の姿で、体にシーツを巻きつけ、静かな寝息をたてていた。

 僕は手をのばし、「彼女」の髪にそっとふれてみた。猫の毛ではない、なめらかな女の髪だった。

 そうか、君だったのか。

「彼女」の体からは体温とともに相変わらず例の香りが漂っていた。僕は「彼女」の髪をなでながら目を閉じ、もう一度眠りの中に入っていった。

 それから時々、「彼女」は女の姿で現れる。たいていは明け方、眠った姿で。僕はまどろみながら「彼女」の長いなめらかな髪をなでる。それだけで幸せな気分になった。「彼女」の香り。「彼女」の体温。「彼女」はたしかにここにいる。



 玄関でチャイムがなっている。二度。三度。出なくては。それにしても、テーブルと椅子がやけに高い。なんなんだ。いや、テーブルと椅子だけじゃない。流し台や食器棚、ドアノブの位置も、部屋全体が上に伸びたような気がする。

「なんだ、開いてるじゃないか。留守か。不用心だな」

 ドアが開いて友人の声がする。

 僕は異常に高くなったテーブルの脚に頭をぶつけながら玄関に出ていった。

「あれ、猫を飼っているとは聞いていたけど、2匹いたのか」

 異常に背の高い友人が僕を見下ろしていった。2匹?

「おまえさんたちの飼い主はどこにいったんだろうね」

 友人は僕の体をひょいと持ち上げ、顔を近づけた。

 わっ、よせ。

 声を出そうとしたが、出ない。かわりに喉の奥から妙な音が出た。

 友人はあばれる僕を下して部屋にあがった。

「おい、本当にいないのか」

俺はここにいる。僕は再び口を動かしてみたが、喉の奥からはやはり妙な音しか出てこない。妙な音。猫の鳴き声のような。

 友人はスマートフォンを取り出しながら部屋を一回りした。

「スマホの電源も切れてる」

 友人はそれでもしばらくダイニングの椅子にすわって待っていたが(いったい何を)、やがてあきらめて帰っていった。帰り際、僕の頭をなでて、

「部屋を出るときは鍵をかけるように飼い主にいっておけよ」といった。

 友人が帰ると、僕は洗面所にいき、これも異常に高い洗面台によじのぼった。見ると、鏡の向こうの洗面台に、毛足の長い見知らぬ黒猫が乗っていた。黒猫の後ろにはシルバーグレイの「彼女」が緑の目をきらめかせている。

 ふりむくと彼女がそこにいた。

 彼女の体温。彼女の香り。やっぱり、君だったんだね。 

 彼女をよりよく見るために、僕は目を閉じた。

                 完。






紫藤幹子
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紫藤幹子

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