「波を掴む手。」
「波を掴む手。」
玄関がしまった音を確認して、彼方は再びリビングに降りる。
日向が学校へ行き、片づけられたリビングは、なんだか少し寂しく感じる。
その部屋の片隅に、綺麗に畳まれた日向の部屋着を見つける。
日向は器用でマメだ。
掃除や片付けも得意だし、整理整頓が身についている。
いつも彼方が脱ぎ散らかした服を畳んだり、
靴を揃えたりするのは、日向の役目だった。
何も言わずに、彼方の身の回りの世話を焼いてくれる。
そんな日向の優しさが、身に染みる。
今も机の上には、彼方の食べかけの朝食が、綺麗にラップをかけられていた。
その冷めきったはず食事は、何故かとても暖かい気がした。
しかし、今は食欲がない。
仕方なく、その綺麗にラップをかけられた食事を、冷蔵庫に入れる。
日向がいなくなった部屋は、とても広く感じた。
家にいたってすることがない。
無意味に孤独を噛み締めるだけだ。
彼方は、どこかへ、行きたい気分だった。
家からほんの少し歩けば、そこは誰もいない静かな海が広がる。
彼方は、砂浜に立ち尽くし、寄せては返す波をただ見つめた。
それはまるで日向のようだった。
寄せては返す。それを繰り返す。
つかず離れず、…離れず。
突き放そうとしては、優しくする。
優しくすれば、突き放す。
その波を手で掴んでみようとしたところで、
海水はただ、あざ笑うかのように、彼方の手をすり抜けていく。
日向は未来へ進もうとしている。
じゃあ自分は?自分には何がある?何ができる?
何もない。空っぽだ。
日向のように、手先が器用なわけではない。
亮太のように、スポーツができるわけでもない。
将悟のように、楽器なんて弾けない。
普通の生徒のように、勉強ができるわけでもない。
いつも自分は、日向に助けられてばかりだ。
一人で何もできない。
それなのに、日向と離れるなんてことを、考えたくなかった。
飽きもせずに、波は寄せては返す。
ゆらゆら、ゆらゆら。
その水面は、独りぼっちの自分だけを映していた。
みすぼらしい、情けない顔。
―日向は、カッコいいのになあ。
同じ顔のはずなのに、全然違って見える。
日向は優雅で華麗で孤高。まるで凛と咲く花のように綺麗だと思う。
自分なんかと全然違う。日向は強く、高潔だ。
そんな日向と比べると、自分は下水道を這い回る、薄汚れたネズミのようだと思う。
一人で何もできない。弱くて狡い。
誰の目にも触れないように、隠れていたい。
どうしようもなく甘ったれで、卑怯だ。
こんな自分に未来なんてない。
聞きたくない言葉から逃げ、箱庭を壊そうとする人間を傷付け、
それでも自分は守られていたい、だなんて、あまりにもムシが良すぎる。
そんなことは、わかっている。
けれど、この箱庭を壊す勇気がない。
ずっと、一生、このままでいられたら、どれだけ幸せだろう。
未来なんてなければいいのに。
卒業なんてなければいいのに。
変わることのない今が、ずっと続けばいいのに。
いっそ、あの綺麗で繊細な手で、自分を殺してほしい。
昨日、日向が何を思ったのかは、知らない。
けれど、自分の望むまま、この呼吸を止めてくれたら、どれだけよかったことだろう。
きっと、またいろんな人を傷つける。
日向も、ほかの人間も。
そして日向を苦しめる。
そうなる前に、自分を消してほしかった。
他の誰でもない、大好きな日向の手で。
そんなことを考えているうちに、太陽はてっぺんまで来ていた。
強い日差しと、夏の暑さが身を焦がす。
虐待の痕を隠す長袖のパーカーは、この季節には全く合っていなかった。
こんな誰もいない海なら、脱いでしまおうか、と考える。
しゃがみ込んで、波に手を遊ばせると、冷たい感触が心地よかった。
―泳ぎたいな。
ゆらゆら揺れる水面とにらめっこをしていると、不意に背中に衝撃が走る。
「う、わぁっ!」
何かに押されて、その水面に、頭から突っ込む。
驚いて振り返ると、
そこには彼方の腰くらいまでの身長がありそうな大きな犬がいた。
遊んでくれと言わんばかりに、彼方に懐いてくる。
「え?なんで…犬?」
じゃれつく犬に、びしょ濡れになった彼方は、ただ茫然としていた。
「すいませーん!大丈夫ですかー!?」
遠くから女性の声がした。
海岸を見渡せば、遠くから、よたよたと走りながら、女性が手を振っていた。
犬をよくみると、首輪とリードをつけていた。
「ごめんなさい。私がリードを離しちゃったから…。」
近づいてきた女性は、申し訳なさそうに、彼方にタオルを差し出す。
全身びしょ濡れになった体は、タオル一枚でどうこうできるわけではないけれど。
「ああ、大丈夫です。家も近いし。」
「本当にごめんなさい。この子、初めての海で大はしゃぎしちゃって。」
何度も頭を下げ、彼方に謝る女性。
歳は20代後半くらいだろうか。
腰まで伸びた長い髪を、横で纏めて麦わら帽子を被っていた。
長いスカートが、風に煽られ、ふわふわと揺れている。
犬はそんなのお構いなしに、彼方にじゃれついてくる。
「わあっ、ちょっと待って、ああっー。」
前足で器用に彼方にもたれかかる。
彼方を支えに立ちあがった犬は、肩の高さほどの大きさだった。
「こら!リッキー!だめでしょ!おにーちゃん困ってるでしょ!」
女性が叱ると、犬はしゅんとした様子で大人しくなる。
しかし、その大きくつぶらな瞳は、彼方を見つめたままだった。
「大丈夫ですよ。僕、犬好きだし。
…ゴールデンレトリバーですか?」
「本当にごめんなさいね。
この子ゴールデンレトリバーのリッキーって言うの。
普段は大人しいんだけど、初めて見る海に興奮しちゃったのね。」
しゅんとしているリッキーの頭を撫でて、女性はしっかりとリードを握る。
こんなか細い女性一人で大型犬を制御できるのだろうか。
「初めてって…。遠くから来たんですか?」
「前は東京に住んでたんだけど、結婚して、旦那の実家に昨日から住んでるの。
今日は天気もいいし、たまには海でも行こうかなってリッキーを連れてきたのよ。」
「おっきくて、可愛いですね。」
「うん。この子…懐っこくて、
誰にでもすぐ、可愛がってくれると思って行っちゃうの。」
彼方がリッキーの目線の高さにしゃがみ込むと、
リッキーは嬉しそうに、ザラザラとした舌で、彼方の顔を舐めまわす。
「ふふっ。もう、可愛いなあ。」
彼方は優しくリッキーの顔を包み込み、撫でる。
リッキーはこれでもか、というくらい尻尾をブンブン振り回す。
「リッキーは大きいから、君と同じくらいの男の子でも怖がる子は多いんだけどね。
君は…高校生くらいなのかな?」
女性は指で口元を覆い、柔らかい声で上品に笑う。
「はい。今高校三年生です。」
「そうなんだ。…あれ?今日平日だよね?学校は?」
不思議そうな女性を気にも留めずに、リッキーは彼方に寄り添う。
頭を押し付けるように、彼方の頬にその滑らかな毛並みの頭を擦り付ける。
「今日は…ちょっと…サボり…ていうか…。」
言葉を濁す彼方に、女性は笑みを崩さずに言う。
「…まあ高校生って難しい時期だからね。サボりたくもなるよね。」
「なんか…もう、全部考えたくなくなっちゃって。」
苦笑いで答える彼方に、女性は少し、意地悪そうな笑みを浮かべる。
「なーに?失恋しちゃったとか?」
いくつになっても、女性は恋の話が好きなのだろうか。
女性の目は、爛々と輝いているようにも見えた。
「うーん…どうなんですかね。」
「あらあら。お姉さんでよかったら相談乗るわよ?」
曖昧な返事に、女性は興味深々だった。
―知らない人だし、もう会うこともないだろうし、言ってもいいかな。
そんなことを考えながら、彼方はゆっくりと口を開く。
「好きな人がいるんです。
…でもその人とはずっと一緒にはいれないって、言われちゃいました。」
「それは…進路のことで?
なら、君も頑張って勉強して、一緒の大学目指したらいいんじゃないの?」
「それはダメだって、言われちゃいました。ちゃんと自分の将来を考えろって。」
リッキーは空気を読めるのか、大人しく彼方の前で座り込む。
首を傾げて、まるで彼方の顔を覗き込んでいるようだ。
「真面目な子なのね。」
「はい…。」
「君は…進路は、もう決めたの?」
「…僕には、何もできないから。」
静かに首を左右に振りながら言う彼方。
「そんなことはないと思うけれど…。…その子に告白はしたの?」
「告白…。キスは、しました。」
キスという言葉に、少し照れながら、
彼方はリッキーを抱きしめるように、顔を隠す。
「え?付き合ってないの?」
女性は驚いたようにパチパチと大きな瞬きをする。
「付き合うっていうか…、ずっと一緒にいたんです。昔から。ずっと。」
「幼馴染なのね。」
「…そんな感じです。
ずっと一緒にいたから…、これからも一緒にいれると思ってたんですけど…。」
切なそうな表情をする彼方に、
女性は慈愛に満ちたような笑みで、語りかける。
「確かにね、好きな人とずっと一緒にいれたら幸せだよね。
今はその子のことが好きだから、その子のことしか考えられないかもしれないし、
別れたらすごく、すごく、辛いと思う。」
「離れたく…、ないです。」
自信のなさが、声に表れる。
堂々と胸を張っては、言えない恋だ。
どうしても、消え入りそうな声になってしまう。
「でも高校卒業したらね、環境は目まぐるしく変わるわよ。
しばらくは別れて辛いかもしれないけれど、いつか必ず他の子を好きになる。
その子もきっと君のことをすごく愛してくれる。…人間って案外強いものよ。」
強気で微笑むその人は、何故かとても力強く、大きく見えた。
しかし、自分は弱い。
「僕は…強くなれません。その人じゃなきゃ…ダメなんです。」
小さく零れた声。
そんな彼方を見て、女性は彼方の肩にポンと手を添えた。
「じゃあもう一度、ちゃんと告白してみたらいいじゃない。
天気がいい日なら、またこれくらいの時間にリッキーと散歩してるから。
…私でよければ、また相談のるわよ。」
良く笑う人だと思った。
上品に微笑む人かと思っていたら、強気に自信に満ち溢れた笑い方もする。
強い人だと思った。
自分の二倍近く生きてきて、辛いことや苦しいこともあったのだろう。
この人は全部乗り越えてここに立っている。
そんな気がした。
「…今更、また告白なんて、できないですよ…。」