男の名は、桔梗という。歳は二十を幾つか過ぎた頃に見える。黒い髪に柔和な顔つきをした、誠実そうな青年である。彼は人気のない山の麓、清流のすぐそばにぽつんとあるあばら家に一人で住んでいた。
 外は夜が訪れていて、昏く、霞がかってぼやけた月明かりが、薄く開いた障子から注いでいる。草木が凪ぐ微かな音が、木戸を隔てて聞こえた。静かで穏やかな夜だ。桔梗はそのあばら家の中で、粗末で薄っぺらな煎餅布団にくるまっていた。
 夜半、もう虫の音さえ聞こえない中、桔梗はその眼をこらして、部屋の隅にうずくまる闇をじっと見詰めていた。眠れないのだ。睡魔はたびたび桔梗の意識を誘うが、彼の体はそれに呑まれまいと、必死にそれを拒んでいる。二年前から、その習慣は桔梗の体に染み付いてしまっていた。眠りたいのに眠れない病気と、それから、自分を蝕む悪夢と闘いながら、彼は毎夜を過ごしていた。
 今夜も相変わらずで、静寂の中漂う意識を一向に手放そうとしないまま、桔梗は寝返りを打つ。しかしあまりにも寝付けないので、彼は仕方がない、散歩にでも行こうと呟いてやおら立ち上がり、引き戸を開けた。
 暗い空には、筆で引いたような薄く細長い雲が這うように流れていた。普段は青く美しく連なっている山々は、今は影に黒く染まり、いつもと変わらない威厳と品格を抱いて立ち尽くしている。その上では銀色の上弦の月が、雲に遮られながらもぼんやりと世界を照らしていた。その光は微かながらも、冷たく、それでいて優しく感じられる。家の裏にある清流は甘い秘密を囁くように、絶え間なく流れていた。
 ふと、どこからか篠笛の音が聞こえた。淡いせせらぎに紛れながら、笛の音は、柔らかく風に溶けるように、だが明らかに風とは違う音で、なめらかに空を滑る。ゆっくりと、寂しく、どこかもの悲しい旋律は、低く高くうねりをあげて桔梗のもとまで届いた。
 桔梗はその変化に、おや、と眉を上げる。こんな夜半に笛を吹くとは、酔狂な人がいたものだと、薄く微笑みながら、その足に草履をつっかけた。
 音のする方へと、川の流れに沿って歩いていくと、長い黒髪を後ろに垂らした、つぼ装束姿の女が、水音と共に河原に立っていた。足元に市女笠が置いてあるのを見ると、どうやら女は旅をしているらしい。
 桔梗は、その後ろ姿を見るなり立ち止まる。女はまだ、桔梗には気付いていない。彼はその音に聞き入りながら、足元の砂利を踏まぬよう、静かにその女が笛を吹き終わるのを見守っていた。
 ややあって、笛の音は長く細い余韻を残し、空へと消えた。目を閉じて笛の音に浸っていた桔梗は、ゆっくりとまぶたを開けると、女の元へと近付く。案の定、砂利を踏むざくざくという音に、女は驚いた様子ですぐに振り返った。

「ここで何をしておいでで?」

 桔梗は咄嗟にそう尋ねたが、笛を固く握り締め、怯えた様子であとずさる女に、つい戸惑った。あくまで優しく近寄ったつもりだが、怖がらせてしまったかと思い、慌てて言葉を紡ぐ。

「別段怪しい者ではない。私はこの近くに住んでいる、桔梗という者だ。眠れずにいたら、そなたの笛の音が聞こえて……」

 すると女は、まあ、という風に口を開けた。

「そなたの名は?」
「ヒマリ。緋鞠、と申します」

 甘くしっとりとした深い声でそう言って、緋鞠と名乗る女は被っていた袿を外した。途端に、美しい顔をした女が姿を見せる。白い柔肌を月光が青白く照らし、まるで病人のような血色のなさを映し出すが、その儚さの中に凜と宿る濡れた光に圧倒され、桔梗は思わず息を呑んだ。顔を逸らすと、緋鞠は小首を傾げ、どうされましたか? と、朱を引いた唇で桔梗に問いかける。桔梗は息を吐くと、緋鞠とは顔を合わせないままで、彼女に尋ねた。

「いや、なんでもない。ところで緋鞠殿。こんな辺鄙なところで笛なぞ吹いて、一体何をしておいでだったのですか?」

 緋鞠は俯き、目を伏せると、躊躇いがちに口を開く。

「死者を弔っていたのでございます」
「死者?」
「ええ」

 緋鞠は頷いた。確かによく見ると、彼女の後ろには、だいぶ時が経ったのか、灰色になった死体が五、六打ち上げられている。いずれも皆、その身には重々しい鎧を纏っていた。

「どうやらこの先の上流で、戦があったようなのです」

 はるか遠く、川上へと続く流れを見詰めながら、緋鞠は悲しそうに言う。水面に映る、いくつもの真珠のような光が、緋鞠の瞳に反射した。桔梗は黙って、彼女の話の続きを聞いた。

「私はさまざまな場所を転々とし、死に切れずにもがいている者、死してなお無念を抱いている者たちの魂を浄化し、天へと還しております。それが私に課せられた、使命にございます」

 どうか安らかに、と、緋鞠はその武者たちに手を合わせ、目を閉じる。桔梗もそれにならい、手を合わせ頭を垂れた。

「なるほど、大体の事情は分かった。ご苦労であったな。そなたの笛は見事だ。きっと、この者たちも幸せに浮かばれることだろう」

すると緋鞠は、純粋な眼差しで見詰める桔梗に、僅かに首を傾いだ。珍しく色目を使わない男に、年端もいかない乙女はほんのりと頬を紅に染める。長い睫毛がその柔肌に影を落とし、心許なく揺れる。桔梗はその微笑ましい恥じらいを見詰めながら、ふと思い出したように言葉を継いだ。

「──ところで緋鞠殿、寝床はいつもどうしているのだ?」

 そう問われ、緋鞠は曖昧な笑みを返したあと、小さく、

「野宿、がほとんどでございます。幸い、これまで一度も襲われたことはありませんので、心配には及びません」

 と呟いた。桔梗はそれを聞いて息を吐くと、心から心配しているように説教を垂れた。

「年端も行かぬ女子が野宿など、危険すぎやしないだろうか? この辺りを宿にするというのなら、いかがだろう。俺の家に来ないか」

 すると緋鞠は弾かれたように顔を上げた。その顔には微かに、喜びの笑みが浮かんでいる。

「桔梗様、よろしいのですか?」

 桔梗は微笑み、緋鞠に、付いて来いという風に歩き出した。

「俺には妻がいるからな」

大股で歩く桔梗の後ろをちまちまと追いかけようとしていた緋鞠は、すぐにその言葉に足を止める。

「まあ、そうだったのでございますか。でしたらなおさら、お邪魔するわけには……」

桔梗はそれを聞くと、振り向きながら、慌てて真意を告げた。

「あいや、どうせ今は独り身と大して変わらん。だが、そなたを取って食おうなどという魂胆もござらんよ。心配することはない。さあ、来なさい」
「ありがとうございます、桔梗様」

 それから二人で川に沿って歩くうちに、桔梗の住んでいる、放置されてからもう何年も経っているぼろぼろの家へとたどり着いた。格子窓から差していた光は少し傾き、先ほどまで出ていたはずの雲は風に流され、月を裸にしていた。
 桔梗は少し考えて、身分の高い緋鞠を家に招き入れることを戸惑ったが、緋鞠が外で野宿することへの危険がもう一度脳をよぎり、桔梗は息を吐くと戸を開けた。八畳ほどのがらんとした暗い部屋の奥に、主人の抜け出した形跡のある布団が、ちろちろと燃える囲炉裏の向こうに見えた。

「この通り、なんもないぼろい家だがな。夜露と風くらいは凌げるだろう。緋鞠殿、俺の布団を使うといい」
「桔梗様はいかがなさるのですか?」

 緋鞠は美しい顔で見上げ、桔梗は微笑みながら答えた。

「いや、俺は戸の近くで寝よう。これなら誰か来ても、そなたを守ることができよう。それに、このところ寝付けなくてな。着物も布団も、もはやなんの役にも立たぬのだ……」

 桔梗は疲れたようにそう吐き出すと、緋鞠に有無を言わせぬうちにせっせとむしろの上に寝転がり、その上から着物を被った。そして緋鞠に背を向けると、そのまま寝入ってしまった。
 緋鞠は立ち尽くし、何か言いたそうに唇を薄く開いていたが、やがて諦めたように肩を落とすと、しずしずと藍の布団へと入って行った。



 その日、桔梗は何故か、久しぶりに熟睡することができた。いつの間に意識が黒く溶け、悪夢にうなされることもなく朝を迎えることができたのだ。
 太陽の光に眠りから目を醒まし、その事実に驚きながらも体を起こした桔梗は、燃え尽きかけている囲炉裏のその向こうにある布団を見やる。

「緋ま、」

 しかし、その布団は綺麗に畳まれており、中にいたはずの人は露のように消え失せていた。桔梗はただ唖然と、その布団を見詰める。

「緋鞠殿?」

 もう旅立ってしまったのか、と溜め息を吐いて、桔梗は立ち上がり、朝食の準備を始めた。

「あの笛の音を、今一度聞きたかったものだなぁ」

 そして囲炉裏の火を起こし、鍋に入れる水を汲みに川へと向かった。

◇◆◇

 仕事先から戻り、夕食も済ませた桔梗は、川で体を清めた後、布団の中で横になっていた。昨日とは打って変わって、何故か寝付けない。桔梗は何度か寝返りを打ったが、状況は何も変わらなかった。緋鞠の笛が原因だったのだと、彼はうすうす思う。
 桔梗は布団の隙間から、また空を巡ってきた月を見詰めていた。青白い光にひっそりと、彼女の面影を重ねた。記憶にある姿を思い出すうちに、知らず知らずのうちに涙が零れる。いかんいかんと慌てて着物の袖で拭ったその時、桔梗に寄り添うように、篠笛の音が流れてきた。
 桔梗は反射的に体を起こし、耳を澄ませる。

「まさか、緋鞠殿か?」

 昨日とは違い、明るく、長い年月を積み重ねた民謡の響きにつられるように、彼はふらふらと外へ出る。すると家の前で、昨日と同じ姿をした美しい女が、月明かりの中で笛を奏でていた。桔梗は唇の端を微かに持ち上げ、その人物に近付いた。
 緋鞠殿、とその後姿に声を掛けると、笛の音はぴたりと止み、ゆったりとした仕草で女が振り返る。そして緋鞠はにこりと、彼岸の花が咲くような、艶やかな笑みを浮かべた。

「今までいずこへ?」
「南の町へ行き、笛を奏でてきましたの。流れの三味線法師もおりましたゆえに、皆満足して帰られましたわ」
「ほう。町人たちの前で?」
「はい、桔梗様。この音は、戦場だけではなく、飢えで亡くなった人の魂を救うことも、農作業に疲れた者たちを癒すこともできるのですよ。もちろん、娯楽に飢えている方々の心を満たすことも」

 緋鞠は細い指で握り締めた篠笛を見詰めながら、そう言った。六本調子の笛は、見た目は普通の笛となんも変わりはない。が、それには不思議な力でも宿っているのだろう。昨夜、桔梗が深い眠りに落ちることができたように。

「それは大層な笛だな、緋鞠殿。確かにその音はとても綺麗で、だから俺はその笛の音が好きだ。先ほどは邪魔してすまなかったが、よければもう一度、吹いてはくれまいか」

 緋鞠は照れたように俯き、桔梗の足元に咲いていた河原撫子に視線を落とすと、はい、と頷いた。
 そして横にした篠笛を紅い唇に当て、静かに息を吐き出す。先ほどと同じ調べは、ほのかな空の色と混じり合い、桔梗の心をくすぐるようにして天へと消えて行った。月の逆光で暗くなっている緋鞠の顔の、伏せ目がちな目元に浮かぶのは、笛を吹く者の喜びである。桔梗はそれに視線をやり、そして月の方へと目を向けながら、昨日の音の方がよかった、と思った。花のように美しい顔と、柳のようにしなやかな彼女の中に垣間見えた悲哀さ、切なさは、桔梗の興味をなかなかに惹いたのだ。桔梗はその姿をもう一度目にしたいと思ったが、彼はわがままを言うほどの図々しさを持ち合わせてはいなかった。
 吹き終わると、しばし、二人の間に沈黙が漂った。
 颯、と風が草木を撫ぜる音が、男と女の間を満たす。やがて、緋鞠はふと、「桔梗様」と口を開いた。

「なんだね?」

 桔梗は夜空に浮かぶ銀の月を眺めながら答える。そんな桔梗に、緋鞠は静かに、ある疑問を投げ掛けた。

「桔梗様の奥方様は、どちらへ?」

 彼は乾いた自分の唇を一舐めすると、おもむろに振り向いた。そして笑う。

「なるほど、やはりそなたも気になるか。なに、遠慮しなくともよい。とにかく、今は家へ入ろう。少し風が強くなった」

 な? と目でそう言って、桔梗は緋鞠の手を引き、あばら屋へと導いた。燃えるものがなくなりつつあった囲炉裏の中心に木の切れ端を乱暴に投げ込み、桔梗は緋鞠に座るよう指示する。

「今まで誰にも、そう、友人にさえ口にしたことのない話だ。そなたは旅芸人であるから、話してしまっても構わないだろう。しかしこの地にいる間は、他言無用だ。いいな?」

 緋鞠は市女笠を壁に立てかけながら、頷いた。囲炉裏の炎に揺れる桔梗の瞳は深刻そうで、どこか遠くを見ているようだった。

「妻はあやめと言って、気立てのよく美しい妻だった。俺には勿体無いくらい、綺麗な娘だったよ。幼い頃から同じ村で生まれ、長い間を共に過ごしてきた。だが、今別れて暮らしているのは、どちらかの情が変わったというわけではない。
 実は俺には、あやめと同じくらい長い付き合いをしていた友がいた。俺はそいつを信じていたし、そいつもたびたび俺を助けてくれた。だからよもや、俺が友に裏切られるとは思わなんだ」
「ご友人様に、裏切られたのですか?」
「ああ。二年前のことだ。俺は友に騙され裏切られ、殺人の罪を被ってしまった。俺は結ばれたばかりのあやめと一緒に、遠くへと逃げていた。捕まったら処罰されるのに、あやめは、俺と運命を共にしますといって聞かない。しかしとうとう、俺たちは追い詰められた。俺は心中するつもりだったが、その時俺たちを追っていた貫那という男は、俺を見逃す代わりに妻のあやめを差し出せ、というとんでもない条件を出した。あやめは、私が行きますから、どうかお逃げくださいと言い張った」

桔梗は、嘆くように、溜め息を吐いた。そして苦い過去を見詰めまいと、目を閉じる。

「俺はついに折れた。いつか身の潔白が証明され、また二人で共に暮らせる日が来ると信じていますから、と俺に言い聞かせ、あやめは貫那の元へ行ってしまったよ。だがそれ以来、あやめとは言葉を交わすことはおろか、文すら届くことはない。
 人を疑わずに誠実さを貫いたのと、我を通す強さを持ち合わせていなかったせいだ、俺が今こうなっているのは」

 桔梗は長い話を終え、緋鞠を見上げた。そして自嘲気味に笑う。

「それ以来、悪い夢をたびたび見るのだ。あやめが貫那と仲睦まじく、寄り添って歩いているのを。おかしな話だろう、他の男に嫉妬するなど。どうだい、笑ってくれ」
「笑えませんわ。桔梗様は悪くはありませぬ」

 緋鞠はぴしゃりと言った。その気迫に押され、桔梗はつい「すまぬ」と返す。

「あやめは今、幸せに暮らしているのだろうか」
「幸せですわ、きっと。桔梗様にこんなにも愛されておりますもの」
「嬉しいことを言ってくれるな」

 桔梗は照れるように微笑んだ。虫の音が、静かに外から聞こえてくる。

「あやめ様は今、どちらに?」
「南の町の、一番大きな屋敷が貫那の住処だ。そういえば、緋鞠殿は昼間そこへ行ったと言っていたな。あやめらしき人を見なかっただろうか?」

緋鞠は俯き、少しの間考える。

「いいえ」

 そして、そう静かに答えた。

「そうか」

 それから長い沈黙のあと、桔梗もまたその顔に影を落として、頷いた。
 

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