広大なもの


太陽が海の果ての地平線に沈んだ。
まだほのかに赤い空は数分も経つと青紫色に変わり、
辺りはたちまちのうちに暗くなった。
ここは周りには外灯はおろか、光を発する物は何もない。
人も1人としていない。
太陽の光で微かに輝いた星が、点々として少しづつ現れ始めているけれど、
光量としては人の影をも射影出来ない程度。
もう白い波しぶきだけが微かに見えるだけで
海の後ろは暗やみで何も見えない。
けれど轟々と鳴り響く波の音の強弱で
海の大きさは把握できる。

私はスニーカー靴とくつ下を脱いだ。
素足で感じる砂の感触が気持ちいい。
携帯電話を懐中電灯代わりにして海の音がする方へと歩く。
波が足のくるぶしにかかるところまで近づいて、その場で立ち止まった。
海からの風が気持ちいい。
波が引いていくときに足裏の周りの砂が攫われ、
指の付け根辺りがくすぐったい。
微かに見えるその光景に顔を近づけて覗いていると、
波しぶきが飛んできて口に入った。
やっぱりしょっぱい。

改めて目の前の海を見た。
近づいたせいか海に足を浸かっているせいなのか
さっきより大きく感じる。
なんて広大な海なのだろう。
左右の耳に入り込んでくる波の音が大きい。
白い波が目の前で飛びかっている。
今にも襲って来そうなほどに圧倒的な迫力を
瞬きをするのも忘れてただ見蕩れていた。
それは息をするのも忘れるぐらいに力強かった。
その有無を言わせない強さに、
体までもそのまま後ろへ押し倒されそうになった。

そもそも海を眺めにきたわけではなかった。
夕陽が地平線に沈むのを見ようとして海に来ただけだった。
初めは遠くから眺めているだけでも惹かれていた。
それがいつの間にかここまで連れてこられたのだった。
息をする度に香る潮の匂いにつれられて近づいた。
私は海に全身を包まれたような感覚を感じて、不思議と安心感を感じたのだった。

そのまま夜空を見上げた。
空には見たことのない量の星が一面にぎっしり敷き詰められている。
東京の200倍は見えているだろうか。
本当はこんなに星があったんだ、
と思う程に小さい輝きまで鮮明に見えている。
空の丸みが目で見えているかのように広角に広がった星空。
周りには誰もいない今、
この大きな光景を一人占めしてるみたいだ。
けれど実際は多くの人が様々なところから同じ空を見上げているのだろう。
それがただの宇宙の塵だとしても、
自分ではなくても誰かの願い事が叶ってしまうんじゃないかってぐらい、
そう思わせるほどに尊い光に成り得ている星空に、
完全に惹きつけられていた。


ーーもっと星が見えるかもしれない。

そう思って懐中電灯を切った。
一瞬にして視界は真っ暗になった。

――何も見えない。
――本当に何も見えない。

確かに星空は輝いて美しい。
しかしそれだけでは光量が全く足りていない。

――暗い。真っ暗だ。

月も新月で見られない。
潮の強烈な匂いが感じられる。
轟々と鳴り響く波しぶきの音だけが聴こえる。
音と同時に波が足にかかって、引き際に身体を砂ごと攫っていこうとする。
今にも大きな波が来て真っ暗な海に飲み込まれるのではないだろうか。
そう思うと恐ろしくて堪らない。
さっきまで心を満たしてくれていたモノに、今は完全に足を掬われそうになる。

ーー駄目だ、動かなきゃ。

けれど身体全体が硬直していて動かない。
恐怖のあまりに金縛りにあっているのかもしれない。
心が攫われて動けない。今すぐにでも逃げ出したい。
けれど身体は意思に反して身動き一つ出来なかった。

その時、微かに一瞬、目の前に光が走った。
その瞬間に解放されたかのように身体が軽くなった。
なるべく早くこの場から離れよう。
すぐに海に背を向け、水飛沫が服に飛ぶのも構わず走った。
砂が濡れた足に張り付いてもお構いなしに走った。
今ここで立ち止まって海の方へ振り向けば、二度と戻って来れなくなる気がした。
携帯電話で辺りを照らしながら、
脱いだ靴が置いてある場所までただただ一向に走った。

一体なんの光だったのかはわからない。
だってここは車も通らない。民家もない。
昼間は海水浴で観光客や地元の人がいるけれど、
今はもう誰もいない浜辺なはずだから。
けれど、確かに一瞬、光が見えた。
海に自分自身が奪われそうになっていたところを、
それに救われたのは間違いなかった。

ここに来てもう3時間が経過していた。
目の前にある広大なものは、
時間までも奪っていくようだ。

私は明日には此処を発ち、また普段の生活に戻るのだろう。
けれどまたもう一度此処に来たい。
今度はもっと堂々と立って、何もかも奪われるのではなく、
対等だと思えるようになりたい。
そう誓いを立てた。





[広大なもの 完]





~~~エピローグ~~~



あ、流れ星。
初めて流れ星を見た。
たった一瞬の光だったけれど、
それは本当に綺麗なものだった。

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