第十八話 飛び立つ鳥

 置き手紙を残し、俺達はローブの絵描きと会うために川辺へ出掛けた。

「いたぞ」

 鉄橋のふもと。そこが定位置だと言わんばかりに、イーゼルを立てて陣取っていた。
 ローブの絵描きだ。

「ここからだと、女か男かも判断できないな」
「たぶん、お姉ちゃんだと思う」
「目いいな」
「勘なんだけどね。行こ!」
「あ、オイ待てよ!」

 坂を下りていく美鳥を追って、鉄橋のふもとまで駆け足。
 二百メートル足らずを走ったが、美鳥にいきなりの運動は少々応えるらしい。少しだけ息が荒くなってきた。

「体力ないな」
「だっ、だってぇ」
「さ、それよりあのキャンパスだ」

 美鳥はローブの絵描きから少し離れた所にいた。
 なぜだろう、ローブの絵描きは手招きをしてこない。
 いや、もう来る事がわかったいたのか。

「美樹、頼む」
『…………』

 ローブの絵描き……美樹は頷いただけでキャンパスを美鳥の見やすいように傾けてくれた。

「ありがと。でも」
「やっぱり、見えないや」
「美鳥」
「描きたいって思うだけじゃ、ダメなのかな」
「そんな事ないって。お前なら描ける。な?」
「…………」
「ミドリおねーちゃーん!」
「明音ちゃんの声?」
「こっちこっちー」

 声のした坂の上を見上げると、智明先生と達也がこちらに手を振っていた。
 俺達が気付いたのを確認してか、三人が下りてくる。

「啓一、ちょっといい?」
「ああ」
「弁当の効果、あった? できるだけ美樹の味に似せてつもりだったんだけど」
「バッチリだ。美味かったよ」
「そっか。よかった」

 智明先生と明音、そして美鳥がキャンパスとローブの絵描きを囲んでいた。

「先生、今回も聞かないでくれてるのか」
「それで?」
「え」
「そこに、いるんだよね」
「あ、ああ」
「……やっぱり、僕にはもう見えないか」
「見えない? キャンパスが?」
「ううん。ローブの絵描き自体がだよ」
「…………」
「前を向いた僕にはもう不要なんだと思う」
「そんな、せっかく……」
「せっかく?」

 美樹と話せるかも知れないんだぞ?
 こんなチャンス、死ぬまで絶対にないぞ?

「いいよ、どうせ終わった初恋だって」
「いいのか?」
「うん。それじゃ、バイト行ってくるね」
「…………」
「啓一が悲しそうな顔してどうすんのさ」
「だってさ、もう」
「啓一は美樹の事、忘れてるんでしょ」
「えっ」
「ちょうどいいんだよ。会ってきなって」

 そんな事はないだろ。
 幼馴染みで、初恋の相手じゃないのか?

「じゃ、僕行かないと」
「あ」

 達也を引き留められず、反射的にローブの絵描きを振り返った。

『…………』

 ローブの絵描きは達也に向かって、親指を立てていた。ただそれだけなのに、俺は……。

『…………』
「た、達也!」
「えっ、何?」

 既に駆け出そうとしていた達也を引きとめ、もう一度ローブの絵描きを振り向く。

「美樹からの伝言だ」

 親指を立て、達也に向ける。達也には美樹が見えないんだから、こうして俺が伝えてやるしかない。

「…………」

 これがどういう意味なのか、正直俺にはわからなかった。
 それに対して、達也は一瞬だけ涙を見せ、拭った。そして大きく息を吸い――

「美樹! 僕、絶対メダル取ってくるからッ!」

 叫んだ。
 身を翻し、達也は駆け出していく。
 その様子を美樹はただ一瞥し、やがてキャンパスに視線を戻してしまう。

『ふふっ、足、早くなったじゃん。今一緒に走ったら、どっちが勝つかな?』
「あいつ、長距離の方が得意らしいぞ」
『そっか。私と逆だね。でも、相変わらず泣き虫なんだね、達也君ってば。さてと』

 美樹はこの前と同じように、立てかけていたキャンパスを外して、もう一方のキャンパスを取り付けた。

『これ、見えるかな?』

 美鳥のものではない鉛筆画だ。

「ママの絵ー」
「…………」

 智明先生は身を屈めて、キャンパスを凝視しだした。

「私の似顔絵、か」
「せ、先生?」
「夫の書き方によく似てる」
「そっか。こんな風に描いてくれるんだ」
「こんな風に、って?」
「照義さんはね、この町にいる画家の神様を信じていたのよ」
「可能性の移し身。それを否定する事は、その未来、可能性を白紙にする事と同じ」
「私は明音が画家になるのを反対しようと考えていた。明音が夫のように死ぬのを恐れてね」
「それで明音の、画家としての未来を白紙にしてしまう。このキャンパスにはそういう意味があるのよ。ねぇ、榎本君」
「あ、はい」
「啓示さんが書いた小説って、知ってる?」
「本にはなってないやつ、ですよね」
「そう。昔読ませてもらったんだ。それにこのローブの絵描きの伝説が載ってるわ」
「実際に体験したって記録も書かれている。それはここじゃなくて、外国でなんだけどね?」
『とても貧乏な一人のその画家は、日本にない風景を描きたいと外国に身を置いた』
「あの夢、か……?」
「照義さんが長期スランプになって、外国で活動を始めた」
「でも上手くいかなくて、外国で別の仕事を探していたらしいのよ」
「それであなたのお父さんの啓示さんが、ローブを着こんでローブの絵描き伝説を再現しようとしたの」
「照義さんの絵を買い占めてね。その絵を本人が来るのを……そう、ちょうどこんな川辺で待って、イーゼルに立てかけた」
「お前には前が見えているじゃないか。もう一度足掻いてみろよって……照義さんに言ったの」
「これは照義さんが教師を一旦離れてからの話。そして、展覧会の話が決まる二年前の話」
「展覧会……」
「そう。それで、あの人は少し頑張りすぎちゃったの」

 智明先生の震える声は、川の水音に掻き消されそうなほどに小さくなっていく。
 展覧会の直前で、照義さんが倒れた事。先生にとって、絶対に忘れられない出来事だろう。

「明音ー?」
「なに?」
「あなたのお父さん、どんな人だったか知りたい?」
「教えてくれるの?」
「うん。帰ったらお話しよ?」
「やったー!」

 無邪気に両手を上げて喜ぶ明音。

「この子には、夫の話をあまりしないの」
「そうなんですか」
「ええ。今日は、うんと話そうね?」
「わーい!」
『美鳥』
「……!」
『あなたの番よ』
「美鳥」
「啓一君」
「俺がついてるから」
「うん」

 美樹は先ほどのキャンパスを再び立てかけ、美鳥にその絵を見せた。

「…………」
「どうだ、美鳥」

 美鳥の体を支えるように、両肩を抑えて俺もキャンパスを凝視する。
 木の枝で羽根を休める小鳥の姿。

『美鳥』
「美樹、お姉ちゃ……」

 肩を震わせ、俯きだした。

『見えてるんでしょ?』
「……うん」
『もう描けるよね』
「うん……!」
『美鳥の絵、私は大好きだから』
「う、ん!」

 俺は、肩に置いていたそっと手を放した。

「ッ! うわあああぁッ!!!」
『っとと。ふふ、もう……』

 鳥は、放されるとすぐ近くの枝に止まってしまった。
 すがり泣きながら、美鳥は美樹のローブを濡らし続ける。
 美樹と美鳥。
 お互いに支え合うようにと意味を込めてつけられた二人の名前。一つの由来。

「この絵、名前の由来だっけ」
『そう。美鳥がコンクールに出そうとしていた絵よ』
『私が死んで、それどころじゃなくなっちゃったけどね』
「そうだったっけ」
『啓一君は、まだなんだね』
「ローブの絵描きか」
『そう。記憶も戻ってないみたいだし』
「ああ。あと」
『なに?』
「今日、美鳥に告白した」
『あれ、今日なの?』
「何だよその反応」
『いや、てっきりもっと前に済ませたのかなって』
「あのなぁ……」
『ま、いっか。智明先生でしたっけ』
「な、なにかしら」
『私はこの通り、見守る事しかできません。そういう存在です』
『でも親は違う。全力で支えてあげてください』
「ええ、そうします」
『美鳥』
「嫌っ!」
『まだ何も言ってないわよ』
「せっかく会えたのに……」
『これ以上はダメよ、役目はもう果たしちゃったし』
「お姉ちゃぁん……」
『泣いてもダメ。さ、啓一君』
「ん?」
『私の分も、この子の事……かわいがってあげてね』
「一生かけてな」
『じゃ、元気でね』
「嫌ぁ……!」
『もう。じゃあ最後に……』

 頭を撫でながら、美樹は美鳥を抱き寄せる。

『美鳥』
「ぐすっ」
『枝はいっぱいあるんだから。忘れろなんて言わないし、泣いたり思い出したりしてもいい。でもね?』

 体を放し、手を握ったまま強く、こう言った。

『あなたは、飛びなさい。みんなに元気をあげるの』

 ページの一枚めくったかのように、美樹は忽然と姿を消した。
キャンパスも、イーゼルも、影一つ残っていない。

「あれ?」

 智明先生は、不思議そうな顔をして呟いた。

「どうして、こんなことにいるのかしら?」
「覚えてないんですか?」
「え? ええ、なんか、この子がここに寄りたいって……」
「?」
「覚えてないみたいですよ」

 二人共、覚えてないのか。

『白紙の中にある未来。それを見据えた時、記憶が一部消されるの』
「ぅ……ぐすっ、おねぇちゃ……」

 美鳥は、止めることのできない涙に身を任せていた。
 膝を曲げ、崩れ落ちるように美鳥は泣きじゃくった。

「?」

 明音が美鳥に歩み寄っていく。

「美鳥ちゃん!? ど、どうしたの?」

 先生も心配そうに駆け寄るが、どうしていいのかわからないようだ。

「……泣いてるの?」

 明音はそう聞いたが、美鳥は答えない。
 答える事が出来なかった。
 涙を止めるのに精一杯だったんだろう。

「なきむしさんですねー。いい子、いい子」

 先生が仲介に入ろうとしたが、間髪入れず美鳥は明音に抱きついていた。

「うあああーーー!!! うあああああああああああ……っ!」
「美鳥……」
「お兄ちゃん」
「ん?」
「ミドリおねえちゃんはどうしたの?」
「さあ、な……泣き虫だから。撫で撫でしてやってくれ」
「うん」

 快く引き受けてくれた。

「なでなで」

 あれ?
 あー、馬鹿だな。こんな小さい子に美樹の姿重ねるなんて。

「お兄ちゃん」
「ん?」

 身を屈め、明音と同じ視線になるように頭を下げる。

「なでなで」
「あっ、明音ちゃん。何してんだ? 俺は撫でなくていいんだって」
「だって、お兄ちゃんも泣いてるよ?」

 え?
 言われて気づいた。頬を伝う涙に――。

「気、気のせいだ」

 そう、気のせいなんだ。
 俺がしっかりしないと。

「美鳥ちゃん」
「はい」
「これ、何かの間違いかしら?」

 差し出されたのは、俺が見せられたものと同じ退部届だった。

「あ……」

 美鳥が出したもの。
 一度、美鳥の意志が絵を拒絶した印だった。

「私……私、まだ絵を描きたいです」
「うん。じゃ、これは返すね?」

 智明先生は退部届を通さず、肌身離さず持っていてくれたのだろう。

「ん?」
「どうしたの?」

 視界の端で何かが動いた。

「ローブの絵描き……」

 坂の上で俺に手招きをしてくる、一つの影。

「え?」

 智明先生が振り返る。

「誰もいないわよ?」

 俺以外には、見えていないのか。
 美鳥は俯いて泣いている。

「美鳥」
「あ、啓一君……私、なんで泣いてっ」
「ちょっと、来てくれるか?」
「う、うん」
「それでは先生。僕達帰ります」
「え、ええ。あ、一応言っときます」
「はい?」
「仮病を使うのはいけません」
「す、すいません」
「ふふ……でも、何か理由があったのよね」
「覚えてるんですか?」
「何を?」
「い、いえ」

 やっぱり覚えていないのか?

「なんとなくね、そんな気がしたの」
「……それでは」

 会釈をして、美鳥の手を握る。

「行こう」
「どこに?」
「ついて来てくれるだけでいい」

 美鳥を連れて、ローブの絵描きがいた場所へ。

「どこに行った?」

 いない。
 公園の敷地内を覗き込んでみると、敷地の中心にイーゼルとキャンパスが置かれていた。
 ゆっくりと近づいて行く。

「どうしたの?」
「今度は俺の番って事だよ」
「えっ?」

 訳が分からないと言いたげな美鳥の手を引いて、イーゼルの前までやってきた。

「美鳥、ここに何かあるか?」
「並木がある、くらいだけど」
「並木か。確かにそうだけど」

 このイーゼルとキャンパスが美鳥には見えていないらしい。

『…………』

 並木の奥からローブの絵描きが現れた。

「相変わらず神出鬼没だな」
『…………』
「啓一君、誰と話しているの?」
「美鳥、言ったよな。傍にいてくれるって」
「ついさっきの事だし、覚えているよ」
「なら、そこで待っていてくれ」

 白紙のキャンパスと向き直ると、早鐘が胸を強く叩きだした。

「啓一君」
「うん?」
「約束、まだ思い出せないんだよね?」
「ああ、まだだ」
「本当はお姉ちゃんに言っちゃダメって言われているんだけど、言っていいかな」
「ヒントだけでいい」
「四人でしたよ、約束は」
「それは覚えている」
「ここで約束した」
「それは……覚えてない」
「啓示さんも一緒で、絵を教えてもらっている時だった」
「まだ思い出せない?」
「ああ」
「ふふ、お姉ちゃん怒るよ?」
「だろうな」
「もう言っちゃおうかな」
「できるだけ自分で思い出したいけど」
「思い出さないと、私が怒るもん」
「…………」
「じゃあ大ヒント」
「ん?」
「この並木ね、啓示さんが植えたんだって」
「そうなのか?」
「画家として初めて成功した時のお金を使ったみたい」
「この公園の並木が大きくなる頃には、君達も大きくなっている頃だろうな。って、啓示さんの台詞を抜粋してみる。あれ、まだダメかな」
「まだだけど……その並木、もうここまで育ったんだな」
「少し小さいかもね」
「でも、いい絵が描けそうだ」

 並木。約束……。

『お前らが大きくなったら、この並木を描いてみろ。成長したんだなって実感が湧くから』
「あ……」
「思い出した?」
「大きくなったらこの並木を描いてみろ的な事を言われた気がする」
「近い。近いところまで来てるよ?」
『…………』

 ローブの絵描きをちらっと目を向ける。小さく頷いてきた。

「大きくなったら」
「大きくなったら?」

 四人で一緒に。

「四人で、一緒に……」
「四人で一緒に?」

 絵を描こう。

「並木の風景画を描こう、って約束ッ」
「よくできました」

 霞んでいく視界の中、キャンパスに向き直る。
 記憶が巡る。美樹と出会って、美樹だと思ったらそれは妹の美鳥で混乱した出会いの思い出。泣き虫だった達也と仲良くなって、小学校で美樹だけ違うクラスになって、卒業して……。
 そんな思い出が頭の中を巡りだした。
 それに呼応するかのように、少しずつ絵が浮かび上がってくる。
 キャンパスの内から外へ目を向けた。
 見比べてみると、本当にそっくりそのまま描かれていた。
 今の公園は緑で生い茂っているのに、キャンパスの中は桜の花で彩られいた。

『…………』

 ローブの絵描きがキャンパスに手をかけた。

「あっ、待ってくれ!」
「そのキャンパスとお前は、確かに可能性の移し身かも知れないけど」
「俺の記憶でもあったんだよな?」
小さく頷くローブの絵描き。
「美鳥、思い出した」
「本当?」
「ああ」
「…………」
「美鳥?」
「おかえり、啓一君」
「はは、ただいま」
「私、お姉ちゃんの事を忘れて生きていた。ううん、忘れようとしながら生きていた。でも」
「でも?」
「最初に気付くべきだったんだね。忘れられるなんて悲しいだけだって」
「それは俺に対する、あてつけか?」
「啓一君が悪いんだもん」
「すまん」
「いいよ。これから取り返してくれれば」
「努力する」
「絵もいっぱい描こう?」
「ああ」

 振り返る。
 そこにはもう誰もいなかった。

「啓一君? やっぱり、そこに誰かいるの?」
「……いや、誰もいないみたいだ」
「そっか」

太刀河ユイ
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太刀河ユイ

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