第四話 日常と不安は表裏一体

「――ッ!」

 ガバッと上半身を跳ね起こして、布団を蹴り上げた。

「………………」

 あの白い景色は、見慣れた部屋に変わっていた。
 しばらく呆然として、床にずれ落ちていく布団を一瞥してからようやく気付いた。

「いつもの夢、か」

 俺はこれとまったく同じ夢を幾度となく見ている。
 夏が近づくと、毎年頻繁に見るようになる。
 今年もその季節がやってきただけの事だ。
 そして、この夢で目覚めた日の朝はどうしてか不安になってくる。
 執拗に見る所為なのか、これは俺の失った記憶そのものなんじゃないかと考えるようになった。

「……でも、なんだってんだよ……」

 自分の記憶だとしたら、なんでこんな夢を見せるんだ。教えてほしい、すべてを……。
 布団にくるまり、俺は顔を埋めた。何か思い出せそうな気がしてくる。

「思い出せ!」

 この夢にすがりたい。
 俺はいつまで、記憶の迷路に捕らわれているんだ?
 不安で怖くて、苦しくて切なくて。
 どうにかなってしまいそうだった。
 なんで、記憶だけがなくなったんだ……。
 こんな事ならいっそ――。

『啓一くん?』

 ノックの音。共に美鳥の声で思考が中断される。返事をする気力はなかった。

『やっぱり寝てるのかな。開けるよ?』
「なんだ起きて――け、啓一君!?」

 声色を変え、バタバタと駆け寄ってくる美鳥。

「ど、どうしたの? 具合でも悪いの?」
「なんでもない……」
「なんでもないようには見えないよ?」

 今顔を見られたらダメだ。
 今美鳥の目を見ちゃダメだ。
 泣いているのが恥ずかしいんしゃない。

「美鳥」

 顔を埋めたまま、小さな声で彼女の名前を呼んだ。

「な、何?」
「俺、啓一だよな……?」

 震える声で言い放つ、突拍子もない質問。
 自分でも、何を言っているのかわからなかった。

「え?」

 それでも答えてほしかった。

「不安なんだ。また忘れそうで、怖くて堪らないんだ」
「……あの夢を見たんだね」

 美鳥はそれを聞くと、戸惑う事もなく優しく頬んでくれた。

「大丈夫だよ」
「あなたは榎本啓一君」
「怖くない、大丈夫」
「その夢は、記憶を失ったあなたの不安からできたもの」
「大丈夫。大丈夫……」

 美鳥の声が聴こえてくる。
 俺の気持ちが落ち着くまで、そうやって肩に手を添えて、語り続けてくれた。
 布団から抜け出て、深呼吸。落ち着いて来たが、どうも汗が引かなかった。

「ごめんね」
「謝るのは俺の方だって」
「違うよ。私が昨日あんな話をしたから悪いの」
「でも」
「啓一君が言うのは、ありがとうだよ。私が来なきゃ、不安で押し潰されてたかもよ?」
「それは少し言いすぎような……でも、ありがと」
「うん」
「初めてこの夢を見て不安になった時も、大丈夫って慰めてくれたっけ」
「それはちゃんと覚えてるんだ?」
「記憶喪失になった後だぞ? そりゃ覚えてるよ」
「ふふ、そっか。でも、最初は落ち着かせるのに苦労したんだよ?」
「す、すいません……」
「こうだっけ」

 ベッドを背もたれにして、こちらを上目遣いで見据えてきた。

「え」
「最初に私が、啓一君を落ち着かせた日」

 その日も美鳥はそこにいて。今も美鳥と同じようにベッドにもたれて肩を並べた。

「こうやって、落ち着くまで隣にいたよね……」
「そうだったな。このまま俺、寝ちまったんだっけ」
「そうそう! それで私が遅刻しちゃってさ!」
「俺は遅刻しなかったぞ」
「自宅療養って言われていたからだよ」
「その日、達也君から美鳥には任せられないって言ってた」
「ははは……それでいつも達也が起こしに来ることになったんだよな」
「そうそう」
「ありがと、な」
「うん。ほら、気持ち切り替えていこうよ」

 立ち上がると、満面の笑みでこちらを振り返ってくる。

「ああ。そういや、なんで俺の部屋にいるの?」
「聞いてないの? 達也君は今日から新聞配達だよ」
「あ」

 そうか。忘れていた。

「それで、お前が起こしに来てくれたのか」
「うん。達也君に頼まれたんだ」
「なるほどね。でも、よく入れたな。鍵は買い物から帰った後に閉めたはずだぞ」

 俺と母さんと、起こしてくれる達也に合鍵渡してあるだけだ。
 美鳥が来ると言う日はあらかじめ鍵を開けておくから鍵を渡す必要はなかったんだが……。

「その達也君から、合鍵を預かりました」
「いつの間に。行動が早いな」
「今朝、バイト中の達也君に会っただけなんだけどね」
「バイト中のって……五時前だろ? そんな時間に何してたんだ」
「何って、公園で絵を描いてたよ?」
「新聞配達が走っている早朝に……?」
「空気が新鮮で気持ちいいよ?」

 変な事案に巻き込まれないならいいけど、そんなことはないなんて言いきれないからな。

「早起きと言っても限度があるだろ。いつも何時に寝ているんだお前」
「もう慣れちゃったよ? 習慣になってるし」
「無理するなよ」
「えへへ、大丈夫大丈夫」
「でも、イーゼルはガタついてたんじゃないのか? よく公園で描けたな」
「なしでも一応描けるよ。盛夏祭とか、作品はイーゼル使ってやりたいってだけ」
「って事は、公園で描いてたのは……」
「ただの気分転換だよ?」

 驚きを通り越して、そろそろ呆れそうだ。

「たまには本当の意味で肩の力抜けよ?」
「が、がんばってみる……」

 でも、よっぽど絵が好きなんだな。

「そういえば、美鳥に起こしてもらうのは久しぶりだな」
「うん。そういえば、ずっと達也君に任せてたからね」
「こういう事あっても不思議じゃなかったんだけどな」
「家も隣同士だからね」
「……しかし、なんでだろうな。新鮮だったけど、目覚めが悪すぎた」
「本当に大丈夫?」
「この事は、できるだけ内密に頼む……」
「うん。わかってるって」
「口の堅い美鳥が幼馴染みでよかったよ」
「えへへへ」
「とりあえず美鳥」
「ん?」
「俺は目覚まし時計の騒音程度では起きないから」
「うん。それは達也君から訊いた」
「けど、人の気配と声で起きる」
「あれ、そうなの? 達也君からは揺すって起きなかったら水ぶっかけてって言われたんだけど」

 あの野郎……。

「ま、まあ今日はあの夢で起きちゃったけど、いつもなら二声くらいで起きるから」
「うん。わかった」

 あの夢を見る以外に、自力で起きられる術があるといいんだけどな。

「行くか」
「そうだね」
「下に行っててくれ。着替えるから」
「うん」

 美鳥が出て行ったのを確認して立ち上がる。
 いざ着替えようと寝巻きのボタンに手を伸ばそうとした時、携帯からメロディが鳴り出す。
 携帯の目覚ましは無駄だと知っているからかけていない。
 目覚ましではなく、とある人からの着信音だ。理由があって、滅多にかかって来ないんだが。

「もしもし」
『あ、啓一。私よ』

 案の定。海外にいる母さんからだった。
 理由ってのは、母さんの仕事が忙しいせい。たまにこうして電話をかけてくるだけで、顔はほとんど見ない。

「ん。えと……」
『久しぶりね』
「うん……。久しぶり。どうしたんだ? こんな朝早く」
『あら。もしかして起きたばっかり?』
「うん」
『ごめんねぇ、でも仕事が一区切りしたから。忙しくなる前にと思って』
「大丈夫だよ」
『そう。どう? うまくやってる?』
「うん。問題ない」
『美鳥ちゃんと達也くんに迷惑かけてないかしら』
「あー……」

 達也に弁当作ってもらっているなんて言ったら、誤解されそうだな。

「うん。大丈夫」
『本当かしら。ふふ』
「で、母さん。何か用があったんじゃないの?」
『あ、そうだった。えっとね、まだ帰れそうにないの』
「あらら」
『ごめんね。仕送りはちゃんとするから』
「ん。それなら生きていけそう」
「無駄遣いしちゃダメよ」
「了解」
『お盆には帰るようにするから』
「わかった」
『あ、父さんのお墓参りなんだけど、行く?』
「そりゃ、行かないとダメでしょ」
『私が帰らなくても、お花は供えておいてね?』
「わかった」
『父さんに絵の一枚でも描いてあげたら?』
「今更だよ。今までだって描かなかったんだから」
『あんたがそれでいいなら、いいけど……』
「母さん」
『ん?』
「美鳥待たせてるから、そろそろ切らないと」
『あらあら』
「……何、その意味深な返事」
『なにも~。ふふ、そっかあ』
「言っとくが、母さんの考えているような事には発展してないぞ」
『そうなの? いつも達也君が起こしてくれていたのに……』
「あいつはバイトが入ってるから、しばらく来られない」
『あらそうなの。てっきり乗り換えたのかと』

 これはどういう意味でしょうね。

『じゃ、体に気をつけてね』
「うん」
『はい。じゃあね』

 母さんは自分のタイミング電話を切っていった。
 と、ここで丁度思い出した事がある。
 父さんの事だ。有名な画家だったらしい。
 だが、俺が小学生の時に死んでしまった。
 つまり、記憶を失う前だな。顔は古い写真でしか見た事がない。
 記憶の中にいる父さんの顔は、モヤがかかっているように隠れている。
 思い出せずに申し訳ない気持ちにもなるが、こればかりは許してもらうしかない。
 父さんの部屋は、一階のリビングを出てすぐの扉。だけど、鍵が閉まっていて記憶を失ってからは入った事がない。
 鍵は俺の部屋、机の引き出しに入っている。これは母さんから聞いた話だ。

「あ……」

 そうだ、この手があったな。

太刀河ユイ
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太刀河ユイ

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