1 彼の住む町

「今夜は雪だね」
 二人並んで新居に向かう途中、彼は白い空を見上げて呟いた。あと数ヶ月で高校を卒業する、という頃だった。彼の住む地域に展開する専門学校の事務職に就職が決まっていて、卒業式を終えたら彼と同棲することになっていた。
「天気予報見たの?」
「違うよ。雪の匂いがするというか、気配が違うんだよ」
「匂いなんてあるの?」
「夜になったら、わかるよ」
 雪国育ちの彼は、予知能力者だった。
「ほら、降ってきた。周りの音がなくなったでしょ」
 夕食の後、カーテンの端から外を覗き込むと、街灯にちらちらと降り出した雪が見えていた。ベランダの隅に置いた空のプランターの縁に、雪の粒がうっすらとついている気がした。
「本当だ……」
「この雪は積もりそうだね。しばらく降り続くかもしれないな」
 後ろから外を覗き込む彼の予言を、何も疑わずに受け入れた。

 翌朝、彼はいなくなった。降り積もった雪が翌朝には溶けているように、一夜にして消えてしまった。
 彼を探した。警察に届けを出した。両親にも、彼の両親にも連絡を入れた。必死になって探したものの、彼の足取りは掴めなかった。いても立ってもいられずに街中を歩いて彼を探した。けれど、彼はどこにもいなかった。
 彼が予言した通り、その日から降り出した雪だけは何日経っても降り止まなかった。



「黄色い薔薇を一本、もらおうか」
 日曜日の昼過ぎ、近所の花屋で彼が好きだった花を数本包んでもらっていると、勿体を付けた低い声が聞こえた。聞き覚えのある、というよりも耳につく、芝居がかった男の声だった。
「いらっしゃいませ」
 いつ見ても上品な女性の店員さんが穏やかに応対する様を見ながら、ちらりと背後を盗み見た。予想に違わず、皺のなさそうなグレーのスーツをぴっちりと着た中年太りの男、近藤さんだ。卒業シーズンで普段よりも人の訪れの多い花屋の入り口で、雪のこびりつく黒い傘を閉じるところだった。
「ゆりちゃん。今日も花を買いに来てるのかい?」
「はあ、そうです」
「彼は幸せものだね。家賃や食費なんかを稼ぐだけでも大変だろうに、仕事も頑張って、遊びもしないで、こうして一途に想ってもらえて、ねえ」
 猫撫で声で話す近藤さんに愛想笑いを返しながら、店員が差し出す青い花束を受け取った。束と呼べるほどの量もない、数輪の花だ。
「ゆりちゃんがいつも買ってるその花、ヒヤシンスかな?」
 すかさず、近藤さんが目に止めて声をかけてきた。
「そう、ですね」
 ヒヤシンス、青いアナスタシア。彼はこの花が好きだった。この花屋の前を通る度に『ゆりと一緒に暮らすようになったら、あの花を育ててみたいんだ』と言っていた。
「へえ」
 近藤さんは目を逸らすと、一輪のバラを包装する店員に微笑みかけながら紙幣をレジに置いた。そのたるんだ横顔から、手元にある青い花へと視線を落とす。紫でも白でもなく、彼は青いこの花が好きだった。
「もう二年だろう? なかなか僕もゆりちゃんの力になってあげられなくて、本当に心苦しくってね……」
 お釣りとレシートを無造作にスーツのポケットに流し込みながら、近藤さんは私に一歩近付いた。
「何かあったら、どんなことでも連絡してちょうだいね」
 低い声で耳打ちをすると、近藤さんは買ったばかりの黄色のバラを包み紙から抜き取り、私の持つ花束の中央に差し込んだ。本人は洒落たことをしたつもりなのだろう。けれど、青の中に映える黄は、ひどく歪に感じられた。
「ありがとうございました」
 店員の声がぶつ切りに霞んで聞こえた。頭が痛い。揺らぐ視界の先にあるのは壁のように積もった雪と、近藤さんが開いた黒の傘。
 グレーのスーツが見えなくなったことを確かめてから、店先に出た。どんよりと白い雪空が見下ろしていた。冬の間、この街ではほとんど晴れ間は見られない。そうでなくとも、誰も知らないこの街で迎える一人の冬は、寂しい。
 片手でビニール傘を広げ、反対の手に握る花束に視線を落とした。曇りがちな空の下でも、花々は太陽光を求めるように花開いている。左の頬と肩で傘の柄を挟んだ。花束を握る左手に、少し力を込めると、無理矢理にバラの茎を摘まんで引き抜いた。右の親指がちくと痛んだ。花束を見れば、アナスタシアの花びらが無理矢理押しこまれた形にひしゃげている。右手に視線を落とせば、棘に血を微かに付けた黄色いバラは、何故だか妙に生き生きとして見えた。



 近藤さんは、彼のお母さんが行方探しを依頼した探偵だった。貰った名刺はもうなくしてしまった。彼がいなくなって一月ほど経った頃「探偵を雇った」と連絡を貰ったきり、彼のお母さんから何の連絡もない。
「彼はどんな人だったのかな」
 近藤さんと初めて会ったのは、卒業式の直後だった。駅前のファミレスで近藤さんと待ち合わせをして、彼についての話をした。
「高校の先輩です。実家のあるこの県に就職して遠距離になってからも、毎日こまめに連絡をくれるまめな人でした。真面目で、誠実な人で……」
 思い出すのは、ある夜のこと。就職できるのか、不安でいてもたってもいられず、その苦しさを深夜二時、三時まで電話で彼にぶつけてしまった夜があった。
『本当に就職できるかも分からないし……いつでも別れて良いんだよ』
 別れてもいい。それは、私の本心であり、常々思っていたことだった。私なんかと付き合っていてもいいとは思えない。彼の選択肢を狭めてしまうような気がしていた。
『ゆり、大丈夫だよ』
 なのに、彼は即答した。
『別れる時は、俺から別れたいって言うから。そう言うことは、絶対にないと思うけど。だから『別れて良いんだよ』とか言わないで、俺を信じていてほしい』
 電話越しだったから、その時彼がどんな顔をしていたのか、私には分からない。それでも、声だけでもどれほど真剣に彼が応えてくれたのか、分かるほどだった。絶対に嘘はついていない。そう、信じられるような声だった。
 だから、私は今も彼を信じている。この二年間は何かの間違いだったのだと。彼は、いつか帰ってきてくれると。
「そっか……浮気の線はなさそうだね」
 近藤さんは一頻り私の話を聞いた後、そう呟くながら手帳に何かを書き込んだ。随分と不躾な言葉をぶつけてくる人だと思った。私と二周り以上年が離れているからか、元が鈍いのか。相槌の一言、水を啜って飲む仕草、一挙一動何から何まで、苛立ちばかりがつのった。
「ゆりちゃんは良いお嫁さんになれそうだったのにね。こんなことになってさぞ辛いだろう」
 人の心を知っているのなら、この人は何故そんな言葉を私に向けることができるのだろう。そう思うほどに、近藤さんの言葉は冷たく感じられた。馴れ馴れしく『ゆりちゃん』と呼び始めたことも、気に食わなかった。けれど、顔を上げて正面から睨め付ける気にもなれずに、代わりに目の前で手帳を持つ左手を睨みつけた。その薬指に、指輪はつけられていなかった。
「大丈夫。僕がきっと、ゆりちゃんの恋人を探し出してみせるよ」
 それから二年、何の足取りも掴めないまま、今も近藤さんは私の前にふらっと現れる。にやつきを隠そうともせず、私の行く先にやってくる。探偵ということは、私の普段の行動パターンも読めているのだろう、と思うと、気味が悪かった。

 支払いは僕がしておくから、という近藤さんの言葉を聞くか聞かないかのうちに、駆け出すようにファミレスのドアに向かった。もつれる足で、三角コーンが並び歪に誘導される駅前を駆け抜けて、三番線ホームの発車寸前だった電車に滑り込んだ。
『帰りたい』
 母に送ったメールは、ただそれだけだった。五分後に返信があった。
『帰ってきてもいいのよ』
 私の返信を待たず、二分後に次のメールが届いた。
『仕事だって、またこっちで探しなさい。いつでも帰って来られるようにしてあるから』
 いつでも帰って来られるようにしてある。その一言を見た瞬間に、私の中で迷いは吹き飛んだ。私は、彼をこの街で待とうと決めた。彼がいつでも帰って来られる場所になろうと、決めたのだ。
『せっかく仕事に就けたんだから、少しだけ頑張ってみる』
 少しだけ頑張ってみたい。いざとなったら、母の元に帰っても良いのだから。そう思いながら、私は二年間この街で暮らしてきた。テレビをつければ見たことのないローカルな番組やCMが新鮮で、近くのスーパーには見たことのない山菜が売っていたり夕方半値になったお寿司が驚くほど美味しかったり……驚きに触れながらの二年間は、思っていたよりもあっという間だった。
 それと同時に、私自身も少しずつ変わっていった気がしている。社会人一年目には受付応対もままならず、どこに何の書類があるかも分からず、毎日あたふたとしながら仕事を覚えていた。それがもう、この春には社会人三年目を迎えようとしている。
 職場の上司は次々と入れ替わり、この春に異動になる上司が抜ければ、もう私が配属になる前から学校にいた上司は事務局長だけになる。それどころか、後輩も入ってくるらしい。
 仕事は楽ではなかった。残業をして、仕事を持ち帰って、少し早めに出社して。週休一日でも、日曜日にできなかった家事をまとめてするような生活になっても。それでも、いつか彼が帰ってきてくれれば、その時までに私自身が成長できていれば、それでいいと思えた。
 あの日駆け抜けた駅前広場は、二年が経ち綺麗に整備された駅前広場になっている。彼との思い出は綺麗なままなのに、彼の面影の残るこの街も、私の周りの環境も、知らぬ間に変わって行ってしまった。
 この二年間。巡ってくる長い冬の中、時折ふと我に返る瞬間があった。こんなに頑張って、何になるんだろう。小学生の頃から努力に努力を重ねてきた、その結果にある今。本来であれば、彼と過ごす二年目の冬を過ごしていたはずの私は、一人きりのこの街で、何を頑張っているのだろう。今私が生きていることは、何の意味を持っているのだろう。
 そんな、ぶつけようのないやるせなさに苛まれるたび、私は路上に積もった雪を踏みにじった。雪はいつでも柔らかく、硬く、私の靴先を拒んだ。あとに残るのは、いつも虚しさだけだった。



 三月頃になってこの花屋にアナスタシアが入荷すると、私は毎週日曜日の昼過ぎに花を買いに行く。そして、花が入れ替わってなくなるまでの二月ほど、買った花を彼が最後に目撃された駅前の交差点の片隅に捧げている。手向けの花ではない。これは目印だ。彼がこの街に帰ってきた時、私がまだこの街で待っていることに気付いてくれればいい。そんな、縋るような想いで始めた習慣が、二年近く経った今も続いている。
 今日もガードレールの高さに積み上がった雪の上に花を添える。花を添えてから、買い物に出るのだ。そうしていれば、きっといつか雪が降るように帰ってきてくれる。そう、信じていたかった。
「ゆりちゃん」
 急な声に、背筋が凍る。振り返るまでもなく、近藤さんの声だった。
「あの……」
「僕にも、置かせてくれないかな?」
 近藤さんは、私の置いたアナスタシアの前にしゃがみ込むと、私の花の隣に赤いバラを置いた。頭の奥を、熱と痛みが同時に駆け抜けた。
「やめてください!!」
 つい、荒げてしまった自分の声に、自分で驚いた。近藤さんも、目を丸くしている。横断歩道を歩く数人がこちらを振り返った気がした。普段、ほとんど近藤さんの言葉を無視するように接してきた私が突然怒ったのだから、当然だろう。
 眩暈がして、一歩後ずさった。
「あ……」
 すみませんでした、と、声に出して言えたのか、分からなかった。ただ、雪の上についた泥の足跡のように、何か綺麗なものを汚されたような気がしたのだ。声を荒げる気はなかった。この人が配慮のない人なことくらい、二年前にもう、分かっていたのに。
「……ごめんね」
 少しの間があって、近藤さんは赤いバラを再び手に取った。その謝罪の声は、どこか遠くから耳鳴りのように響いてくるようだった。
 突如、頭の奥を針で刺されたような痛みに襲われた。先ほどの怒りとは、全く違う痛みだ。気分が悪い。胃の中を掻き回されるように、胃液が喉をせり上がる。視界がぐらりと揺れる。
「ゆりちゃん……?」
 近藤さんの声が遠く聞こえるまま、目蓋を閉じた。


 彼の声がする。あれは、いつのことだっただろうか。恐らくは、いつかの年の十二月。……違う。彼と付き合って一年目の、クリスマス前。町中がイルミネーションに飾られていた頃の話だ。
「積もってる! 凄い、本当にホワイトクリスマスになるかもしれないね!!」
「こっちでは、ホワイトクリスマスって珍しいことじゃないんだよ」
 はしゃぐ私に、彼はいつだってほんの少し笑って、静かに言葉を返してくれた。
 雪国生まれでない私は、誰にも踏まれていない雪を見つけると、ついつい踏みたくなって寄り道した。その度に、彼は小さく微笑んでくれた。
 そういえば、小さい頃から私は、雪が降ると踏むために寄り道をしていた。私が育った街はほとんど雪が積もらず、一、二センチ積もったとしても、すぐに泥だらけの雪になってしまっていた。車のタイヤ、無数の靴底の形を仄かに残しながら、雪ではなく水っぽい泥と化した通学路の地面。学校から家まで伸びている汚い地面は、幼い私を落胆させるのに充分過ぎた。
 また雪が降ればいいのに。この汚い地面を覆い隠して、真っ新な白で迎えてくれればいいのに。幼い私は、幾度そう願っただろうか。
「雪がこんなに振るなんて、凄いね」
「ゆりが嬉しそうで、俺も嬉しいよ」
 いつも彼はそう言ってくれるから、その日はもう少しだけ私の感じている想いを伝えたくなった。
「確かに冬は寒いけど、イルミネーションに飾り付けられた町中とか、恋人同士での時間が切り取られたような雰囲気とか、そういうところが好きなんだ!」
 彼は、何も言わなかった。そして、彼に背を向けて雪を見上げた私には聞こえないくらい微かな声で、呟いた。
「もう、冬は嫌だよ……」
 切実な声に、はっとした。振り返った私の目に映ったのは、同じく少し目を見開いた彼だった。
「ごめんね」
「ううん、俺こそ変なこと言ってごめん」
 彼は、雪のような人だった。雪について、感覚で分かるほど良く知っていた。けれど、彼は雪が嫌いでもあった。
 今なら、少しだけ分かる。雪国に住む人ならば、誰もが抱く感情だったのだろう、ということが。日の光を遮り、陰鬱な空を生み出す雪。いくら掻いても積もる雪。雪国育ちでない私には、その辛さを想像することしかできなかった。
 彼が雪に対する苦しさを零したのは、その時たった一度だけだった。


 懐かしい夢を見て目を覚ました時、まず目に入ったのは病室特有のレールカーテンだった。少し視線を落とすと、眩しい光の射す窓際の椅子に座って俯く、近藤さんの横顔が目に映った。急速に夢が冷えて壊れていくように、私の意識は酷く醒めていく。
 目覚めて身じろぎをした私に気付いたのか、近藤さんがこちらを見た。
「……近藤さん」
「無理はしなくていいよ。むしろ、僕の方こそ、ゆりちゃんの変化に気付いてあげられなくて、本当に申し訳なかった」
 近藤さんは口を横にくっと結んで、首を垂れた。その表情を見たくなくて、病室の扉の方を向いた。
 狭い、一人用の病室だ。ベッドの横に立てられている点滴。棚には私の持っていた鞄がぽつりと置かれているだけで、余所者が一時的に押し込められたのだという雰囲気を、殊更に感じさせた。
「ナースコールを借りるよ」
「今、何時ですか」
 私の枕元に手を伸ばし、ナースコールを押す近藤さんに問いかけた。部屋に差し込む光は、どうも夕日には思えない。
「三月十二日、午前十一時四十三分。ゆりちゃんが倒れてしまった時からは、だいたい一日くらい経っているかな」
 はっ、と息を飲む。花はどうなっているだろうか。それよりもまず、学校に連絡をしなければ……。
「私、学校に行かなくちゃいけないです」
「ゆりちゃん、君は意識を失っていて、今目覚めたばっかりなんだよ。安静にして診察を受けて、回復に努めなくちゃならない。君の勤め先には、既に連絡を入れてあるよ」
「でも、花は!」
 アナスタシアを、交差点に置きにいかなければ。そう思った瞬間、
(そこまでする必要があるの?)
 抱いてはいけない、自分の中で禁忌としていた言葉が、聞こえてしまった。
『帰ってきても良いのよ』
 母のメールの文面が、脳裏に浮かぶ。あの時、私はなぜ、母の差し伸べた手に素直に甘えなかったんだろう。どうして、私が彼を待たなければならないという義務感に急かされて、この二年間働き続けたんだろう。
「僕が代わりに置いてきたよ。大丈夫」
 涙が知らないうちに目頭に溜まる。近藤さんの顔が、ぼやけていく。なぜ、ここまで、近藤さんは私のすることを先回りしてしまっているのだろう。
「そんなこと、してほしかったんじゃ」
「僕は、不器用な人間だ。ゆりちゃんのしてほしいことも、望む言葉も、きっとかけてあげられない」
 近藤さんの声は、表情は、いつもの芝居がかったそれではなかった。
「ゆりちゃんは少し休むべきだよ。毎日頑張って働いて、彼に花を捧げて、君は疲れきってしまっているんだ」
「私は大丈夫です」
「でも」
「どうしてこんなに私につきまとうんですか」
「依頼だから……という以上に、やはり君のことが気にかかってね」
「どうして、そこまで?」
 しまった、と思った。一瞬であれ、その優しげな言い方に惑わされた自分を呪った。近藤さんの目が、細められた。
「……決まっているだろう。ゆりちゃんのことを大切に思うようになったからだよ」
 近藤さんから目をそらして、窓の外に視線を移した。日の光が眩しい。今日は、一ヶ月に一度あれば良いほどの、雪晴れの日だ。
「ゆりちゃん。君は、本当に良いお嫁さんになれる。今からだって、遅くない」
 近藤さんが、私の方へと身を乗り出してくるのが分かった。
「もう、彼を待つのはやめなさい。人生は君が思うより遥かに短い。私の年になるまでだって、一瞬だ。時間の使い方を変えれば、君はもっと幸せになることができる」
 胸の奥が焼け爛れたように熱かった。
「ゆりちゃん、僕にその人生を預けてみないかな」
 私は、首を横に振った。
「なら、僕はいつまででも待つよ。ゆりちゃんの真摯な態度も、置かれた境遇も、全て引っくるめて僕は」
 その先の言葉を聞きたくなくて、私は目蓋を閉ざした。耳を塞ぎたかったけれど、点滴に繋がれた腕が酷く重くて、動かなかった。
「     」
 近藤さんの声は私の鼓膜を揺らした。けれど、それは意味を持たない一字ずつの言葉となって、どこかへ消えていった。
 嘘だ。その言葉は、自分に向けられていた。こんな、胡散臭い、得体の知れない、人の気持ちも分からない、分かろうとしないような人に、一瞬であれ絆されたなんて。
 何か生温いものが私の目蓋に触れた。胃の奥の火傷のような違和感が鮮明に押し寄せてきた。私の心の奥で保っていた何かが穢れてしまったのだという事実が、急速に私の意識に迫ってきた。閉じた目蓋の裏から、涙が滲み出す。
 一面の真っ新な雪景色が脳裏に浮かんだ。彼と歩いた思い出の道が、薄汚れた泥まみれの雪道に変わっていく。たった一度であれ、踏まれた雪に価値はないのだ。誰かに後ろ指をさされたような気がした。



 ソファの上で目が覚めた。見慣れたリビングの天井が、シーリングライトが目に入る。今は、何時だろうか。ちらりと窓の外を見ると、灰色の空が広がっている。
 近藤さんに連れられて病院から帰ってきて、そのまま眠ってしまったらしい。ゆっくりとソファから身を起こした。彼がいなくなった後、いつからか、ダブルベッドに一人で寝転びたくなくてソファで眠るようになった。
 リビングは、寂しい。何の気なしにテレビをつけたが、テレビショッピングだった。気分を切り替えなければならない。今ぼんやりとしていても、あくせく動き回っても、記憶がなくなろうと、記憶を取り戻そうと、明日はやってくるのだ。
 まずは来週の仕事の準備をしなければならない。一日倒れてしまっていた分、仕事も詰まっているだろう。ああ、それよりも、夕食の調達が先か。
 テレビの電源を消し、頭を振って立ち上がった。こうしている間にも、やらなければならないことが積もっていくのは分かっている。けれど、今は全て忘れてしまいたかった。
 ベランダに出ると、プランターに植えたアナスタシアの花が開き始めていた。去年の秋、寒くなり始めた頃に植えたものだ。このアナスタシアは明後日頃には開ききって、それから一ヶ月ほど咲き続けるのだろう。去年も、そうだった。今年の秋に植えるアナスタシアも、来年の今頃花開くのだろう。そうして、きっと、私の残りの人生も、同じように続いていくのだ。彼を待つという生き甲斐を失った私にも、時間は等しく流れていくのだ。
 柵の向こう側には、一面白に埋め尽くされた街が広がっている。家々も車も全て白一色で、雪掻きをした跡が染みのように黒く、細々と、点々と、傷のように目立っている。
 なんだか眠くなってきて、その場にへたり込んだ。膝を崩すと、目の前にアナスタシアの花びらが見えた。風向きが変わって、ベランダで横になった私に雪が吹き付けられてきた。寒さは感じなかった。
 近藤さんは、年老いるのは一瞬だと言っていたけれど、まだ私に見えているその過程は、長過ぎる。この街は雪に埋め尽くされて滅ぶことはないし、私はこれから何十年もきっと生きるのだろう。その時間は、どれほど長いものなのだろう。
 頬を雫が流れ落ちた。体温で雪が溶けたのか、そうでないのか、もはや知ろうとも思わなかった。水滴を拭おうとした右手の親指がちくりと痛んだ。もう傷は癒えたはずなのに、バラの棘が刺さった部分が酷く痛かった。
 考えるのに疲れてしまった。アナスタシアの花びらに触れながら、私はそっと目を閉じた。どこかから彼の匂いがしてくるような気がしていた。

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