「不器用な照れ隠し」

 「不器用な照れ隠し」



デートを終えて、二人は京子のアパートに帰ってきた。
けれど、隣に座る彼方は、いつもより口数が少なく、不機嫌なようだった。
ソファーの背に完全に体重を預けて、項垂れているようにも見える。
無理もない。日向を目撃してしまったのだから。

あの時の辛そうな顔が、目に焼き付いて離れない。
何故だろう。彼方の辛そうな顔を見ると、自分の心も苦しくなる。
楽しいデートだったのに。楽しいデートで終わるはずだったのに。
どうして、よりにもよって、日向を目撃してしまったのだろう。
それも、楽しそうに、幸せそうに彼女と手を繋いで笑い合う日向を。
一番見てはいけない人物だった。
一番見てはいけない光景だった。

こういう時、何て声を掛けたらいいのか、わからない。
気にしないで?元気出して?そんなありふれた言葉じゃ、彼方を癒せない。
自分は、彼方を慰めるような言葉を、持ち合わせてはいない。
なら、自分に何ができるだろう。彼方に、何をしてやれるだろう。
彼方を慰める術は―。

「彼方さん。」

京子は、ソファーに沈む彼方に声を掛ける。

「…何?」

彼方は、煩わしそうに京子を見た。
不機嫌のせいか、いつもより声が低い。
いつもニコニコ笑っているくせに、今の彼方は無表情だった。
いや、その無表情に見えて、苛立ちが混じっている。
笑顔の仮面を作れないほど、腹立たしいのか。辛いのか。

「不機嫌ですね。」

「…別に、平気だよ。日向のことなんて、もうどうでもいい。」

彼方は冷たく吐き捨てた。
どうでもいいだなんて、ただの強がりでしかないくせに。

「…私には、何も気の利いたことは言えませんけど、」

そう言って、京子は彼方の膝の上に跨る。
一瞬のことに、彼方は驚いて身を仰け反らせた。

「え?…な、何!?いきなりどうしたの?」

構うことなく、京子は彼方の頬に手を添える。
そして、顔を近付けて―

「私が、慰めてあげますよ。」

キスをした。
触れるだけの、少し強引なキス。
彼方は驚いて目を瞬かせた。長い睫毛が、顔を掠める。
唇が離れて、彼方が何か言う前に、再び舌を絡めて口を塞いだ。
彼方は京子の肩を掴んで、引き離そうとする。
けれど、離れてなんかやらない。京子は、彼方の後頭部を押さえて、より深く舌を絡めた。

「ちょっと、京子ちゃん!こんなことして…何のつもりなの?」

強い力で無理矢理引き離されると、彼方は困惑したような顔で自分を見上げていた。
膝の上に乗っているから、いつもは少し高い彼方の目線を、京子が見下ろす形になる。

「だから、私が慰めてあげるって言ってるんです。
 …それとも、やっぱり私じゃ、日向さんの代わりにはなりませんか?」

そう言って、京子は彼方の左手を掴んで、自分の胸に当てた。
彼方は驚いて手を引っ込めようとしたが、京子にガッチリと強い力で掴まれて、できなかった。

「勘違いしないでよ。京子ちゃんは、日向の代わりなんかじゃない。
 ねえ、やめてよ。そんなことする気分じゃない。」

彼方は、俯いて首を振る。
傷んだ茶髪が顔にかかって、その表情は見えない。
京子は何故か、その言葉に、ひどく苛立った。

日向の代わりにはなれない。そんなこと、わかってる。
でも、あの夜、自分に日向を重ねて抱いたのは、彼方だ。

「どうしてですか?抱けばいいじゃないですか。
 いつもみたいに、『慰めて』って言って、私のこと、都合よく使えばいいじゃないですか。
 誰でもいいんでしょう?日向さんのことを、忘れられれば。」

そうだ。抱けばいい。いつかのように、自分を都合よく使えばいい。
他の女子にしたみたいに、自分を慰み物にすればいい。
そうして、少しでも彼方の気が晴れるなら、それでいい。
どうせ自分は、恋人ごっこの遊び相手でしかないのだから。

「そうやって、いろんな女の人と寝てきたんでしょう?
 どうせ、私もその中の一人でしかないんでしょう?
 私も、都合のいい遊び相手でしかないんでしょう?
 なら、今更気に病む必要なんて、ないじゃないですか。」

そう言って、また彼方の頬に手を添える。
彼方は俯いたまま、何も言わない。

自分は何をやっているのだろう。何を言っているのだろう。
こんな嫌味や、皮肉を、言うつもりじゃなかったのに。
自分のこの口は、天邪鬼だ。
何故かはわからない。わからないけれど、ひどく苛立つ。
彼方に拒否されたから?彼方が自分を抱かないから?
彼方が自分に本当の恋人のように接するから?
なんだか心の中がモヤモヤする。
彼方が自分を抱かないのなら、無理矢理にでも、抱かせたかった。

しばらく俯いて黙っていた彼方は、静かに顔を上げる。
その表情は、悲しそうに沈んでいた。

「…ごめんね。」

泣きそうな声で言って、彼方は京子を抱きしめる。
痩せてか細くなった腕が、京子を自分を包み込む。
彼方の体温は、温かかった。

「ごめんね。」その言葉は、何に対して言っているのだろう。
どうして、悲しそうな顔を自分に向けたのだろう。

京子はただ黙って、彼方に身を任せていた。
このまま抱けばいい。そうすれば、きっと、変な勘違いもしなくて済む。
遊びでいい。恋人ごっこなんだ。本気になんか、ならないでいい。
彼方のことなんて、好きじゃない。好きになんか、ならない。

彼方は京子の肩口に顔を埋めて、大きな溜息を吐いた。
そして、泣きそうな情けない声で、たどたどしい言葉を呟く。

「信じてくれないかもしれないけど、僕は…本当に京子ちゃんが好きだよ。
 遊びなんかじゃ、ない。だから、そんなこと…言わないで。」

そう言って、京子を抱きしめる腕に力を込める。
肩口に顔を埋めたままで、表情が見えない。
彼方は今、どんな顔をしているのだろう。
どんな顔をして、好きだと言ったのだろう。
自分はそんな言葉、信じられないのに。信じたくないのに。

「確かに、僕は誰とでも寝れるし、実際…そうしてきた。
 あの時、京子ちゃんを抱いたのだって、たまたまそこに、都合よく京子ちゃんがいたからだ。誰でもよかった。
 …最低なことをしたって、わかってる。許してくれなくても…いい。」

ゆっくりと、彼方は顔を上げる。
その瞳は、涙で潤んでいた。
ああ、そんな傷付いた目で見ないでくれ。

「でも今は、本当に京子ちゃんが好きなんだ。好きだから、大事にしたい。
 彼女なんて初めてだから、どうしたらいいかわからないけど、僕にできることは、何だってしてあげたい。
 京子ちゃんにも、僕のことを好きになってほしい。
 …こんな僕の言葉じゃ…信じて、もらえないかなあ…?」

涙が一粒、彼方の頬を伝った。
いつもの、薄っぺらい言葉じゃない。嘘を吐いているようにも見えない。
これは、彼方の本音なのか。その言葉に、偽りはないのか。
自分は、それを信じていいのか。

「…本当に、好きなんですか?」

「うん。…好きだよ。
 だから、京子ちゃんが信じてくれるまでは、手を出さない。大事にしたいんだ。」

彼方は、辛くなるほど、切ない瞳で京子を見つめる。
その目は、真剣そのものだった。

「…信じて、いいんですか?」

「信じてほしい。それしか…言えないけど…。」

そう言って、彼方は自信無さげに目を伏せる。
自分が今までやってきたことを、悔やんでいるのだろうか。
彼方のことを信じられないのは、彼方の自業自得だ。
その笑顔はタチが悪いし、その口は嘘ばかり紡ぐし、その手は平気で女を抱く。
信じられるわけない。信じたくない。

けれど、付き合ってからの彼方は、以前と少し変わった。
自分の体を求めるようなことは、しなくなった。
毎日甘いお菓子を持って、会いに来てくれた。
今日のデートで、たくさんの服や靴を買い与えてくれた。
手を繋いで、恋人らしいデートをした。
首輪代わりのネックレスをくれた。
楽しいデートだった。彼方の隣は、凄くドキドキした。

彼方のことを好きにならないように、自分を誤魔化した。
どうせ遊びだからと、諦めた。
けれど、彼方と一緒に過ごすのが、どんどん心地よく感じてしまっていた。
彼方に「好き」だと言われるたび、心がざわついた。
どうしようもなく、馬鹿で、愚かで、脆弱な彼方を、ほっとけなかった。
情が移ったなんてものじゃない。

ああ、もう。自分も彼方のことが、好きなんじゃないか。
悔しいから、認めたくなかったのに。
信じるのが、怖かったのに。

京子は、大きく溜息を吐いた。
彼方は不安そうに、涙で濡れた瞳で京子を見上げる。
まるで叱られた子供みたいだ。
そんな顔をされたら、なんだかこっちが悪いことをしているみたいじゃないか。

京子は、両手で彼方の耳を塞いだ。
そして、彼方を見つめて、小さな声で呟く。
声が、震えた。

「貴方が、好きです。」

言い終わってから、手を離す。
彼方は、目を瞬かせていた。

「え?今、なんて言ったの?聞こえなかったんだけど…。」

当然だ。聞こえないように言ったのだから。
それを認めるのは、悔しいし、恥ずかしいんだ。
自分は天邪鬼なんだ。素直には、なれないんだ。

「さっきの言葉、仕方がないから信じてあげてもいい、って言ったんです。」

照れ隠しのように、京子はそっぽを向く。
彼方は子供のように、マヌケに口をポカンと開けた。

「…ホント?信じて、くれるの?」

「そう言ったでしょう?」

その言葉に、パッと彼方の表情が明るくなった。
この男はこうやって、時々子供みたいな表情をする。
純粋無垢で、邪気のない子供の顔。
やっていることは一丁前の大人なのに、不思議な男だ。
こういう無邪気な顔を見せられると、彼方を邪険にできなくなる。

「ありがとう。好きだよ、京子ちゃん。大好き。」

そう言って、彼方は、自分の体温を確かめるかのように、強く抱きしめた。
少し伸びた茶髪が頬を掠めて、くすぐったい。

「あーもう。ほら、涙拭いてくださいよ。せっかく買ってもらった服が、濡れるじゃないですか。」

指で彼方の涙を拭う。
泣き虫な彼氏は、はにかんで笑った。
その笑顔に、京子は不覚にもドキッとしてしまう。

学校の女子が騒ぐほどの整った顔と、無邪気な笑顔。
男らしさと、子供らしさを兼ね備えたこの男は、卑怯だと思う。
ああ、どうして自分は彼方の膝に乗ってしまったのだろう。
距離が近い。なんだか頬が熱い。ドキドキして、彼方の顔が見れない。
好きだと自覚すると、こんなにも恥ずかしくなるものなのか。

「京子ちゃん?」

彼方はそっぽを向く京子を、不思議そうに見つめる。
両腕で京子を抱きしめたまま、可愛らしく首を傾げる。
自分だけ意識しているみたいで、なんだか恥ずかしい。

「…と、とりあえず、禁煙してくださいよ。私、煙草吸う男の人嫌いなんです。」

照れ隠しに、またこの口は素直じゃない言葉を吐く。
天邪鬼な自分は、なかなか素直になれない。
きっと、自分が彼方に好きだと伝えられるのは、まだずっと先のことだろう。

「え?なんで?優樹さんも吸ってるじゃない。」

「お兄ちゃんは、言っても聞かないんですよ。」

「なら、僕もいいじゃない。」

「お兄ちゃんと違って、彼方さんは、まだ未成年でしょう。禁煙してください。」

「えー。そんなこと言われても…。煙草ないと、なんか口寂しいし…。」

きつく咎めるように言うと、彼方は唇を尖らせた。
そんな子供のような仕草に、少しだけ、可愛らしいと思ってしまう。

なんだかおかしくなって、京子は寂しいと言う彼方の唇に、キスをした。
素直な言葉なんて話せないから、このキスで想いが伝わればいい。
さっきの乱暴なキスとは違う、触れるだけの優しいキス。

「こうしたら、口寂しくないでしょう?」

京子が意地悪な笑みを浮かべると、彼方は対照的に顔を赤らめた。
恥ずかしそうにキスされた口元を手で覆って、目を逸らす。

「…なんか、それ反則だと思う。」

なんだ、この新鮮な反応は。
キスなんて、慣れたものだと思っていたのに。
いつも自信満々に女を誑かす癖に。
耳まで真っ赤にして恥じらう彼方なんて、初めて見た。
意外だ。可愛いところもあるじゃないか。
なんだかおかしくなって、京子は不敵に微笑んだ。

「頑張って禁煙してくださいね。」

「京子ちゃんって、時々物凄く男らしいよね…。
 なんていうか…うん、そういうところは優樹さんにそっくりだ。」

彼方はキスされた唇を指でなぞりながら、しみじみと呟く。
まだほんのり頬は赤い。この男でも、照れるのか。

「ね、もう一回。」

そう言って、彼方は京子を見上げる。
子供の顔じゃない、余裕を浮かべた男の顔に戻っていた。
その瞳で見つめられると、動けなくなる。
上手く呼吸ができなくなるほど、心臓がドキドキ鳴る。
まるで、彼方の視線に囚われたみたいだ。

「…調子に乗らないでください。」

京子は、反射的に彼方の頭を軽く叩く。
不器用な照れ隠しだ。

「痛っ!もー…。ちょっとくらい優しくしてよー。」

彼方は自分の頭を押さえて、拗ねるように頬を膨らませた。

「とにかく、禁煙しないと駄目ですからね。」


そう言って、京子は真っ赤になった顔を見られないように、彼方の膝を降りた。

また素直になれない。まだ、素直になれない。
ドキドキしただなんて、言えない。言ってやらない。
好きだなんて、まだ怖くて言えない。

自分が素直になれるのは、まだまだ先みたいだ。

麻丸。
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麻丸。

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