「友達」
「友達」
日向が教室に着くと、彼方はいつものように女子たちと談笑していた。
しかし、気付いているのか、気づいていないのか、
日向と目を合わせることはなかった。
言葉を交わすこともなければ、視線を交わすこともない。
同じ教室の中にいるのに、
なんだか違う世界に生きているような気分だった。
午前の授業を終え、昼休みになっても、
彼方が日向のもとに来ることはなかった。
金曜日と同じく、弁当箱を持って、女子たちと何処かへ行ってしまう。
そんな背中を、ただ黙って見送るしかなかった。
「ひーなたっ!一緒に飯くおーぜ!」
「つーか、屋上暑いから、中庭行こうぜ。」
いつものように亮太が懐いてくる。
将悟も当たり前のように、亮太に続く。
二人は、飽きもせずに、こんな自分に話しかけてくれる。
いつの間にか自分の懐に入ってきて、それが当たり前だと思わせる。
以前は、そんな関係が煩わしいとさえ思っていた。
彼方以外の人間と関わるのは、怖いと思っていた。
しかし、今はこの関係に少しだけ、心を許せるようになっていた。
「ああ。」
そう言って鞄から弁当を取り出して、亮太の方へ振り向くと、後ろから声がした。
「あ~ちょっと待って~!」
特徴的なゆるい口調。
矢野千秋だ。
三人が振り返ると、千秋はポスターのようなものを掲げて、それを指さす。
「あのね、今朝日向君にも言ったんだけど、
今月末に学校の近くの神社で夏祭りがあるの~。
それでね、高校最後だし、思い出作りにみんなで行かない?」
そう言って、千秋はニッコリと笑った。
「毎年やってるやつ?屋台いっぱい出るんだよなー。」
「楽しそうじゃん!みんなで行こうぜ!」
将悟はポスターを見つめながら呟く。
亮太は嬉々としてノリ気なようだ。
興味を示した二人を見て、安心したように、千秋は胸を撫で下ろす。
そして、日向に向き合う。
「日向君も、来てくれるよね?」
首を傾げ、上目づかいに言う千秋に、日向は口ごもる。
「いや、俺は…考えとくって…。」
「亮太君も将悟君も、結構ノリ気だよ。私も…楽しみにしてるからね!」
そう言い残して、ポスターを日向の机に置いて、
千秋は女子のグループに戻っていく。
完全に、断りづらい雰囲気になってしまった。
日向は、あまり人の多い場所は好きじゃない。
たくさんの人の波に、飲み込まれてしまいそうになるから。
楽しそうで、明るくて、賑やかな雰囲気は、辛くなるから。
できれば、行きたくない。
そう思ったが、何も言えずに立ち尽くしていると、亮太に肩を叩かれる。
「日向?飯いかねーの?」
「あ…ああ、今行く。」
結局、午後の授業が終わっても、
相変わらず彼方は、自分と目を合わせることもなかった。
放課後はテストで赤点を取った生徒の追試。
彼方も亮太もこの一週間ほぼ追試らしい。
一日二教科で二時間程度。
終わるまで待とうと思えば待てるが、
彼方からは先に帰るように言われている。
その背中を見つめてみても、声を掛けられることはなかった。
「しょーごー。どうしよう。俺、今週の放課後全部追試だ…。」
後ろの席からは、将悟に甘えるような、落ち込んだような亮太の声が聞こえる。
「部活の大会、土日じゃなかったのか?」
「そうなんだよ!今週部活でれねーじゃん!」
「自業自得だろ…。」
「だー!!マジありえねえ…!」
「お前の頭がな。」
騒がしい亮太と、呆れたような将悟の声。
そんないつも通りの、仲のいい二人の会話が聞こえる。
最近は、そんな風に彼方と笑い合うことがないため、日向は少し寂しくなる。
相変わらず、彼方の背中を見つめてみても、彼方が振り返ることはない。
何も言わなくてもいいから、せめて、
以前のように、自分に笑いかけてくれたらいいのに。
そんなどうしようもないことを思っていると、誰かに肩を叩かれる。
「高橋!どっか飯食いに行こうぜ!」
将悟だ。
いつも呆れたような顔ばかりしているけれど、珍しく笑顔で日向を誘う。
「え…でも…。」
突然の誘いに、日向は戸惑って口ごもる。
思えば、放課後に誰かと出かけることなんてなかった。
誘ってくれるような友人もいなかったし、
早く家に帰って、夕飯の支度や家事をしなければならなかった。
いつもは彼方がいて、二人で一緒に家に帰るだけ。
「いーじゃねーか!たまには付き合えよ。
どうせコイツも弟も追試だろ?」
将悟が日向の肩を抱くように、その細い腕を日向の肩に回す。
その仕草と言葉に、亮太は羨ましそうな顔をする。
「あー!ずりー!俺も日向と飯行きてえー!」
「バーカ!お前は追試だろ。」
そう言って、意地悪そうに笑う将悟に、半ば強制的に連れ出される。
彼方は、そんな日向を横目で見ていた。
将悟の独断で連れてこられた店は、
学校近くの、お好み焼きがメインの鉄板焼き屋だった。
ラジオから流れる音楽と、換気扇がガラガラと大きな音を立てて回っている。
古びた昔ながらの店という感じで、自分たちの他に客はいなかった。
「とりあえずー、豚玉と海鮮ミックス。」
将悟の行きつけらしく、慣れた様子で注文を済ませる。
「なんで…いきなり…。」
「ん?いいじゃねーか、たまには。」
将悟は鉄板の電源を入れ、慣れた手つきで油を引く。
日向は、家で食事することがほとんどで、
滅多に外食をしないため、こういう店に来たのは初めてだった。
しかも彼方以外の、クラスメイトと。
なんとなく、少し緊張してしまう。
注文してから間もなく、豚玉と海鮮ミックスが運ばれてくる。
小さな丸い器にこんもりと、キャベツや天かす、イカやエビが乗っていた。
将悟は、運ばれてきた豚玉を手際よく、綺麗に混ぜる。
―意外と器用なんだな。
そう思ったが、ギターを弾くということは、
それなりに器用でも不思議ではない。
雑な亮太といることと、ヤンキーのような風貌で、
勝手に不器用だと思い込んでいた。
日向も真似して海鮮ミックスを混ぜてみる。
皿からはみだしている具材が零れそうで、慎重になってしまう。
「そんな綺麗にやらなくても、適当でいいんだよ。適当で。」
そう言いながら、将悟は油を引いた鉄板に、混ぜた具材を流し込む。
「ホント、お前ってマメだよな。」
ヘラで流し込んだ具材を綺麗に円形にしながら、将悟は可笑しそうに笑う。
「別に…そんなことないと思うけど。」
そう言われて、日向は少し雑に混ぜた具材を鉄板に流し入れる。
「そーそー。そういうのは適当でいいんだよ。」
将悟は笑ったまま、日向が流し込んだ少し雑な混ざり方をした具材を、円形に纏める。
その手つきは本当に素早く丁寧で、手馴れていた。
「…夏にお好み焼きって…。」
ジュージューと音を立て、お好み焼きが焼かれていく。
目の前の鉄板が発する煙と熱気が、室内のエアコンを無意味にする。
日向は、耐えきれない暑さに、額から汗が滲んでいた。
その汗を袖で拭う日向の様子を見て、将悟が呟く。
「暑いなら、学ラン脱げばいいじゃねーか。」
「…いや、それは…。」
口ごもる日向に、将悟は何かを察したように、目を逸らす。
「…別に、無理にとは言わねーけど。」
脱ぎたい気持ちはやまやまだが、
鮮明な痣が残っている体を、見せるわけにはいかない。
半袖のシャツの将悟とは違って、日向は長袖のシャツの上に学ラン。
学ランを脱いだところで、この季節、汗でシャツが透けるかもしれない。
長袖のシャツの下は半袖のTシャツだ。腕までは隠せない。
痣なんて、なければいいのに。
鉄板の上にゆらゆらと、陽炎が見える。
熱気で、顔がすっかり熱くなってしまっていた。
体が、火照る。
―暑い。
日向は、学ランは脱がずにボタンだけ外して、前を開ける。
袖も手首が少し見えるほどに捲った。
―これくらいなら、痣は見えないだろう。
先程より、感じる暑さは幾分かマシになる。
日向がため息を吐きながら顔を上げると、将悟は意外そうな顔をしていた。
将悟の視線が、自分の両手首に向けられていることに気付いた。
―手首に痣はないはず…。
「…どうした?」
訝しげな日向の視線に、将悟は口を開く。
「…いや、なんでもない。」
そう言って、将悟は再び目を逸らす。
自分の手首なんかを見て、将悟は何を思ったのか。
彼方のあの事件以来、こうして将悟と話をすることが多くなった。
最初はその見た目のせいか、暴力的だとか怖いなどの印象を持っていたが、
将悟は亮太と違って、真面目で、意外と空気を読む。
そして冷静で堅実な男だと思う。
そう、彼方が過呼吸を起こした時だって、
慌てもせずに冷静に、素早く的確に対処した。
本人は言いにくそうに「慣れているから」とだけ言ったが、
将悟が過呼吸を持つような性格には見えない。
そのことが、日向は何故かとても気になった。
「そういえば、彼方が過呼吸起こしたとき、『慣れてるから』って言ってたけど…。」
その言葉に、将悟は無言で日向の方を見つめる。
沈黙が、重い。
聞いてはいけないことだったのかもしれない。
それはそうだ。あの時だって、言い辛そうにしていた。
「亮太には、言うなよ?」
将悟は両手にヘラを持ち、小さく口を開く。
「俺の彼女がさ、うつ病…みたいな感じでさ、
具合の悪い時はリスカとか過呼吸とか、結構酷かったんだ。」
気まずさからか、将悟は日向の方を見ずに、
両手に持ったヘラで、綺麗にお好み焼きをひっくり返す。
慣れているから、という相手は将悟の彼女らしい。
そういえば、将悟に彼女がいる話は聞いたことはあるが、
将悟の口から、その『彼女』の話は、あまり出てこない気がする。
人前で彼女の話を、しないようにしている気がする。
「過呼吸ってさ、死ぬほど苦しいんだってさ。」
そう語りながら、もう一枚、静かにひっくり返す。
「だからさ、過呼吸起こしてる人間に、不安そうな顔したら、余計ひどくなるらしいしな。
『大丈夫、大丈夫』って安心させてやらねえと。」
静かに鉄板の淵にヘラを置いて、儚い笑顔を見せた。
愁いを帯びたその笑顔は、何故かどこか遠くを思っているようだった。
「…変なこと聞いて、ごめん。」
いつも見せる呆れた表情や、不機嫌な表情と違い、
切なそうに愁いを見せる将悟に、日向はどんな言葉をかけていいのか、わからなかった。
「別にいいさ。お前には言っといた方がいいと思ってたしな。
あ、でも亮太には言うなよ?アイツ意外と心配性だから。
それがアイツのいいところではあるんだけど、馬鹿だからな…。」
将悟は、いつものように少しおどけてみせるが、
その様子はいつもと全然違い、悲しそうに、寂しそうに見えた。
将悟の前では、その『彼女』の話をしない方がいいみたいだ。
彼方がいないと、人との上手い関わり方がわからない。
こういう時に、自分の語彙の少なさを痛感させられる。
これが、今まで彼方以外の人間と関わろうとしなかった結果だ。
彼方ならば、可もなく不可もなく、当たり障りない、そんな返しをするのだろう。
日向は、そんな都合のいい言葉など思いつかず、ただ口を噤むことしかできなかった。
「そんな困った顔するなよ。お前ってホント、顔に出やすいよな。
でも意外。ずっと無表情で根暗な奴だと思ってたから。」
そう言って、将悟はクスクスと笑う。
根暗だとか無口だとか、それは間違ってはいないと思う。
けれど、人の口から言われると、少し傷つく。
確かに自分は、そんなに喋る方ではないし、
彼方のように、人前でニコニコ笑えるわけでもない。
「でもちゃんと笑うし、言葉に出すより感情が顔に出るのも、
友達になって、やっと、わかってきた。」
どうやら将悟は、日向のことを友達だと思っているらしい。
日向はずっと、友達の作り方なんて、わからなかった。
目の前の男は、何の疑問も抱かずに、自分を友達だと口にする。
「友達…?」
日向の言葉に、将悟は少し怪訝そうな顔をして、ため息を吐く。
「あれだけ一緒にいて、今更友達じゃないとか言うのかよ?」
「いや、そういうわけじゃないけど…。」
友達。その言葉が、なんだかくすぐったい。
亮太も将悟も、こんな自分の友達になってくれるというのか。
今まで「友達」や「好き」だとか、そういう言葉が、怖かった。
自分はそう思っていても、相手にとっては、そうじゃないかもしれないから。
その言葉を口にできる将悟が、羨ましく思えた。
「俺らはもう友達だろ?」
そう言って将悟は、いつもの少年のような笑顔を見せた。