「背中を押す」
「背中を押す」
月曜日の朝。
いつも通りの図書室の約束。
百合と亮太は静かな図書室でいつも通り談笑していた。
百合の恋愛相談といいつつ、実際は他愛のない会話が多い。
それでも、亮太は百合と二人きりで過ごせる、この時間が嬉しかった。
「追試、大丈夫だったんですか?」
「あー、うん、たぶん。」
亮太の歯切れの悪い返事に、百合は真っ直ぐな目で亮太を見つめる。
「坂野先輩、学級委員ですよね…?」
訝しげな瞳の百合に、亮太は目を逸らす。
思えば学級委員らしいことは、何一つしていないような気がする。
名前だけの学級委員で、テストも常に赤点ばかりだ。
亮太が好きな百合の真っ直ぐな瞳が、刺さるように痛い。
「まあ、そうなんだけど…。って言っても、委員会ももうすぐ終わりだしなー。」
「え?」
「三年生は受験勉強があるから、夏休み入ったら委員会の仕事ないんだよ。」
三年生は受験勉強に専念するために、委員会活動の参加は夏休み前までだ。
それは亮太も例外ではない。
まともに委員会の仕事をしていない亮太は、
委員会がなくなったところで何も変わらないかもしれないけれど。
「え…。それじゃあ、日向先輩と会えるの…今週で最後じゃないですか…。」
今週いっぱいで前期の授業が終わり、来週から夏休みが始まる。
下級生の百合は、日向との接点は金曜日の図書室だけだった。
委員会がなくなるということは、百合が日向に会える理由がなくなるということだ。
そのことに、百合は悲しそうな顔をする。
「あ…そっか。」
自分と違って、百合は日向と会う理由がないのだ。
日向もまた、百合に会う理由がない。
このまま夏休みが来てしまえば、
二人はもう、会うことがないかもしれないのだ。
「夏休みも、きっと会えないですよね…。」
しょんぼりと肩を落とす百合。
元々小柄な体が、一層小さくなる。
悲しげな顔をする百合を、見ていられなくて、
亮太はなんとか話題を変えようと、無い知恵を絞る。
「えっと…その…そ、そういえばさ、月末のお祭り知ってる?」
言葉に詰まりながら、やっと絞り出した話題は、
日向や将悟や千秋も誘って一緒に行く予定の夏祭りのことだった。
「お祭り…?」
突然の話題に、百合はポカンと口を開けて、何のことだかわからない様子だった。
百合はこの地から少し離れたところに住んでいるため、無理もないだろう。
その神社のお祭りというのも、田舎の小さなお祭りなのだから。
「学校の近くの神社でさ、夏祭りがあるんだ!
屋台とかいっぱい出てさ、花火…花火とかもあるんだ!
だから…だからさ…」
― 一緒に行こう。
そんな言葉、言っていいはずがない。
百合の気持ちを無視して、日向との友情を無視して、そんなことは言えなかった。
切ない想いを隠して、笑う。
「…百合ちゃんも来なよ。日向も、来るし。」
「え!?日向先輩も来るんですか!?目一杯おしゃれしなきゃ…!」
日向の名前が出た瞬間、両手を頬に当て、悩ましげな顔をする百合。
その仕草が、可愛らしいと思った反面、心に突き刺さる。
百合が心を悩ませているのは、自分じゃない。
いつだって、百合は真っ直ぐに日向のことを想っている。
亮太は、胸が締め付けられるような気持ちで、小さく呟く。
「そのままでも、百合ちゃんは可愛いよ。」
その言葉に、百合は少し悲しそうな顔をした。
「それは…日向先輩に言ってほしいですね。」
少し俯いて、そう言った百合は、
またすぐに顔を上げて、いつものように笑う。
「なんて、冗談です。」
悪い冗談だ。
いや、冗談なんかじゃないのだろう。
自分に気を使って、誤魔化したのだろう。
亮太はその百合の優しさが、狡いと思った。
突き放すようなことはしないくせに、懐にはいれてくれない。
百合の見つめる先には、日向しかいない。
それでも、百合の前で情けない顔は見せたくなかった。
下手な作り笑顔で、自分を誤魔化す。
「日向は口下手だからなー。でも意外と顔に出やすいんだぜ、アイツ。」
「そうですよね!日向先輩、照れたらすごい可愛いですよね!
困ったような顔もすごく可愛くて、もっと困らせちゃいたくなりますよね!」
今まで見たこともないくらいの悪戯っ子の笑みで、少し興奮気味に話す百合。
彼女は意外に、少しSっ気があるのかもしれない。
「百合ちゃん…いい趣味してるね…。」
百合の発言に、呆れ気味の亮太。
彼女の意外な一面を受け入れられずに、苦笑する。
「でも、やっぱり日向先輩には笑っていてほしいです。」
そう言った百合は、清々しいほど幸せそうに笑った。
―ああ、俺は、この笑顔が好きなんだな。
きっと自分の好きな百合は、日向のことを一途に想い続けている百合なのだ。
真っ直ぐに、日向しか見えていない、そんな百合が好きなのだ。
それは、叶うことがない、不毛な恋だ。
「…俺、ちゃんと百合ちゃんのこと、応援するよ。」
落ち込んでいる百合より、悲しそうな顔をしている百合より、
やっぱり明るく笑っている百合が好きだ。
自分の想いが叶わなくとも、彼女の笑顔を守りたいと思った。
彼女が笑ってくれるのなら、自分は救われる。
「当たり前じゃないですか!ちゃんと応援してくれないと困ります!」
頬を膨らませて、拗ねるような仕草をする百合。
その仕草が妙に子供っぽくて、可愛らしくて、自然と笑みがこぼれる。
「百合ちゃんには、敵わないな。」
「日向君、元気ないねー。どうしたのー?」
午前の授業が終わった昼休み。
千秋は首を傾げて、日向の顔を覗きこむ。
朝から一日中、伏し目がちで落ち込んだ様子の日向に、
千秋は心配そうな目を向けて、日向を見つめる。
「…なんでもない。」
日向は、そんな千秋から目を逸らして、小さく素っ気ない返事を呟く。
猫背気味の背中を丸めて、肩を落とす日向に、千秋は心配そうに言葉を掛ける。
そんな二人を、後ろの席から亮太は黙って見ていた。
千秋は、きっと日向のことが好きなのだろう。
追試の時に、日向の話題を出して、顔を赤らめた千秋のことを思い出す。
金曜日の図書室でしか日向に会えない百合と違って、
千秋は卒業までは同じクラスなため、長期休み以外は、ほぼ毎日顔を合わす。
二人の距離が縮まるのは、時間の問題のような気がしていた。
日向と千秋がくっつけば、自分にも可能性があるのではないか、と考える反面、
やっぱり百合には幸せになってほしい、日向と上手くいってほしいと思ってしまう。
百合の悲しむ顔は、見たくない。
百合には、笑っていてほしい。
自分には、何ができるのだろう。
そんなことを考えながら、亮太は頬杖をついて二人を見つめる。
「亮太、飯いかねーの?」
将悟の声で、ハッと我に返る。
最近、気がつけば百合のことばかりを考えている気がする。
それも当然だ。自分は百合のことが好きなのだから。
「…お、おう!そーだな!」
下手に取り繕って、将悟に返事をする。
その返事に訝しげな顔をした将悟には、
なんとなく今自分が考えていたことが、伝わっているような気がした。
自分がわかりやすいだけかもしれないが、将悟は昔から聡い。
だからこそ、将悟には嘘もつけないし、誤魔化せない。
けれど亮太は、何も言ってこない将悟に安心して、
そのまま、千秋と話す日向の肩を叩いて、いつもの笑顔を見せる。
「日向!飯行こうぜ!」
その言葉に、千秋は少し残念そうな顔をして、でもまたすぐ笑う。
「じゃあ、私は友達のとこ行くね。日向君、元気出してね。」
手を振りながら遠ざかる千秋に、日向は少し安心したような顔を見せた。
話の終わりを切り出せなくて、困っていたのだろうか。
最近気付いたことは、日向は素っ気なくとも、相手を突き放すようなことはしない。
わかりにくくても、それが日向の優しさだ。
中庭の木陰に座り、各々パンや弁当を広げる。
少し強い風に煽られて木々が揺れる音が、心なしが涼しさを感じさせる。
この時期の屋上は、直射日光が当たって、
とてもじゃないけれど長時間そこにいるのは辛い。
最近はもっぱら三人で、木陰があるこの中庭で昼食をとることが多くなった。
最近の日向は大人しい。
元々大人しいけれど、以前にも増して沈んだ顔をして、俯いていることが多くなった。
きっと、もう決めるのに時間がない進路のこと、変わってしまった彼方のことなど、
いろいろ考えることがあるのだろう。
それでも、亮太は百合に目を向けてほしかった。
日向に、百合のことをちゃんと考えてほしかった。
日向は日向なりにいろいろ考えて、百合の好意を断ったのだろうけど、
そのことを、自分が口出しする権利がないことは、わかっているけれど、
亮太はどうしても、日向にこの気持ちを言いたかった。
夏休みまでに、委員会が終わるまでに、
百合のことを、もっと真剣に考えてほしかった。
そんなことに口出しして、日向に嫌われるかもしれない、呆れられるかもしれない。
けれど、言わなきゃいけない気がした。
ここで言わないと、また自分が後悔する気がした。
日向の方を見ると、ただ黙ってぼーっとしながら、
箸を動かす手を止めて、何かを考えるように俯いていた。
―俺が、背中を押さないと。
じゃないと、日向は前に進めない。
そう思った亮太は、自分を落ち着けるように、大きく息を吐く。
そして、決心するように拳を握り、立ち上がった。
「…日向!俺、今からめちゃめちゃワガママなこと言うぞ!」
「…は?」
突然の言葉に、日向は微かに視線を上げて、怪訝そうに亮太を見上げる。
亮太は日向と視線を合わせて、真っ直ぐに日向を見つめる。
「百合ちゃんのこと、ちゃんと考えてやれよ。」
力強い、しっかりとした言葉で伝えなければ。
ちゃんとした、自分の言葉で伝えなければ。
「おい亮太…。」
静止しようとする将悟をよそに、亮太は言葉を続ける。
少し震える手を隠すように、握る拳に力が籠る。
それでも、今言わなければ。
「お前は優しい奴だから、いろいろ考えて断ったんだろうけど、
百合ちゃんだって真剣なんだ。真剣に日向のこと想ってるんだよ。」
真っ直ぐな亮太の言葉に、日向は視線を落とす。
そして、箸を置いて小さく呟いた。
「…亮太だって、あの子のこと、好きなんだろ。」
そうだ、あの事件のときに、自分の気持ちは日向の耳に入っている。
三人で話したあの喫茶店で、相手が百合だとは言わずに、将悟が話した。
けれど、百合から告白されたのだったら、なんとなく、察しはついているだろう。
それを理由に、百合の想いを受け取れなかったのだろうか。
「俺のことは、どうでもいいんだよ。
俺のことを考えて、百合ちゃんの告白を断ったんなら、それは優しさじゃねえよ。
そんなのは、ただの自己満足の偽善だ。」
弛みない真剣な目で日向を捕らえる。
その言葉に、日向は俯いたまま、小さく答えた。
「あの子がいい子だってことは、わかってる。
…けど、中途半端な気持ちで、答えられない。」
日向は少し面倒そうに、伸びた髪を掻き上げる。
日向が呆れるのも当然だ。
こんなことを、自分が口出しするべきじゃない。
日向には日向なりの考えがあるのは、わかっている。
それでも亮太は、少しでも百合の力になりたかった。
「頼むから…百合ちゃんの気持ち、わかってやってくれよ…っ。」
折れることのない亮太を見て、日向はため息を吐く。
少しイライラした様子で、亮太のことを横目で睨んで話す。
「…じゃあお前は、告白されて、自分がその子のことを、まだ好きかどうかも、
これから好きになれるかもわからないまま、その子と付き合うのか?
気持ちがないまま、付き合うのか?…それこそ、不誠実だろ。」
そうだ、日向はこういう人間だ。
いつも自分の思いつかないところまで考えている。
日向は優しいから、人の気持ちを一番に考えている。
だけど不器用だから、全部は言わない。
不誠実に、簡単に、受け入れようとはしない。
百合の想いが叶って、二人が付き合えばそれでいいと思っていたのに、
それだけじゃダメなんだと、今更気付かされる。
日向はこんなにも誠実に百合のことを、考えてくれていたのに、
自分は日向の気持ちを無視して、話していたのか。
日向が百合のことを好きになる前提で、話していた。
日向の気持ちを無視した不誠実な行動を、強要していた。
「それは…そうだけど…。でも…。」
日向の正論に何も言えず、でも何か言いたそうに口ごもる亮太。
そして、少しイラついた様子で亮太を睨む日向。
空気が重い。険悪なムードだ。
そんな二人を見て、黙っていた将悟が口を開く。
「もういいだろ。やめてやれ。」
そう言って、将悟は静かに亮太を見つめる。
日向は、意味ありげに将悟のことを黙ってじっと見つめた。
百合のことを大事にしようと思うあまりに、
日向の気持ちに気付けなかった自分を、恥ずかしく思い、
居た堪れない空気に亮太は俯いて、小さく呟いた。
「…ごめん、日向。言いすぎた。」
放課後、帰宅部の百合は真っ直ぐ家に帰ろうと、下駄箱へ向かう。
三年生以外は、ほとんど部活動に所属しているため、
この時間は、玄関に人は少ない。
廊下を抜けて、下駄箱の前あたりに来たところで、声を掛けられる。
「やあ、こんにちは。」
その声に振り向くと、意外な人物が自分を待ち伏せていた。
「…あなたは…。」
その男は、自分が好きな彼の顔によく似た、自分が大嫌いな人物。
あの時とは違い、髪を茶色に染めて、卑しい顔で笑う。
その男を見て、百合は一瞬で気づいた。
彼は、日向ではない。
以前、自分に乱暴しようとした、日向の双子の弟だ。
青ざめた表情をした百合を見て、
彼方はニッコリと笑って、強い力で百合の手首を掴んだ。
逃げられないように、しっかりと。
「ちょっと、話をしようよ。」