昼間の暑さが残る夕暮れ時。おれは西日の鋭く込む離れの縁側を避けて、母屋の影に置いたコンテナに腰を下ろしていた。
 我が家の庭には子供と孫たちが久しぶりに集まっている。すっかり夏の恒例行事になった焼き肉パーテイだ。
 息子は流れる汗を拭いながら炭ばさみを手に木炭の火加減を見ている。おれに似て普段は料理など全くしない彼は、こういうときに限ってやる気を出す。男衆が一緒になっているところを見ると、恐らく楽しんでいるだけなのだろうが。その証拠に空いた手には既に缶ビールを持っている。
 女衆は台所で下ごしらえをしているのだろう。楽しげな笑い声が窓の向こうから聞こえている。
 にじり寄ってくる夕闇をうち払うために点けられたのは、庭木に吊された裸電球だけだ。ぼんやりとした明かりが闇を照らすにはまだ時間が早い。一番星がようやく瞬き始めたばかりで空はまだ明るかった。
 縁側に吊した風鈴が風もないのにりいんりいんと音を立てた。孫たちがいたずらでもしているに違いない。
 やはり風鈴は金物に限るな。その音を聞いておれは思った。ガラス製のものとは違って、音は儚いながらも凛々しく響く。いつからそこにあるのか今となっては覚えていないほど年季の入った風鈴は、釣鐘の形を模していた。寺の釣鐘を打ったときの腹に響く雷鳴のような鐘の音も好きだが、夏と言えばやはり風鈴の方が涼やかで良い。
 おれは何をするでもなくコンテナに腰掛けて、彼らが忙しく動き回っているのを眺めた。手持ちぶさたにしていると居心地は悪いが、こうして賑やかな家族の姿を見ているのは嫌いではない。
 そうこうするうちに孫たちが勝手口から飛び出してきた。どうやらもうすぐ食事にありつけるらしい。ペットボトルのジュースを両腕に抱えている。
「おじいちゃんのビールは?」
「ビールの方が良いかな? 冷蔵庫に入らなかったから井戸で冷やしてるよ。日本酒もあるけど」
「じゃあそっちの方が良いか」
「どっちでも良いぞ」
 孫たちが近所に響くような声をたてるものだから静めようと口を出すが、彼らの耳には入っていないようで相変わらず騒がしく裏の井戸に走っていった。
 隣近所から苦情を言われやしないかと生け垣の向こうをのぞき見るが、ぴっちりと窓を閉め切ってクーラーをつけているらしい。耳を澄ませば室外機がごうごうと温かい空気を吐き出している音が聞こえる。それなら多少煙臭くても文句は言われないだろう。

 男も女も一緒になって肉の焼き加減に夢中になっている中、おれは一人で晩酌の冷酒にちびちびと口を付ける。賑やかな夏の風景を眺めていると、不意に誰かが呼びかけてきた。
「久しぶりだな。元気だったか?」
 記憶の底で眠っていたはずの不確かな、しかし聞き覚えのある声に振り返る。
 そこには懐かしい顔があった。短く刈りあげた髪に、快濶な瞳。人懐こい笑みを浮かべた青年がそこに立っていた。
 六十年ぶりに見るその姿に、おれは思わず目を細める。
「兄貴か。全く変わらないものだな。いや、驚いた」
 ぱりっと糊の効いた藍染めの浴衣に桑茶色の帯を締めて、その姿は若々しい。それに比べておれときたら、寝間着代わりのくたびれた浴衣姿だ。
 六十年という月日は知らぬ間におれたち兄弟の間に横たわって遠く経だたせていたはずだというのに、兄貴はそんなものは端から無かったかのように当たり前のような顔をしてそこに立っていた。
 おれの言葉に彼は「まあな」と小さく肩をすくめる。
「そう言うお前は随分と歳を取ったな。少し丸くなったんじゃないか? 昔はとんがっていたからなあ」
「農家の次男坊はそんなもんさ」
 おれは腰をずらして席を空けると、兄貴は当たり前のようにそこに腰を下ろした。手近な缶ビールを手にとってのどを鳴らして飲んでいる。
「陸軍に入ると言い出したときは驚いたぞ。東京で何を吹き込まれてきたのかと思った。あの時はお前、まだ十六だったろう。親父は奉公に出すんじゃなかったと後悔していたぞ」
 兄貴の言葉におれは苦笑した。奉公先での使いの最中通りがかった新宿駅の前で、雑踏に紛れながらぴしりと軍服を着て高らかに軍歌を歌う若い兵士たちの姿が、あの時は凛々しく見えて憧れたものだ。
「入隊してからはどこにいたんだ? ろくに手紙も寄こさないで、お袋がどんなに心配していたことか」
「サイパン、フィリピン、それから満州だな。国外にいたから手紙なんて届かないと思ってろくすっぽ書かなかったよ。下っ端の糧秣兵(りょうまつへい)(現地で食料を調達する兵士)だったから、軍隊にいると言っても戦闘などほとんどしなかった」
「そうか」
 おれが思い出に浸っている横で兄貴は早々にビールを空けて、次に手を伸ばしている。子供のようにプルダブを開けるのに苦戦しているので、汗の掻いた缶を取り上げて開けてやるとこれまた子供のように満面の笑みを浮かべて「悪いな」と受け取った。
「こんな旨いものを飲めるなんて、お前はほとほと運が良い」
 その言葉に、おれは思わず眉をひそめた。
「……そう言われると申し訳ないな。これでも気に病んでいたんだ」
 兄貴は開けたばかりの缶ビールを口に付けたまま、けろりとした顔でこちらを向いた。
「親父に似てお前は真面目で頑固だからな。六十年も気に病む必要は無かったんだぞ。お前は無事に帰ることが出来たんだから。それに感謝しているよ。こうやって帰ってくる場所があるというのは幸せなことだからな。随分と顔ぶれが変わっているが。賑やかで良い家族じゃないか。お前がいなかったら誰一人として生まれてくることはなかったんだぞ」
 そう言って兄貴は歓声を上げる孫たちを眩しそうに眺めている。
『良い家族』その言葉におれは年甲斐もなく照れた。今年で八十を数えるという老いぼれだというのに。兄に褒められることがこれほど嬉しいものなのか。
「さすがに、帰ってきたら葬式が済んでいたというのには驚いたけどな」
 おれは照れ隠しにすっかり禿げ上がった頭をぐるりと撫でながら、話を逸らした。
「シベリアには何年いたんだ?」
「三年だ。生きて帰ってこれたのが不思議なくらいだよ。あの頃は毎日のように仲間がばたばたと死んでいったからな。兄貴がおれを守ってくれたんだろ? おかげでおれは帰って来れた」
「それはどうかな?」
 彼は喉の奥でくつくつと笑って残ったビールを一気に煽った。
「おれは気が付いたら向こう側にいたからな。守ったというなら、爺婆の方がよっぽど頼りになるはずだ。それにおれは自分がどこで死んだのか良く覚えてないんだよ。支那に渡ったのだけは覚えているんだがね。その後のことはさっぱりだ。どうやら人は死ぬと憶えが悪くなるらしい」
「そうなのか?」
 ――死ぬと憶えが悪くなる。その言葉におれは不安を覚えた。おれもいつか忘れていってしまうのだろうか……。
「そんな顔をするな。忘れるのは嫌なことだけだ。辛くて嫌なことはケロッと忘れられる。だが、良い記憶だけはいつまでも残っているから始末が悪い。年に一度、こうして帰ってこないと里恋しくて仕方がない」
「そういうものなのか?」
 伺うように問い返すと、兄貴はにやりと口端を上げて意地の悪い笑みを浮かべた。
「そういうものさ。お前もそのうち分かる。それより、はじめての船旅はどうだった? 酔ったか?」
 笑みを浮かべたままぐいと身を乗り出してくる。その拍子に腕が触れ合った。意外にもその身体は仄かに温かい。
「酔うもんか。こんなものかと拍子抜けした」
「まあ、そういうもんだよな」
 その時、おれたちの会話の腰を折るように末の孫が紙皿をテーブルの上に置いた。肉、ピーマン、タマネギ、キャベツにカボチャ。肉以外は全てうちの畑で取れた野菜だ。
「おじいちゃん。よそったから食べてね。ちゃんとナスは抜いておいたから」
 それを聞いて兄貴はからかうように声を上げた。
「なんだお前。結局ナスは嫌いなままか」
 おれはむっとして揃えられた箸を取り、焦げ目の目立つ肉を口に放り込んだ。少なくなった自前の歯で肉を噛むのは一苦労だが、どうやら上等な肉らしい。ろくに噛まずとも柔らかい。
「いいだろう別に。ネズミやイナゴならいくらでも食べられるが、ナスだけは駄目なんだよ」
「ネズミやイナゴよりナスの方がよっぽどましだろう? まあ、イナゴの佃煮は俺も好きだけどな」
 そう言って声を上げて笑う姿を見ていると、胸の辺りが抓まれたように痛む。だが、その痛みは嫌いではない。懐古の痛み。出来ることならずっと浸っていたいものだ。今思い返してみれば、こうして兄弟二人で笑い合っている時間は短すぎたのかも知れない。
「さてと。そろそろ行くかな」
 二人で紙皿を平らげると、兄貴はすっと立ち上がった。歩くたびにからからと下駄が音を立てる。おれはすっと伸びた藍色の背中をぼんやりと眺めた。まだガキだった頃、縁日の人混みの中で見失わないよう必死に追いかけた背中だ。
 もう終わってしまうのか……。
 名残惜しく思っていると、ふと彼が立ち止まって振り返った。にやにやとからかうような表情を浮かべている。
「行かないのか?」
 それを聞いてはっとした。
 ああ、そうか。おれは……。
「……行くさ。ああ、行くとも」
 おれは几帳面に冷やされた冷酒を一気に煽った。よく冷えた酒が喉を心地よく滑り落ちていく。彼方者(あっちもの)のためにわざわざ酒を冷やすなどということをしてくれるのは有り難いことだ。
 おれは騒がしい家族の顔を一人ずつ丹念に眺めた。それぞれにたくさんの思い出がある。いくらでも溢れてきては止まることはない。
 ――良い記憶はいつまでも残っている……か。それなら、こいつらのことを決して忘れることはないだろう。
 堪らずに声を上げて笑った。最期に見せたのは涙だったな。出来ることなら笑っていてやりたかった。彼らには決して届くことのない声は、薄墨色の空に溶けていく。
 そうして、ひとしきり笑うとゆっくりと立ち上がった。抗ガン剤のせいであれほど重く痛んだ身体は今では嘘のように軽い。
「済んだか?」
 兄貴が微笑みながら静かに聞いた。
「ああ、済んだよ。……行くか。親父たちが待ってる」
 六十年ぶりに兄弟二人で肩を並べて、仄かに輝く一本道を歩く。どこまでも続く道の先は暮れゆく空に続いている。
 幾度か振り返りたい衝動に駆られたが、そうはしなかった。

 いつでも会えるさ。おれのために酒を冷やし続けてくれる限りは。


       *    *    *


 カナカナカナとひぐらしが悲しげに鳴く。
 辺りは既に薄暗く、裸電球の明かりが優しく輝いている。
 涼やかな風が吹きつけて、縁側に吊した金(かね)の風鈴がりいんりいんと軽やかな音を立てた。
「あー! おじいちゃんの分食べたの誰?! ここに置いておいたのに!」
 突然、少女が空になった紙皿を指して声を上げた。
「お酒もなくなってるし! おじさん?!」
「まさか! そんな罰当たりなことはしないよ」
 疑われた叔父は首を大きく振っている。
「あら? わたしのビールもないわ。まだ開けてなかったはずなんだけど」
 叔母が空になった缶を振って不思議そうに首を傾げた。
 炭の火加減を見ていた父親が不意に顔を上げる。
「おじいちゃんが食べたのかもね。そろそろ帰ってくる頃だから」
「そうかも」
 大人たちが笑い合う中、少女だけはムスッと唇を尖らせて眉をひそめていた。失ったものを容易に埋められるほど彼女は大人ではない。その瞳には溢れんばかりの涙が溜まっていた。


 夕暮れ時は賑やかに過ぎていく。
 夜空に瞬く星たちが地上を見下ろして。その優しい眼差しは幾世もの人々を変わらずに照らし続けてきた。
 君らは気付いているのだろうか、夏の風に揺れる風鈴の音が懐かしい人々を呼び寄せるための道筋を作っていることを。

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