ボクは滑らかな壁に自分の姿を映した。踊る度にゆらゆらと揺れる身体を目で追う。
いつもの一人遊びだ。
兄弟が部屋の隅で苦しそうに身体を揺らす。
その様子が壁に映り込んだ。
ボクはすぐに駆け寄った。
「大丈夫? まだ苦しいの?」
兄弟は幾度か大きく胸を上下させる。大きな瞳が中を仰ぐ。
ボクを安心させる為に無理矢理身体を起こした。
「大丈夫だよ。ほら」
そう言うといびつな手足を豪快に振り回して見せた。
その度に兄弟の身体がふわふわと浮く。
「それなら、いいんだ」
ボクの言葉に、兄弟は安心したようで再び身体を横たえた。
規則正しい呼吸が聞こえる。
ボクは一人遊びを止めて兄弟の傍らに寄り添った。
暖め合うように身体を寄せる。
壁には二つの影が揺らめいていた。
ボクたちの吐き出す息が、静かに部屋の流れを作る。
兄弟の具合が、良くないことをボクは知っている。
寒い冬のせいだろうか。
いつも寒さに耐えかねて、ぐったりと元気がないのはボクの方なのに、今回だけは違った。
冬はとうに過ぎて暖かな日差しがボクらの部屋に差し込むようになっても、兄弟はずっと怠そうだった。
* * *
ボクたちには名前がない。
だからボクたちは互いに「兄弟」と呼び合う。
ボクにとって兄弟が兄なのか弟なのか分からないように、兄弟もボクがどちらかなんて分からなかった。
生まれたときから、ボクたちはずっと一緒だった。
昔はこの小さな部屋の中にたくさんの仲間たちが居た。色とりどりの模様がゆらゆらと踊っていたのを覚えている。
その中にはボクたちのお父さんとお母さんも居た。
その頃はボクらもまだ小さかったし、他にも兄弟がたくさん居た。部屋の中で走り回っては、すぐに誰かにぶつかってよく怒られたっけ。
窮屈だったけど賑やかだった。でも、少しずつ仲間が減っていって、いつの間にかボクたちだけになってしまったけれど。
長い年月が経って、ボクたちは随分と大きくなった。
たぶん、お父さんやお母さんよりも大きくなったんじゃないかと思う。
その頃のことは、あまり良くは覚えていない。
* * *
カチャカチャと音がして、今日の分のご飯が差し出される。
家主さんだ。
ボク達をここに閉じこめる代わりに、生きる上で必要なこと全ての世話を焼いてくれている。
生まれたときからそうだった。
だから、ボク達はこの部屋の外に何があるのか知らない。そもそも、知ろうと思ったこともない。
ボクは与えられたご飯をぱくぱくと頬張った。
美味しいかどうかは、良く分からない。
これしか食べたことがないから。
兄弟も口をぱくぱくと動かして空腹を見たそうとしているけれど、ここまで来ることが出来なかった。
横たわったまま身体をばたつかせている。
それは、体力を消耗しているだけのように見えた。
ボクが兄弟の元までご飯を運んで上げると、嬉しそうにそれを口に含んだ。
「ありがとう」
兄弟はいつものように優しい笑顔を向ける。
けれど、それは日増しに衰えていた。
食べる量も減っていた。最近はずいぶん残すようになった。
「気にするなよ」
ボクは何でもないと言うように笑って見せた。
今まで長い間続いてきた平穏が、これからも続くのだと信じたかったんだ。
そんな様子を、家主さんはいつもの様に壁の向こうから覗いていた。
家主さんも、元気のない兄弟を心配しているようだった。
食事を取り終わると、彼女はようやくボクたちの部屋から離れていく。
毎日そんな感じだ。
日が昇ると家主さんの家族が、代わる代わる部屋の中を覗き込んでくる。
指でトントンと壁を叩いて、ボクたちの様子を伺う。
ボクたちはすっかり日常になったその光景に驚くことなく、気楽に遊んだ。
小さな部屋の中を走り回って追いかけっこをしたり、どっちが高くジャンプ出来るか競争したり。
滑らかな壁に姿を映して踊ったり。
兄弟が元気だった頃は、そうして遊んでいた。
毎日が楽しかった。
今は、毎日兄弟の心配をしている。
いつになったら、前のように元気になってくれるんだろう。
* * *
時々、家主さんはボク達の部屋を大掃除してくれる。
それは、決まって天気の良い暖かな日だ。
大掃除の日は、大抵ボクたちは小さな部屋から追い出される。
たまに居るときもあるけれど、必ず邪魔にされる。
ボクは大掃除の日を、いつも心待ちにしていた。
普段、部屋の外に出ることのないボクたちにとって、それは外の世界を見る貴重な時間だった。
でも、完全な外じゃない。
硬くて暗い銀色の何かに仕切られている。
それでも、ボクらにとってそこは外の世界だった。
いつもの暗い天井じゃなくて、どこまでも高い真っ青な天井が広がっている。
そこは真っ白で形を変える何かがぷかぷかと浮かんでいた。
壁越しに差し込んでいた日差しが、今は直接ボクたちの上に降り注ぐ。
ボクらが嬉しさ余って水面を叩けば、飛び上がった水滴がキラキラと光を含んだ。
暗い銀色の壁は、その光を反射させて帯のように影を落とす。
「ソラって言うんだ」
兄弟が言った。
「ソラ?」
「そう。ずっと前に聞いたんだ。ソラは全部の世界をつないでるって」
「ソラ」と言う名の、真っ青な天井を見上げる。
ボクは嬉しくなって水面を叩いた。
「それじゃあ、あの天井を泳げるなら、どこまでも行けるって事だよね?」
少し考えて兄弟は言った。
「そう言うことになるね」
「じゃあさ、いつかあそこへ行こう。絶対に気持ち良いよ」
兄弟もボクに倣って水面を叩く。
ボクたちは銀色の壁の中でぐるぐると回った。
「ソラ」に行く空想をしながら。
程なくして、ボク達は家主さんの手によってぴかぴかの部屋の中に戻された。
それからしばらくは、「ソラ」の話ばかりしていた。
* * *
兄弟の呼吸が荒くなる。
大きく吐いては吸って。苦しそうだ。
ボクは心配になって近寄った。
「また苦しいの?」
聞こえているよ、と言うように瞳をボクに向ける。
けれど、そうするだけで何も言ってはくれない。
苦しげな呼吸だけが狭い部屋の中に響く。
兄弟が落ち着くまで、ボクは側にいた。ただ、側にいた。
「いつかさ」
唐突に兄弟が言った。呼吸は大分落ち着いている。
「いつか、ソラに行こうって話をしたよね」
「うん」ボクは頷く。
兄弟は二、三度大きく息を吸い込んだ。
「約束しよう。いつか、絶対に行こう」
そう言って、力無く歪な腕を伸ばした。
ボクはその腕をすかさずとった。
「うん。約束だ。絶対だよ。絶対。だから、早く元気になるんだ」
兄弟は嬉しそうに笑った。
それから、まだ行ったことのない「ソラ」の話をした。
兄弟は、始終嬉しそうにボクの話を聞いていた。
ボクらが上げる笑い声は、きっと家主さんにも聞こえたらしい。
時々様子を見に来ては、壁をトントンと叩いていたから。
夜、ボクは兄弟の苦しげな呼吸の音で目を覚ました。
兄弟は部屋の隅に横たわっていた。
いつも以上に苦しそうだった。
「ねえ、大丈夫?」
ボクは近寄りながら、怖々と聞く。
兄弟は呼吸を繰り返すだけで、何も答えなかった。
そっと身体を撫でると、ぴくりと反応するだけで、いつものようにボクを安心させてくれない。
覗き込めば、大きな瞳は静かに曇ろうとしていた。
まるで、「ソラ」に浮かぶ白いやつみたいに。
兄弟の瞳に写っているのは、ボクじゃなくて「ソラ」なんだろうか。
何もできないボクは、ただ兄弟の側にいることしかできなかった。
壁の向こう側から、ぼんやりと明かりが入り込んで、ボクらを照らしていた。
* * *
朝、兄弟は静かに息をするのを止めた。
大きな瞳はボクを見つめて、何か言おうとしているようにも見えたけれど、結局何も言ってはくれなかった。
兄弟の身体を、そろりと撫でる。
いつもなら、それに気付いて身体を揺らしてくれるのに。
もう動くことはない。
しばらく兄弟の身体に寄り添っていたけれど、そろそろと離れた。
顔を出したばかりの日差しが、部屋の中を射るように差し込む。
ボクは壁の影に隠れて、日に照らされる兄弟の身体をぼんやりと見つめた。
光が、兄弟をさらっていくように見えたから。
けれど、何も起こらなかった。
光が、兄弟をさらっていくこともなければ、兄弟が起き上がっていつものように身体を揺らすこともなかった。
兄弟は、身体だけを残してどこか遠くへ行ってしまった。
たくさんの仲間たちと同じように。
ボクは、その事実から目を背けるように、壁に自分の身体を映した。
そうすると、兄弟が元気になったように思えたから。
ずっと、それを待っていたのに。
ガタガタと大きな音がして、家主さんがボクたちの部屋を覗き込む。
ぎょろりとした大きな目は、動かなくなった兄弟を見つめていた。
コツコツと指で壁を叩いて様子を伺っていたけれど、兄弟が動くことがないと分かると悲しそうにそっと部屋から離れた。
しばらくして家主さんが戻ってくる。
暗い天井を外すと、動かなくなった兄弟を連れ去ってしまった。
それから兄弟がどうなったのか、ボクは知らない。
家主さんはいつものように食事を与えてくれるし、トントンと壁を叩く。
ボクもいつものようにご飯を食べては、滑らかな壁に映る自分と踊った。
兄弟がいなくなってしまったこと以外は、何も変わらない。
「もう誰も、ボクの話を聞いてくれないんだね」
壁の向こうにいる自分に話しかける。
返事はない。
たぶん、兄弟は今頃「ソラ」を泳いでいるに違いない。
ずっと夢見ていた、真っ青で広い「ソラ」。
ひとしきり泳いで疲れたら、きっとボクを迎えに来てくれるだろう。
「遅くなってごめんね」って。
それまでは、狭い水槽の中。
この小さな世界だけが、ボクの全て。
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