ザクッ、ザクッ、ザクッ。
 ただ、その音だけが響いていた。
 しんしんと雪が降り積もる雪国で、関口守、御年七二歳の老人は、ただひたすら、一心不乱に脳内に浮かぶ己の芸術を形にしていく。
 待っておいてくれ、婆さんや。必ず、今晩中に完成してみせようと、心の中で愛する妻への思いを反芻しながら。

 
                  ♪ ♪ ♪

                  
 関口守とその妻、蕗子はおしどり夫婦として近所に知られていた。
 出会ったのはもう何十年も前の事。細かい事は覚えていない。ただ、お互いに惹かれ合うものがあった。それだけだったろう。
 それでも、ロマンチックな、それこそドラマのような出会いや出来事は無くとも、守はただ一途に蕗子を愛した。蕗子もその愛に淑やかに応えた。お互い、その愛に明確な理由は動機は無い。ただ『この人だから』、それだけがお互いを愛し抜く唯一にして最大の理由である。
 二人の愛の結晶たる子供が出来た時、守は泣いて喜んだ。赤ん坊の泣き声が分娩室から聞こえた時のあの感動は、未だに良く覚えている。娘だった。幸智と名付けた。理由は字を見れば分かるであろう。
 守としては、あともう一人くらいは欲しいとは思っていたものの、結局二人目には恵まれなかった。だが、彼は幸智にその無償の愛を惜しげもなく、それこそ慈雨の如く注いだし、その事に満足もしていた。蕗子は自分の気持ちを吐露した事は無かったが、満足していただろうと守は勝手に推測している。
 守は涙もろい。二人の愛を一身に受け、すくすくと成長していく幸智の姿を見るだけでも涙腺が刺激されていく。幸智が幼稚園、小学校、中学校に入学した時、彼はいつも入学式で泣いていた。周りが晴れやかな表情で自らの息子、娘を見ている中、一人だけ号泣しているというその光景はいささかシュールであったし目立ってもいた。高校入学の際は娘に「来ないで」と言われ、別の意味で号泣したのも今では良い思い出だ。温かい笑みをもって頭を撫でて慰めてくれた蕗子のその手の感触を、守は未だに忘れていない。
 子供の成長というものは往々にして早く、守が気付いた頃には幸智はもう大学を卒業し、社会人になろうとしていた。「今まで有難うお父さん、大好きだよ」と笑顔で言われ、守はまた号泣した。良い娘を持ったものだと、彼はその幸運を神に感謝した。「幸智はきっと蕗子みたいな良い女になるよ」と返答すると、幸智は照れくさそうに、だが嬉しそうに微笑んだ事を守は良く覚えている。
 子供が親離れしても、守は子離れ出来ていなかったようで、いつも寂しい思いをしていた。そんな彼の生活に彩りを加えてくれたのはいつも蕗子だ。年を取っても彼女の美しさは損なわれる事はなく、寧ろ大人っぽさが加わり更に美しさに磨きがかかったように守には見えた。彼は常日頃近所の人や友達、更には会社の従業員にまで妻の事を自慢していたが、実際冗談などではなく、彼には本当に蕗子が世界一の女のように思えていたのだ。いつまでも、彼は蕗子を『妻』ではなく『女』として見ていた。何十年と月日が経っても、彼の心は少年のように純粋だった。恋を、していたのだ。
 だが、月日は流れ、人は必ずその身に年を重ねていく。永遠のように思えていた彼女の美しさにも、陰りが見えた。そして、守はその事実を受け止めた。手首は細くなり、声は嗄れるが、その姿すら愛おしく思えるならば、それこそが本物の『愛』なのではないかと彼は思っていたから。だから、いつも彼は言った。「美しいね」、と。蕗子はその言葉に淑やかな微笑と「ありがとう」の言葉をもって返答したが、その声音は嬉しそうだった。お互いにベストパートナーだと感じていた。

 だが、彼にも一つだけ受け止めきれない出来事があった。──それが、数日前に起こった事だ。

 冷たくなった彼女の手。その顔は、まるで眠っているかのように穏やかで、だからこそ彼は信じられなかった。今にもその目をぱちりと開いて、「あら、おはよう」と言葉を投げかけてくれるのではないか。そんな思いが脳内を占めていく。
 だが、現実は否応なしに彼に理解を強要する。全てに気付いた、気付いてしまったその瞬間、彼の瞳からはとめどなく涙が溢れた。愛する者を亡くしてしまった悲しみだけでなく、少年のように純粋だったその恋がやぶれてしまったのだ。その悲しみは、少しだけ失恋のそれと似通っていた。真夜中に彼は独りで慟哭したが、その叫びはただ、虚空に広がって消えてしまった。
 どれだけ叫んだのか。ただでさえ喉は老いに負けて衰えているのだから、そこまで長い間叫ぶ事は出来なかったろう。ただ心だけは少年だったから、彼はまだ叫び足りなかった。おれの思いはこんなものではない! そう叫ぼうとしたが、やはり無理だった。そうしてまた、涙を流した。

 守と蕗子の間には一つの約束が存在していた。『もしどちらかが先に果てたとしても、墓は作らない』というものだ。
 守は墓というものに常日頃疑問を感じていた。骨を墓と共に埋葬するという、その行為に。何故死者を閉じ込めるような真似をするのか。これでは、死者は天国など行けないではないか、と。骨を墓に閉じ込めてしまっては、死者は死後、天国でも地獄でもなく、その墓地に縛り付けられてしまうのではないのか、と。
 だから、葬式も上げたし火葬もしたが、墓は作らなかった。骨は、山で撒いた。これも彼女との約束。全てのエネルギーは循環している。だから、蕗子の骨もエネルギーとなり、循環するエネルギーの一部となるべきだ。そうする事で、その流れに乗って天国まで行けるのだという独特の考え方に基づいている。
 だが、彼の心中は穏やかではない。心の中に燻る『後悔』という名の炎は消えない。もっと、してやれる事があったんじゃないのか。もっと、愛してやる事が出来たんじゃないのか。その事ばかりを考えていた。
 やがて季節は移ろい、花が咲き、草木が萌え、緑が生い茂り、それらが散ったかと思ったら、街は白く染まっていた。空より舞い落ちる雪を眺めながら、彼はただ、涙を流す。何か、出来る事は無いのだろうかと、自分の無力さに苛まれながら。
 そして、思いついたのだ。──ならば、せめて一日だけ、この世に召喚させよう。一日だけ、この世に縛り付けよう。その一日で、思いを伝えてやろう、と。
 思い立ったが吉日。彼は、即座に行動した。

 
                  ♪ ♪ ♪

                  
「終わったか」
 守は流れる汗を拭う。真冬に汗をかいたのは初めてだ。妙に清々しかった。
 ざわざわと、集中が切れた途端に喧騒が彼の身体を包む。振り返ると、いつの間にやら沢山の人が集まっていた。皆一定の距離からこちらを見つめて──いや、彼の後ろを見つめていた。
「守さんや、これどうしたんかえ?」と、ある女性が話しかけてきた。隣の家に住むお婆さんだ。
「妻蕗子の為に何が出来るかと自分なりに考えた結果ですわ」
「ほー。こりゃあ、蕗子さんも喜ぶでしょう」と、お婆さんは朗らかに笑う。

 それは、大きな『墓』だった。但し、氷で出来た。

 守は埋葬という習慣を嫌う。忌々しいとすら思っている。だがそれは墓が死者をその場に永遠に縛り付けてしまうという性質を持っているのだと考えているからだ。
 でも、氷ならばそんな事は無い。今の季節は冬ではあるが、今日から明日にかけて気温が上がるらしい。ならば、明日には溶けて無くなるだろうと考えたのだ。仮に溶け残っても数日で水に変わるし、少なくとも明日には『墓』と呼べる形を保ってはいないはず。
 守は埋葬という習慣は嫌いだが、それに込められた人々の思いは嫌いではない。愛した人へ畏敬と愛情を込めて作られる墓そのものは嫌いではないのだ。
 だから、作ってみた。作り方など分かりっこないし、そういった才能に恵まれている訳でもないが、それでも。愛さえあればどうとでもなると信じて。
 実際その『墓』はあまり綺麗な形はしていない。墓と呼ぶには少々形が歪であり、角がやけに丸い。が、かろうじて墓の形は保っている。何より、美しかった。空に浮かぶ月の光を吸収し、墓は淡く、朧気に、光り輝く。
 ふと周りを見渡した。老若男女、沢山の人達が集まっているが、共通しているのは目を輝かせているという事だ。美しい氷の芸術に目を奪われている。形こそ微妙ではあるが、そもそもこれが墓であると気付いている人などごく少数、さっきのお婆さんしか知らない可能性もあるので、形は関係ないのだろう。上質な氷を使ったせいか、墓は宝石のように輝いていた。
 ──どうじゃ、婆さんや。凄いだろう? 美しかろう?? まぁ、婆さん程じゃないかもしれんが。
 ──それに、こんなにも多くの人が、集まってきている。幸せじゃのう。
 ふぅっと、一息吐いた。そして、守は予め脇に用意していた花束を手にとって、供える。かつて蕗子が好きだった花、クチナシがその花束には含まれていた。どちらかというと園芸用ではあるが、どうしても花束に加えたかったのだ。ちなみに花言葉は『私は幸せ者です』である。その花言葉を知った時、彼はやはり泣いた。
 錦上花を添えるなどと言うが、美しいものと美しいものを掛けあわせれば立派になる。美しい墓は花束によって立派な墓となった。守はその光景を見て、涙を流した。だが、悲しみからくるものではない。寧ろ彼は喜んでいるのだ。やっと、彼女への愛を形に出来た、と。
 残念ながら、その行為によって蕗子の声が聞こえるようになるなどという都合の良い事は起きない。だが、それでも良いのだ。この事によって、守の心は救われたのだから。

「死んでも尚、愛しているよ、婆さんや」

 守は墓に向かって、そう言葉を投げかけた。

碧空澄
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碧空澄

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