その日の最後に来た客が私を苛立たせたのは、何もオーダーストップ寸前に来店したからというわけではない。
率直に言うと、とにかく今日は来てほしくなかった。顔さえ見るのもいやな気分だった。
このところ、私と彼女――マイの間にはぎくしゃくとした空気が流れ、仲が良かった頃が嘘のように壊れかけていた。
不況のあおりで収入も安定せず、結婚の約束も果たせないままでいた私たちだったが、それなりに明日を夢見て支えあってきた。
だが。
いつしか会話も少なくなり、外泊の回数が増えた。
新しい相手でも見つけたのか?
それを訊くのはためらわれた。
答えを聞きたくなかったからだ。
別れるなら、笑って別れたい。
そろそろ潮時かな……。
私は重い気分を振り払い「いらっしゃいませ」と微笑みかけた。
だが、マイは妙に陽気で、それでいてなれなれしく、いつしかペースに巻き込まれそうになる。
いけない。これでは仕事にならない。せっかくの決断が鈍ってしまう。
「マスター。いつものやつちょうだぁい」
普段なら私を和ませてくれるはずの彼女の声も、今日に限ってはその舌足らずな甘ったれた言い方が癪にさわった。
今朝もケンカしたばかりだったのだ。
いつものやつ―― 年に数回しか来ないにも関わらず、こういう常連ぶった頼み方をする客は少なからずいる。
一応、私もプロのバーテンダーのはしくれとして客の素性、好みなどの情報は逐一記憶しているので、生返事で答え、いつものやつ――ハイライフというカクテルの準備を始めた。
ウォッカ、ホワイトキュラソー、パイナップルジュース、そして卵白をシェイクしたものだ。
あらかじめ待ち合わせをしていたのか定かではないが、マイはカウンターの端に座っていたクロカワリョウジの隣に腰かけた。
リョウジは私のボス(この店のオーナー)であり、親友でもある。
彼はちらりと私に目配せしてきた。その意味は伝わったが、私はあえて無視し、マイの注文であるハイライフの材料をシェイクした。
「わたし、今夜この街出るから」
「それはまた急だな」
「もう我慢できないのよ」
おいおい。丸聞こえだぞ。痴話喧嘩なら他所でやってくれ。
私は内心でイラつきながら、できあがったハイライフをマイの元に差し出した。
「ギムレットを」
リョウジは私を見ようともせず、追加を求めた。
私はしぶしぶ頷いた。疲れていたので早く帰りたいが、ボスには逆らえない。
ギムレットはチャンドラーの「長いお別れ」で有名だが、花言葉ならぬ、カクテル言葉として「遠い人を想う」という意味を持つ。
リョウジは母国に妻と子供を残してきている。
つまり、このシチュエーションでのギムレットは、妻と子供を思い続けているから、君とはお別れだよと暗に示したと受け取ることができないでもない。
もっとも、これは私の勝手な解釈で、リョウジとマイがそういう関係だったということすら、今始めて気がついたのだから。
マイはリョウジをにらみつけながら、ハイライフを舐めるように味わっていた。
「お待たせしました」
ギムレットを差し出すと、何か言いかけていたマイが口を噤んだ。
人の話を聞くなというんだろ? わかってるって。聞きたくもないしな。
ちょうど、他の客が会計となったため、私は自然にその場から離れることができた。
「もうやり直せないのかい?」
「無理。もうそんな気はないの」
声が大きい。会計中の客が呆気にとられているじゃないか。
苦虫を噛み潰したような顔をしていたに違いない私は、どうにか平静を保ち、客を見送りながら外に出た。
夜気は冷たかったが、心地いいぐらいだった。
やせ細った街路樹の葉が心細げに風にゆれ、月明かりを浴びてちらちらときらめいている。
街全体がしんと静かだった。
確かにかつての活気は失われている。
マイが街を出て行くというのも致し方ないことにも思えた。
「もう一杯!」
閉店の看板を出し店内に戻ると、マイがぶっきらぼうにグラスをこちらに向けてきた。リョウジがとなりで鼻白んでいるのが明らかで、それが私には滑稽に思えた。手を眉間に当て、拝んできたので私はわざとらしくため息をつきカウンター内に入った。
「ほんとうに最後ですよ」
マイは酒には強く、悪酔いしたことなどなかったはずだが、この街での最後の夜だとなるとさすがにセンチメンタルになったのだろう。
しかたがないか。
私は半ば早く帰るのをあきらめ、ハイライフの準備にとりかかった。
「あ、ちがうのにする」
私は思わずシェイカーをカウンターに強く置いた。
場の空気が一瞬だけ気まずくなった。
マイはいつもこうだ。唐突に、そして人のことなど考えずに一方的に変更したりする気まぐれな女なのだ。
リョウジはそっぽを向いてしまっている。
「バイオレットフィズ作って」
「珍しいね」
「今日だけよ」
バイオレットフィズは、クレムドバイオレットとレモンジュース、砂糖適量をシェイクし、後からソーダを注いでできあがりだ。
「おまたせ」
マイは微笑んで私からグラスを受け取り、気どった仕草でコリンズグラスを傾けた。
リョウジが心配そうに尋ねた。
「で、新しい仕事の当てはあるのかい?」
「ううん。一応わたしダンサーだからさ。ツテを頼って売り込みに歩くつもりなんだけど……」
もっと若ければな。私は心の中で毒づいた。もっと現実をみろよ。場末にまで流れて身をくずすことはないではないか。
マイは突然立ち上がった。
「そろそろ行くわ。今までお世話になったね。ありがとう」
「おい。ほんとに行くのか?」
リョウジが止めるのも聞かず、マイは帰り支度を始める。カウンターの上に料金をおき、私には目もくれずドアに向かって歩いていく。
私はそんな二人にかまわず、グラスを磨いていた。
と、不意にマイは振り返った。
「ねえ! わたし、平気だから! 根が楽天家だからさ、心配要らないからね! 元気でやってよ!」
リョウジは、軽く手を上げてそれに応えた。
マイの残していったバイオレットフィズを流しに捨てながら、私は心に痛みを感じていた。排水口に流れていく紫色の液体が繰りなす模様を見て、ある種の幻惑にとらえられていた。
マイは以前このカクテルが嫌いだといっていた。スミレのような香りが苦手なのだと。
いつもハイライフを好んでいたマイ。
「わたしはあなたにふさわしい」というカクテル言葉のハイライフ。
そして……思い出した。
バイオレットフィズのカクテル言葉。
「わたしを忘れないで」
「ほら。意地張ってないで。追いかけたらどうだ?」
リョウジがカウンター越しに声をかけてきた。
「でも」
「俺、君らの世界よくわかんないけどさ、もう少し自分に正直になったっていいと思うよ」
「リョウジ……」
「さ。早く。マイが行っちまうぞ」
「あ、ありがとう」
涙が目の奥から熱く湧き上がってきた。あなたとマイを疑ったりなんかして、ごめんなさい。
「店の片付けは俺がやっておく。今日はそのまま家に帰っていいぞ。リンダ」
※
マイは店の外で十分だけ待つことに決めていた。
同性であるリンダと結婚するために、二人でフィリピンに居住を決め、クロカワの世話になったりもした。
永住権も欲しかったため、マイはマレーシアを、リンダも故郷のカナダを捨ててきたのだった。
ドアが閉まる音が聞こえた。
こつこつと階段を上ってくる音。
リンダだ。
マイの胸は高鳴った。
自然と足が前に進んだ。
目が合うと、互いに顔をくしゃくしゃにして、軽く肩や胸を叩き合った。
マイは思い出す。
子供の頃、よくいじめにあった。いつもかばってくれたのが正義感の強いリンダだった。
その日も、マイは学校で同級生たちにいじめられ泣いていた。
普段ならリンダが助けに来てくれるのに、その日に限っては現れなかった。
ひとり校庭の隅で泣いていると、両親とともに歩いていたリンダを見つけた。
後から知ったことだったが、両親の仕事の都合で転校することになり、その手続きをしていたのだそうだ。
マイが泣いているのを発見したリンダは、両親の手を振り切ってマイの元に駆けて来てくれた。
しかし、マイの方がもっと早くリンダをめざして走っていたのだった。
大声で泣きながら、追いかけていきアスファルトの道の上で派手に転んだ。痛くて痛くてしょうがなかったが、すばやく起き上がりリンダにぶつかっていった。
抱きとめてくれたリンダの身体は暖かく、柔らかく、マイを包んでくれた。そしてリンダは一生懸命慰めてくれた。
「マイ。ごめんね。私、今日であなたとさよならしなくちゃいけないの」
このときの……たぶん、マイ以上にくしゃくしゃになったリンダの顔は、時を経た今も目の前にあった。
「飲みなおす?」
「うん」
仕事がうまく行かないとか、なかなか同性婚が認められないとか、浮気をしているのでは? などのお互いに燻ぶっていたわだかまりは消え去っていた。
大切なのは、好きな人と一緒にいることに尽きるのだから。
二人して身体を寄せ合い、店に戻るとクロカワが気を利かせてくれたのかカクテルをふたつ用意してくれていた。
「あなたって、ほんとうに優しいのね」
リンダが感謝を述べると、クロカワはコートを羽織りながら言った。
「俺がシェイクしたから、味の保証はしないぞ」
マイとリンダはグラスを手にとった。彼の背中を見送りながら軽くグラスを合わせた。
ハイライフはまあまあのできだった。リンダが作ったものと比べるのは野暮だ。
二人は額をくっつけて微笑んだ。
「マイ。ハイライフのカクテル言葉覚えてるよね?」
「同時に言おうよ」
「せーの!」
「わたしはあなたにふさわしい」
ミラクリエ トップ作品閲覧・電子出版・販売・会員メニュー