「しょっぱくないの?」
明子は思わず顔をしかめた。
キラキラと照明の下で輝く、つぶつぶのイクラ。この店の看板メニューだというだけあって、とても美しくて美味しそうなイクラ丼。
自分もやっぱりそっちを頼めば良かったかなあ、と見つめる明子の前で。
武史はその芸術的とすら呼べそうなイクラ丼に、ドボドボと醤油をかけたのだ。鉄火丼を食べる明子よりもずっと大量に。
「別に。しょっぱくない」
そう言ってイクラ丼を勢いよく掻き込む武史に、明子はため息をついた。
「そんなに醤油かけたら、体に悪いよ」
「好きなように食って何が悪いんだよ」
「それに、元の味がわからなくなっちゃうし」
「うるせーな。お前は俺のおふくろかよ」
不機嫌になってしまった武史。これ以上は何を言っても怒らせるだけだろう。
沈黙が続く。
せっかくの美味しいランチなのに、味もよくわからなくなってしまった。久々のデートだというのに。
互いに無言のまま店を出た。
車の助手席に乗り込むと、明子はもう一つため息をついた。
「何だよ、いつまでも」
武史がチッと舌打ちしてアクセルを踏んだ。
景色が後ろへと流れていく。
何処へ行くとも聞かずにただ前を向いてハンドルを握る武史。明子も、何も言わなかった。本当は一緒に行きたい場所があったのに。
ランチのお店だって、明子がリサーチして決めたのだ。デートコースはいつも明子任せだった。
こんなはずじゃなかったのに。明子は武史の横顔をそっと見た。
今日、自分はハッキリさせるはずだったのだ。三年続くこの関係。来週の誕生日には自分も28歳になる。そろそろ、いいだろう。
明子はクルクルと自分の髪をいじりながら、BGMを聴くともなしに聴いていた。一昔前に流行った失恋ソング。すごく美しくて、とても切ない曲。
車が止まって顔を上げると、そこは明子のアパートの前だった。
「え?」
明子は小さく呟いた。もしかして今日のデートはもう終わりということなのだろうか。やっと久しぶりに会えたのに。
「今日はもう帰れ」
武史に冷たく言われ、明子はすがるように震える声で言った。
「話があるの。うち、上がって」
それすら拒否されれば、もう私たちは終わりだ。明子は眩暈がしそうだった。
「わかった。じゃ、車置いてくる」
そう言われても、明子は動かない。
「パーキングまで一緒に行く」
「…」
武史は無言のまま車をUターンさせた。近くのコインパーキングへと向かう。
もう、後戻りできない。覚悟を決めよう。明子はギュッと目を閉じた。
パーキングに着き、車を降りる。さっさと行こうとする武史の横に小走りで並んだ。手を繋げるような雰囲気ではなかったが、かろうじて武史の袖をちょこんと掴んだ。振り払われなかったことに、明子は心底ほっとした。
「おじゃまします」
「どうぞ」
部屋に上がって武史はきょとんとした。見慣れているはずの部屋なのに、何か違和感がある。どこかが違う。何かが違う。幾度となく訪れている場所。武史はキョロキョロと見回した。
違和感の正体に気づくと、武史は首をかしげた。
「お前、料理なんてしたっけ?」
キッチン周りがずいぶんと変わっているのだ。道具も食器もこんなに揃っていなかったはずだし、調味料など並んでいただろうか。
記憶の中で明子が料理する姿は、印象に残っていない。たぶん、電気ケトルからお湯を注ぐくらいだったはずだ。
「えーっと」
言いよどむ明子を、武史が訝しげに見る。
「あのね。最近、料理教室に通ってるんだ」
明子は観念したように頷いてから、照れくさそうに答えた。週に二度、仕事が終わってから教室に通っているという。調理器具も少しお金を掛けて、長く使える物を揃えた。料理が楽しくなると、食器にも興味が出てきた。
なぜ、それが言いにくいことなのだろうか。武史は何かおかしいと感じていた。明子は、何か大事なことを隠しているのではないか。
「ふーん。それで最近忙しそうだったのか」
何回か続けて誘いを断られていた。今日の約束はやっと取り付けたのだ。武史だって、嬉しかったのに。なぜか険悪なムードになってしまった。
「ごめん」
「そうならそうと言ってくれれば良かったのに」
「うん。ごめん。でもね、もう少し内緒にしておきたかったの」
「何でだよ」
武史の声に不機嫌さが戻る。
「だから…その…もっと上手くなってから、料理を振舞いたかったの」
うつむいて言う明子に、武史の口元が緩む。かわいいところがあるじゃないか。自分のために内緒で料理を習っていたなんて、そう言われれば悪い気はしない。
「あのね。だからね」
「ん?」
出来るだけ優しく返事をした。もう怒るのはやめようと。
「私ね、せっかく作った料理に醤油をドボドボかけられたら、悲しいと思うの」
「!」
武史は今日一番の怖い顔をした。許そうと思ったのに。
「またその話蒸し返すのかよ!」
声を荒げた武史の腕に、明子がしがみついた。
「ちがうの。そうじゃないの。あなたにはずっと健康でいてほしいし、あなたの為に食事を用意する幸せを壊したくないの。幸せな気分で料理して幸せな気分であなたの帰りを待っているのに、あんな風に喧嘩してしまうなんて、悲しいの」
「…?え?」
武史がきょとんと見返す。
「だからね。私、頑張ってお料理勉強するから。あなたに気に入ってもらえるように、努力するから。だから」
明子がしがみつく手に力を入れた。
「…」
「だからね。私と、結婚してください」
「!」
言えた。これでダメなら、もう、仕方ない。明子はバクバクと痛いほどに脈打つ心臓を強く抑えた。
武史は怒ったような顔で何かを考えている。
うつむいて沈黙を噛みしめる。何も言ってくれないのは、ダメだということなのだろうか。どう断ったらいいか思案しているのだろうか。明子は唇を噛みしめて恐る恐る顔を上げた。
「武史?」
上ずった声で明子が声を掛ける。
「ったく、お前ってやつはバカなんだから」
そう言いながら、いきなりガバっと抱き締められた。力強い腕の中にすっぽりと収まる。大好きな武史のにおい。明子は深呼吸した。
「ホントしょうがねえなあ。そいういうのは、俺からちゃんと言いたかったのに。っていうか、来週ちゃんと言うつもりで準備してたのに」
「え?」
「チクショウ。誕生日にちゃんと指輪渡して言うつもりだったんだよ。ったく。こんなこと言うの恥ずかしいじゃねえか。予定変わっちまったけど。改めて俺からプロポーズさせてくれ。明子、俺と結婚してくれ」
「!」
武史の胸に顔をうずめる明子。Tシャツを固く握り締めて下を向いている。早く返事を、と思うのに、声が出ない。
聞かれなくても返事は決まっている。イエス。それしかない。でも、声よりも先に漏れ出た嗚咽が、言わなくてはいけない言葉を言わせてくれない。
「ほら、返事は?」
明子は顎をグイと押し上げられ、無理やり上を向かされた。
目の前には、まっすぐ自分を見つめる武史の澄んだ瞳。その中に映る、自分の姿。
「はい。うぐっ。よろしくお願いっしまっす」
何ともかっこ悪い返事になった。決意して自分からプロポーズしたはずだったのに、もう、顔も声も頭の中もグチャグチャだ。
明子の頬につたう涙のつぶが、キラキラと照明の下で輝いた。
「しょっぱい」
涙が口に入ったと笑う明子に、武史はそっと唇を重ねた。
「ホントだ。しょっぺえな」
あはははは、二人は顔を見合わせて笑い、それから深い深い口づけを何度も交わした。
きっと喧嘩もいっぱいするだろう。辛いことも悲しいこともあるだろう。でも、最後にはこうやって一緒に笑えたらいいな。そう思う。
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