「あら、旦那様、そんな事なさらないで下さいまし……」
 月が雲に隠されてしまっている夜道を歩いていると、狭い小路からそんな声が聞こえて来た。
 まだあどけない少女の声だ。鈴を転がす様なとても綺麗な声だ。
 私は何故かギョッとしてその場に立ち竦み、声の聞こえて来た暗い小路の方を凝視した。
 すると闇の中から、今度は爽やかな男の声が聞こえて来た。
「鈴、良いではないか。お前と私との仲だろう。ほら、もっと此方に来なさい」
 きっと、旦那の声なのだろう。それにしても若々しい。声の質が元からそうなのか、それとも本当にまだ二十代、三十代の若者なのか。
 私は一瞬迷ったが、直ぐに後者の方だろうと考えた。
 どれ程声が若かろうと歳を経れば声は掠れてしまう。だが、今の声はどうだ。まだ若い生気が漲ったあの声。とても中年の男が出せるとは思えなかった。
 真後ろの車道を車が一台通り、その灯りがほんの一瞬だけ小路のそう広くない範囲を照らした。
 すると、その灯りに照らされて真赤な緋色の着物の端がチラリと闇に浮かんだ、様な気がした。
 ハッと思ってもう一度確かめようと目を凝らした時には、車は既に通り過ぎていた。勿論、着物の端も見えはしない。
「あら、灯り」
 少女の声が不安気に響く。
「何、気にするな。どうせ向こうには見えていないよ」
 旦那の方が優しく少女を宥める。
「本当かしら」
「ああ、本当だとも。今どきの人間は注意力が散漫だからね。私達の事等、誰も気に留めてなどいないさ」
 旦那の言葉の中に、一抹の寂しさを嗅ぎ取ったのは、私の気のせいだったのだろうか。
 それと同時に、私は自分と左程距離が離れていないであろう闇の中に居る男女二人が、私の存在に全く気付いていない事に思い至り、妙な気分になった。
 別に盗み聞きをしているつもりはなかったのだが、相手が気付いていないとなればこれはもう盗み聞き以外の何者でもない。
 しかし、止めようとも思わなかった。
 もしも仮に、自分が今からまた歩き始めたとしたら、向こうはきっとこちらの存在に感づくだろう。だとしたら、当然相手は自分達が盗み聞きされていると感じる事だろう。そうなったら、これはこれでまた体裁が悪い。
 それよりも、二人の逢引が終るまでこうして立ち止っていた方が良いだろう。そうして、相手が此方へやって来るか、それとも更に奥の闇の方へと移動し始めたら、素早く移動すれば良いのではなかろうか。
 そんな、とても不条理かつ奇妙な理論を組み立てて、私は自分の行動を正当化しようと努めた。
 何の事はない、この若い男女の逢引の内容に少しばかりの興味を覚えただけである。下世話もここに極まれり、とでも言うべきか。
 私はそこでゆっくりと首を左右に動かして辺りを見た。
 幸い、見える範囲に人影は無かった。
 本当は真後ろも確認したかったのだが、それをすると流石に二人に気付かれる様な気がしたので止した。
 まあ、時刻は既に午前二時。この時間帯にこの場所をうろうろしている物好きなど殆ど居ないだろう。もしも誰かがやって来たのなら、その時はその時だ。
 そう腹を括って、私はまた目の前の闇の中に居る筈の男女の会話に耳を傾けた。
「うふふ、それにしても楽しい夜ですわ」
 少女の方がそう言った。
「何が楽しいんだい?」
 こちらは旦那の声である。
「あら、何をおっしゃっているのです? 旦那様とこうして再びお会いする事が出来たのが、それ、何より楽しい事ではないですか」
「そんな事を言って……。何時も夜には会っているではないか。勿論、世間的には許されない仲だが、夜のこの場所であれば誰にも見つかりはしないよ」
「ふふふ、そんな事を言いながらまた変な所をお触りになる」
「ああ、触ってやるとも。好きなだけ触れてやるとも」
「ああ、旦那様……」
 そこで少女が旦那の方にしなだれかかる気配がした。
 その後に二人は押し黙ってしまった。
 きっと、口づけでもしているのだろう。
 私はそう考えた。
 しかし、その沈黙が余りに長く続くので、私は次第にジリジリしはじめた。
 一体いつまで口づけをしているつもりだろう。
 私であればとっくに窒息しているだろうに。
 そんな事をつらつら考えていると、また背後を車が通り過ぎるのが判った。
 そしてまた、灯りがそう広くない部分を照らした。勿論、小路の一部も照らされた。
 そして、二つの青白い男女の顔が目を見開いて此方を睨んでいる姿が闇に浮かび上がり、そして消えた。
 アッと私が叫ぶのと、二つの足音が小路を走って遠くへと消えて行くのは丁度同じ時だった。
「あ、待ってくれ!」
 私はもう一度叫ぶと、小路の中へと走って行った。
 一言だけ弁明がしたかったのだ。
 このまま逃げられては余りに体裁が悪すぎる。
 しかし、小路に入ったのは良いのだが、二人の足は予想以上に早く、中々追いつけない。私の耳には、二人の微かな足音が聞こえるばかりだ。
 灯り一つ無い、完全な闇の中を、見えない相手を追って私は必死に走って行った。
 無茶苦茶に走っている筈なのだが、障害物には何も当たらずに走る事が出来るのが不思議と言えば不思議であった。
 一体、この小路は何処まで続くのだろうか。
 走り始めてから数分して、私の脳裏をそんな考えが過った。
 しかし、足音はまだしている。
 どうやら、この小路に曲がり角は無いらしく、男女も必死になって真直ぐ逃げている様だった。
「ま、待ってくれ。誤解だ、これは誤解なんだ!」
 私は息切れしつつ叫んだ。
 しかし、声がはっきりと出ず、奇妙な溜息の様な音が漏れるだけだった。
 そうこうする内に、二人の足音がパタリと止んだ。
 それは余りに急だった。まるで、今まで前を走っていた人間が突然跡形も無く消え失せてしまった様な状態だったのだ。
 おや、と私が訝しみながら尚も走っていると、突然鼻に何かが思い切り当たった。
 私は衝撃でもんどり打ってしまい、その場にひっくり返ってしまった。
 鼻の辺りがジーンと痛む。
 もしや鼻血でも出たかと思い慌てて手で触れてみたが、その気配は無い。
 そこでホッとして立ち上がった。
 鼻も痛かったが、腰もいやに痛かった。
「一体、何がどうしたんだ……」
 私はぼやきながら、フッと前を見た。
 私が前方を見るのと同時に、先程まで雲で隠されていた月が現れたのだろう、さっと光が差して、白い石碑を映し出した。
 石碑には文字が刻まれており、それがキラキラと不思議な光を放っていた。
「八坂勝馬と美祢鈴の心中場所」
 石碑にはそんな文字が書かれていた。
 その内容を理解して、私はゾッとした。腕に触ると鳥肌が立っていた。
「これは……」
 私が恐怖の余り放心していると、サッと真後ろに気配がした。
「旦那様、この男で御座いますよ」
 それは、先程の少女の声だった。
 唯、先程とは打って変って、とても冷たい声だった。
「ああ、そうだな」
 今度は旦那の声だ。
 こちらも先程とは全く違い、冷ややかな調子だった。
 私は振り向こうと思ったのだが、石碑の文字に視線が釘付けになっていて、身体も動かす事が出来なかった。
「す、済まない……。別に、邪魔をするつもりは無かったんだ、あんたらの邪魔をするつもりは……」
「言い訳無用」
 少女がぴしゃりと言った。
 途端に、月の光が少しずつ薄くなり始めた。
 恐らく、また雲が月を隠しているのだろう。
「そうだな。私達、死者の逢引を見られたからには、生きて帰す訳には行かないんだ」
 旦那がそう言って、私の肩に触れた。
 光はもう殆ど尽きかけようとしていた。
「ゆ、許してくれ、本当に誤解なんだ……」
 私は念仏を唱えるかの様にして、そんな言葉を繰り返した。
「ふふふ、怖がっているの? なら、最初から盗み聞きなどしなければ良かったのに」
「全く、馬鹿な奴だ」
「さっさと通り過ぎれば良かったのよ」
「ああ、全くだな」
 二人の死霊はそう言って笑った。
 とても楽しそうな声だった。
「まあ良い、逢引を見られたからには、一緒に来て貰おうか」
「え、何処へ?」
 私がそう言ったのと同時に、月の光は完全に消え、辺りはまた真の暗闇に包まれた。
 旦那の方が方にかけた手の力を強めた。
「何処へ?」
 旦那はそう言って鼻で笑った。
「決まっているではないか。お前はこれから」
「地獄に堕ちるのよ」
 少女がそう言ったのと同時に、私の意識はふっつりと切れて、もう何も判らなくなってしまった……。

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