ピエロの表情


「私、ピエロになりたかったな」

 かずみは、そう。一言漏らした。
 僕はそれを聴き流す。一拍遅れて、僕は目線をかずみの方へやった。
「ピエロなんかになって、どうするのさ。風船でも配るの?」
 僕のとんちんかんな問いかけに、かずみは笑う。
「あはは、それもいいけどね。そうじゃないよ、翔。そうじゃないの――私ね、ピエロみたいな、強い心を持っていたかった」
「ふぅん……。ピエロの心が強い、なんて初耳だけど」
 僕は、ありきたりなピエロの顔を思い出す。
 真っ赤に裂けた口、右目には黄色い星の模様。左目の下には青い涙が一滴。それらが、白塗りの顔の上に描かれている。そして愉快極まりない、間抜けな赤鼻が付けられている、というのがピエロの定番だろう。
「ピエロはね。実は泣いているんだよ」
「どう見たって、愉快に笑って涙を流しているようにしか見えないけれど」
「そう。でもそれは、強がっているだけ。本当は、泣いているんだ」
「何がそんなに悲しいんだろう」
 かずみは、屋上の風に吹かれながら、サンダルを足にひっかけて遊んでいる。
 屋上。
 田舎町の一角に立つ、このビルの屋上は僕たちの縄張りだった。
 どうせ死ぬのなら、畳の上じゃなくこの屋上から二人一緒に飛び降りてしまいたいね、なんて。馬鹿らしい話を、一緒にしたりもした。
「わからない。なんだったっけ。でも、悲しいんだよ。もしかしたら、わけもなく。それなのに、ああやって笑顔のお化粧で隠して、笑ってみせるんだよ」
 僕はまだ、その話をうまく理解できなかった。
 ああ、そうだ。あの頃は幼かったんだ。
 今だって、大人だとは言い難い。――まだ、その話を理解していないのだから。
 ひとり、教室に残ってぼうっと、そんなことを考えていた。
 初夏の、風。
 カーテンを翻し、夕焼けの寂しさを教室の中まで運んでくる。
 帰り支度なんて、とっくに済んでいる。
 でも、家に帰るのが億劫だった。
 億劫、というよりは。帰りたくない理由が明確にあり、それを避けるために帰りたくない、と言った方が正しい。
 
 帰りたくない理由。
 かずみが、あの部屋に、いない。

 僕とかずみは、幼馴染。
 とある団地の、地主の娘と入居人の息子として出会った。
 僕たちはとにかく、家族ぐるみの付き合いで、どっちの家族がどっちのもの、という意識をあまり持たずに育った。
 だから、僕たちは当然ずっと一緒に暮らしてきたし、当然、このままずっと一緒なのだと思った。思っていた。
 けれど、かずみは。
 あっけないくらい簡単に、あの部屋からいなくなってしまった。
 かずみが今いるのは、僕たちの住む団地から少し離れたところにある総合病院だ。
 かずみは十五歳のときに、白血病にかかった。
 ドナーが見つかれば助かる病気ではあるのだが、かずみの血液型は特殊らしく、見つかる希望はかなり低いとされていた。
 そして、感染症にもかかっていた。
 肺炎だ。それだけを聞けば、別段大したことはない病気のように思えるが、白血病患者にとっては命に関わる重大な病気なのだ。

 田舎者の感覚でいうところの少し、は、都会の人にすればだいぶ遠くにあるらしい。
 けれどかずみに会うためなら二百六十円のバス代は安く思えた。
 今日も、かずみに会うためにバスに乗って総合病院へ――昨日までは、そう思っていた。
 昨日、までは。
 昨日の、あの話をされるまでは。


「ねえ、翔。私ね……好きな人が、いるんだ」


 え。

 力の抜けた声が僕の口から洩れる。
 皮を剥いてあげようと、手にした林檎が床を転がった。
「誰だか、わかる?」
「わから、ない」
「それはね……」
 かずみは、おいでおいで、と手を動かして僕を引き寄せた。
 かずみが僕に耳打ちをする形になる。
 かずみの吐息を聞くように、耳を澄ます。
 ああ、僕の初恋は告白すらしないままに、終わるのだ。残念とか後悔とかは、とっくに通り過ぎている。
 あるのは、切なさを含んだ絶望。
 残酷な言葉を、脳に染み渡らせよう。そう覚悟したときだった。

「笹平さーん、体温計りますねー」

 静かだった病室に、やけに明るい声を出して看護婦が入ってきた。
「えっあ、はい!」
 僕もかずみも驚いて、思わず離れる。
 心なしか、かずみの顔が赤い気がした。
 体温計測、ということは面会時間の終了を意味する。
 僕は看護婦に追い出され、かずみの好きなひと、というのが誰なのかわからないままに眠りについた。

 そして、時間経過。
 僕はまだ教室でぼうっとしていた。
 かずみの言葉なんて、聞きたくない。そうとまで思っていた。
 
 ざぁ――

 風が吹き、カーテンが揺れる。

「かずみ」

 僕の言葉は、風の立てる音にかき消されてしまった。
 その音がおさまった瞬間、携帯電話の着信音が鳴り響く。
 画面を見ると、かずみの母親からのメールだった。
『かずみが、危篤の状態だと病院から連絡がありました。翔くんに会いたがっているらしいので、できるだけ早く病院まで行ってください』
 それだけの、簡素なメール。
 意味を理解した瞬間、僕は鞄をひっかけて走り出した。
 階段を駆け下り、靴をつっかけて校庭を横切る。
 僕の通う高校は、かずみの入院している病院からほど近い。
 だが、やはり田舎の「近い」は案外遠く、病院まで走り切った僕は過呼吸を起こしそうなほど息切れしていた。
 でも、休んでいる暇はない。エレベーターに乗り込んで、かずみのいる病室に向かう。
 手洗いと消毒を済ませて、マスクをかける。そのすべての行為が、まどろっこしかった。
「かずみ!」
 病室のドアを開けると、かずみは管だらけで。
 酸素を送るマスクをかけられ。
 ひとりで、そこにいた。
「翔……」
 ぼんやりと、かずみは目を開ける。
「きて、くれたんだね」
 僕はかずみの手を取って、頷く。
「ああ、よかった。間に合わないかと思っちゃった――私、もう死ぬんだね。なんとなく、わかる」
「馬鹿、そんなわけ」
「あるよ。私の体だもん、それくらいわかっちゃうよ」
「……助から、ないのか」
「たぶん、ね」
 かずみは、僕に握られている方の手に力を入れる。
 それはとても弱々しくて。
 ああ、かずみはいなくなってしまうんだ。
 そう実感させるのには十分だった。
「私ね、翔に言わなきゃならないことがあるんだ。」
「何?」

「翔のことが――好き。大好き」

 え。

 僕の口からは、昨日と同じように力の抜けた声が漏れた。
「ふふ、伝えられてよかった。伝えられないまま死んじゃったら、すごく悲しいから」
「僕、は。僕も、かずみが、好きだ」
 僕の声に、嗚咽が混じる。
 ずっと言えなかった。照れくさくて、どうも言えなかった。
「じゃあ、そろそろ。ばいばいだね」
 そんな。僕はまだ。まだかずみと重ねたい時間がたくさんあるのに。
「翔……キスして」
 かずみは、酸素マスクを外す。僕もマスクを外して、かずみにキスをした。
 かずみとのキスは二回目。
 幼いころに、一回。
 そして、今。
 そっと離れ、しばし見つめあう。
「あはは、なんだか照れくさい」
 そうやって笑うかずみにつられて、僕も笑った。
「泣きながら笑うなんて、ピエロみたいよ」
「っ、はは、そうだな」
 僕は袖口で顔を拭った。
「うん……ね、翔。もしまた会えたら、今みたいにキスしてね」
「ああ、約束だ」
「あぁ。私、幸せだ……しょ、う……すき」
「かずみ」
 ぎゅっと、僕はかずみの手を握り締める。
 けれど、かずみの手からはどんどんと力が抜けていく。
 ゆっくりと、瞼が落ちていく。
 もう、何もできなかった。
 心音計が、長い音を立てた後に黙り込む。
 
 僕は、ピエロにはなれないだろう。
 だって、悲しいことは、悲しい。
 それを抑え込んで笑うなんて、できっこない。

 かずみの、薄く笑ったような顔の瞼の下には、透明な雫が落ちていた。

【終】

金森玲
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金森玲

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