人畜無害。そんなイオは俺の姉だ。席は左後ろの角。
 黒髪のストレートで、少し古臭い清純派の印象。肉付きがよく、全体的にあたたかみが感じられる。他にやることもないからと、大概、教室では本を読んでいる。そのことは無視の口実として周囲から重宝された。
「集中しているときに声を掛けるのも悪いから……」
 だから誰も、彼女を無視することに特別な抵抗を抱くことはない。
 イオは留年を二回している。一年目は事故で怪我を負い、休学。それがキッカケで今度は不登校に陥り、余計な一年を棒に振った。今年でダメなら中退してフリーターにでもなると、両親と話していたのを知っている。
 馬鹿ではなく、容姿も整っていたから、イオが苛められることはなかった。それが幸いだったか不幸だったかは分からない。無関心は攻撃よりも辛いと言う話もある。
 学校では一目置かれつつも孤独。そのくせ家では優等生。両親の愚痴を文句も言わず聞き続け、頼んでもいないのに俺の身の回りの世話をしようとして、俺に怒鳴られて謝る。家事はできる限りはイオがやっていた。日によっては母より忙しそうだった。……それは、自堕落な二年間の罪滅ぼしだったのかもしれない。
 そうして誰に対しても無害な一日を終えると、自室で毎晩泣き崩れる。その声は決して大きくはなかったが、薄い壁を越えて、俺の耳にも届いていた。

 救ってやりたいと思わなかったわけじゃない。だが、俺も自分のことで精一杯だった。
 クラスに実姉がいて、しかも孤立している。俺の立場も少なからず微妙なところだった。あまりに放っておいたら周囲から「冷たい弟」と思われそうだったので、花に水をやるみたいにときどき話し掛ける。イオは一瞬だけ天に召されそうな笑みを浮かべるが、すぐに周囲を気にして控えめな笑い方に切り替える。
「私のことは気にしないで。平気だから。お友達と一緒にいていいんだよ?」
 平気、という言葉が出てくる時点で平気ではない。だが俺はその言葉に甘え、友人の元へと戻った。姉と二人ぼっちの青春だけは絶対に避けたかった。
「にしても、いいよな」
 友達が言う。
「何がだよ」
「家にあんなねーちゃんいたら、毎日楽しいだろう」
「……どうだろうな」
 答えは濁した。
 気は、遣われるほうも案外疲れるものだ。



 家に帰る。イオはまだ戻ってきていない。
 イオはいつも、帰りに雑貨屋やタピオカ専門店に寄る。家と学校以外の居場所を作ろうとしているのかもしれない。だが、雑貨屋のお姉さんもタピオカ専門店のオバチャンも、イオのことを「いい子」と言う。イオが「いい子」を脱するのは、一人で泣いているときだけだ。俺だけがそれを知っている。何だか俺まで重たい何かを背負わされるみたいだった。
「ただいまー」
 明るい調子でイオが言う。無理した笑い。俺以外は気付かない。
「お帰り、お姉ちゃん」
「ただいま。今日は友達とタピオカ飲んで帰ったんだ」
「ふーん?」
「よく行くから、お店の人に顔を覚えられちゃった。……最近、楽しいんだ」
「そう、良かった。安心したわ」
 母親は安堵の顔を見せる。
 うちの両親は子供を信じている。だから、どんな詐欺にも宗教にも引っ掛かったことのない親が、こんな嘘に簡単に騙されてしまう。
 学校生活は事件じゃない。安心なんかできない。
 イオは俺に微笑みかけた。
「シュウ、お姉ちゃん大丈夫だから……ね?」
 その言葉が、既に大丈夫じゃない。



 ある日のこと。
 俺より少し遅れて家に帰ってきたイオは笑っていた。
「ただいまー! ふふふふふ」
 明るくて気味が悪かった。いつもの無理した笑いでない、素の笑顔。ときどきクスクス笑いながら、自室へと消えた。
「お姉ちゃん、ゴキゲンだったね」
 母が言う。嘘には鈍感だが変化には敏感らしい。かくいう俺も大差ない。何となく落ち着かず、今日一日のイオの様子を振り返る。
 教室でのイオはどうだっただろうか。普段どおり、誰とも話さず本を読んでいたはずだ。雑貨屋やタピオカ専門店に寄った? だとしても、あんなジャンキーみたいなことにはならない。
 その日は終始ゴキゲンだった。夜泣くこともない。死ぬんじゃないかと心配になって、十一時頃にドアをノックする。
「姉ちゃん」
「あれ? どうしたの?」
「……こっちのセリフだっつの」
「今ね、お姉ちゃん初めてスマホで『いんたあねっと』してるんだよー。面白いねぇ、これ。そういえば久々に携帯触ったなぁー」
 姉は機械音痴だった。流石にインターネットに今まで繋いだことがなかったとは思わなかったが。
「……技術の授業とかで使わなかったか? インターネット。調べ物とか」
「え? あれも『いんたあねっと』なの?」
「姉ちゃんにとってのインターネットが何なのか分かんないよ」
 イオは俺に画面を見せた。某呟きサイト。
「面白いんだよ、これ。呟く呟くって『いんたあねっと』のことだったんだねぇ」
「言っとくけど、それインターネットのほんの一部だからな」
「どういうこと?」
「どうって……」
 この姉にその仕組みを伝えるには、俺の語彙では難しい。
「……まあ、あれだ。あんまりハマり過ぎるなよ」
 何故明るかったか。その疑問が解消できたところで、俺はイオの部屋を後にした。

 後になって思う。本当に不思議に思うべきは、姉がインターネットに繋いだ経験がなかったことよりも、何故あの日、急に呟きサイトにアクセスする気になったのか……ではなかったか。
 次の日からも、イオは今までどおり本を読んでいた。芥川の『河童』。精神状態が少し心配になった。変わった様子は見られなかった。学校でも、家でも。
 泣くことがなくなった。それくらいだ。



「街に行こうよ!」
 数日後の土曜、唐突にイオが言った。手には通帳が握られていた。お年玉で毎年一回だけ潤う、使用頻度の少ない口座の通帳。
「何で?」
「お姉ちゃんね、オンラインゲームがやりたいの」
「……あのさ、今の姉ちゃんはあんまりネットで出会いを求めないほうが良い。現実に戻って来れなくなるぞ、色んな意味で」
「違う、そうじゃないんだよ。あのね、実はお姉ちゃん、友達ができたの」
「ずっと本から目が離せないくせに?」
 俺が疑って掛かったことがショックだったのか、イオはちょっと泣きそうな顔をした。本当に泣きはしない。ちょっと表情に出やすいだけだ。
「あの、シュウがお姉ちゃんの部屋に入ってきた日、覚えてる?」
「エドモンドみたいな発音で『いんたあねっと』って言ってたときだろ」
「うん、まあ、そうだね……。あの日の帰り道、タピオカのお店の前にうちの学校の女の子がいてね。一年生の須上さんっていうんだけど、話し掛けられて……」
「須上? ああ」
 同級生に一人、その苗字の男がいる。年子だと言っていたから、多分、その妹だろう。
「その子もあんまり友達いないみたいで、……いないみたいなんだけど、よく喋る子でね? 年上のほうが慣れてるのかな。いんたあねっとのことも教えてくれて、アドレスも交換したんだ。それで最近、オンラインゲームしようって誘ってくれたの」
「……俺のノートパソコン貸すよ。それで気に入って、ずっとするようなら考えればいい」
「ホント? いいの?」
「うん」
 十数年コツコツ貯め続けた金をここで使おうというのがイオらしい。親に強請るという道はないのか。罪悪感なんか、いつまでも引きずったってしょうがない。
 その夜、俺はイオの部屋にノートパソコンを持って行った。元は父用だったものだが、買い換えるというので俺が欲しがった。そういう経緯。誰も使っていないときは自由に使えるが、独占することも部屋に持ち帰るのも禁止。ソフトのダウンロードも原則禁止。変なルール。親も割と機械嫌いで機械音痴。
 オンラインゲームをやるならこっそりやりたいという気持ちは、分からないでもなかった。
「そういや不登校してる間、パソコン使ったことは一回もなかったのか?」
 家に一人のときなら、ネットサーフィンし放題じゃないか。
「ウィルスが怖くて、電源付けられなかったの」
「なるほど」
 俺はとりあえずイオのやりたがっているゲームをインストールし、ショートカットをダブルクリックすればゲームが起動することを教えた。
 イオはパソコンを神様みたいに扱った。恐る恐るマウスを握り、優しくキーボードにタッチする。ゲームパッドを買っておいたほうがよかったかもしれない。全操作キーボードは、きっとイオには難しい。
「まあ、いいや。分からないことがあったら聞けよ」
「うん、ありがとう」
 用が済んだので、俺はパソコンのない自室に戻った。「窓」のない部屋では、どうもやることがなくて退屈だった。



 次の日から、イオは昼休みに席を離れるようになった。後輩と一緒に屋上で弁当を食べている姿を見たと、友達から聞いた。その友達は、可愛い二人が随分楽しそうにネトゲの話をしていたことに少しばかりショックを受けていた。
「おれネトゲの女は全部ネカマかブサイクだと思ってたよ」
 また別の日、家に帰ってイオから聞くと、旧友の話をしていたと言う。
「キヨコちゃんって子なんだけど、ユイナちゃんも仲良しなんだってぇ。面白いよねぇ」
「ユイナちゃん? ああ、須上さんのことか」
 ……ともかく、イオには友人ができた。
 須上にイオがどれくらい本音で喋れているのかは分からない。須上にとっても、イオは只の「いい人」なのかもしれない。それでも、少なくとも夜に泣き声が聞こえなくなったことは大きな前進だと思う。
 俺は素直に喜んだ。口には特に出さなかったが。

 ある日、タピオカ専門店の辺りで、うちの制服を着た女子が一人でタピオカを口にしていた。
 俺は彼女が須上だと、半分直感で理解した。判断材料は場所と、あとは特別似ているわけではないが、兄の面影があったからだ。
「美味い? タピオカ」
「……これナタデココです」
 すごい捻くれ者。
「何でわざわざそんなことしてんだよ」
「……私、『みんながタピオカの店でタピオカ飲んでるからわたしもタピオカ買う』ってタイプの人間のこと嫌いなんです。嫌いな人間に、自分がなりたくないっていう……か」
 馬鹿馬鹿しいとは自分でも思っているんだろう。彼女は俺から目を逸し、溜息を吐いた。
「イオ先輩の弟さん、ですよね」
「分かるのか」
「面影あります」
「……そ」
 普通の子だったら、姉が世話になっている礼でも言うつもりだった。が、彼女にはあまり下手なことは言わないほうが良いように思えた。ガラスだ。
 じゃあ、と立ち去ろうとしたところ、
「キッカケは服部先輩……えっと、キヨコさん、です」
 彼女が言った。
「誰それ」
 キヨコ。どこかで聞いたような。
「イオ先輩の元同級生」
 そういや、旧友の話で盛り上がっていたと言っていたな。
「あの人、イオ先輩と会ってやってくれって、私に頼んだんです。偶然を装って、気に入ったら友達になってあげてくれって。……実際気があったから友達になったわけですけど」
 謝罪会見みたいな調子だった。
「つまり、やらせ気味な紹介?」
「あはは。そぅ、ですね」
 須上妹は自嘲にも見える、どこか老けた微笑みを浮かべた。
「『イオは、自分が思ってるほど人に嫌われてなんかないよ』って、服部先輩からの伝言です。服部先輩は約束なんか二分で忘れちゃう人ですから、無理に言わなくてもいいですけどね」



 イオは居場所を見つけた。学年は違うし、年齢はもっと違うし、しかもきっかけはやらせ。それでも友人の隣にいられることは、喜ばしいことだろう。
 めでたしめでたし……と幕を閉じてしまいたいところだが、それはさっさとイオから目を離したいという俺のエゴだ。
 確かにイオは夜に泣かなくなった。しかし代わりに、ネトゲにのめり込んでいった。狭い世界にいたイオにとって、バーチャルの世界はあまりにも広過ぎたのだと思う。
 当初は本人が楽しければそれで良いと思っていた。だが間もなくして、イオは欠席した。いるときは誰も関心を持たなかったくせに消えた途端に話題に上る。世間は勝手で、意外にもどこか捻くれている。
 一度経験があるからか、イオが再び不登校に陥ることはなかった。だがときどき学校を休み、ネトゲに時間を費やすのは変わらなかった。リビングにいる時間も減った。「いい子」を演じる時間も、ネトゲに回された。俺のパソコンは帰って来なくなった。
 仕方なく、俺はメモとペン、テープレコーダー、携帯ゲーム機をよく使うようになった。パソコンの代用品は案外見つかる。インターネットに関係しない用途であればの話だが。
「姉ちゃん」
 ――イオの現実と非現実は逆転している。
 そう思った日の夜、俺はイオの部屋の扉をノックした。
「なーに?」
 扉を開ける。パソコンに齧り付くイオ。タイピングがかなり成長している。画面に向けたその笑顔は、現実世界でのペルソナとは別物。
「シュン?」
「帰ってくるなら、今しかないと思うよ」
「……何言ってるの?」
 俺は答えず、部屋を後にした。『河童』。案外散らかった床にたまたま落ちていたそれを拾って、軽くイオに投げた。ナイスキャッチ。イオは親に置いて行かれた子供みたいに呆然としていた。
 その夜、イオは久しぶりに泣いた。それだけでは飽き足らず、暴れた。しかし何か機械を粉砕するような音の後、暴れる音は消え、泣き声だけが残った。

 現実と非現実の境目にいる人がパニックを起こしているみたいに思えた。
 しかし不思議なことに、俺はそのほうが返って安心できた。



 次の日の朝。リビングにイオの姿はなかった。
「……何かあったの? 昨夜、すごい音がしてたけど」
 母が言った。
「何もないわけないだろ。様子くらい見に行けば良かったのに」
「お姉ちゃんはああ見えて、自立心が強いからね。取り乱してるとこ見られるのは嫌がるでしょ」
 頷けなくもないが、残念ながら都合の良い言い訳にも聞こえた。
「俺、ちょっと様子見てくる」
 姉を心配する弟。別に姉弟愛なんかではない。主に俺を動かすのは、イオが荒れた原因の一部に俺が含まれるという罪意識。
「姉ちゃん」
「…………ぐぅー……」
 反応がない。というか、いびき。
 鍵の掛けられていない扉を開ける。予想どおりパソコンは破壊されていた。布団にも入らず、壁に寄り掛かって眠っている。
「……ごめんね」
 イオが言った。はっきりした声。
「起きてる?」
「……」
 返事なし。寝言だったのか。やっぱり眠っている。
「……ごめん、なさい。……」
 俺に謝っているというよりは、罪が一つ増えてしまったことに謝罪しているみたいだった。
「イオ」
「嫌いにならないで……」
 服部先輩とやらは超能力者か。
「……ごめんね」
 本当に眠っているのか疑問に思えてきた。
『イオは、自分が思ってるほど人に嫌われてなんかないよ』
 メモに残して、部屋を去る。
 嫌われない為に潔白であろうとする。
 その真面目さが愚かであると、イオは多分、一生気付けない。



 イオは結局、高校を中退した。将来のことについては特に何も決まっていなかったので、とりあえずフリーターとなった。容姿の整った女性。働き口には困らない。
「卒業できなかったから、学費は働いて返すつもり。シュンにもパソコン弁償しなきゃね」
 ペルソナ。「いい子」を被った昼間の顔。ネトゲの世界から脱したイオは、また夜に泣くようになった。
 あの夜、イオを現実に引き戻したことが、結果的に良かったのかどうかは疑問だ。現実が辛いなら、幻想に逃げても何ら問題はない。イオが幻想に篭って困るのは、イオ本人よりも俺や両親。俺がイオの現実逃避を許さなかったのは、エゴではなかっただろうか――。
「……あのさ、姉ちゃん」
「どうしたの?」
「何で、高校やめたの?」
「えっとね、お姉ちゃん、あの教室にいると邪魔だったでしょう? それに、シュンのパソコンも買ってあげたかったし……」
「はぁ?」
「それにね、不登校時代の罪滅ぼし、早くしたかったんだ。万が一復帰したときの為にって、休学してなかったから。だからお金出さなきゃって……」
 呆れた。お前に自我はないのか。意志はないのか。一人の家族として姉を軽蔑した。それはひょっとしたら、俺が自分の罪を許す為の言い訳でもあったかもしれない。

 結局、須上とイオの友情も、そう長くは持たなかった。
 一席空いた教室。イオがいないことに喪失感を抱いたのは、皮肉にも、一番迷惑を被った俺だけだったらしい。

大塩杭夢
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大塩杭夢

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