夏の空を彩る儚い光を覚えている。
 夜の闇をかき乱す優しい風を覚えている。
 それから、あなたの横顔も。

    * * *

「ねえ、聞いてるの?」
 雪洞の向こうの記憶を探るようにぼんやりとしていたら、突然右手を軽く引かれた。
 意識を引き戻されて、我に返る。
「ごめん、聞いてなかった」
 素直に謝ると、小さな彼は大袈裟に溜息をついて首を振る。
 まるでハリウッド映画のような身振りに思わず笑みがこぼれてしまった。
 そんな私の様子を伺うように見上げた彼は、名案を思いついたと言わんばかりに顔を輝かせ「すこし休む」と、つないだ手を引いて人波をかき分けた。
「すみません。通ります」
 子供らしい良く通る声がざわめく通りに響く。
 その声に顔を上げた人たちは私を見ると驚きと哀愁の入り交じった表情になり、道を譲った。
 まだ幼い彼はそれに気づかずに、誇らしげにお礼を言ってぐいぐいと進んでいく。自分の手柄だと思っているんだろう。
 私は無意識に空いた手でお腹を抱えた。
 あまりにも彼が注目を集めるものだから、恐縮して顔を上げられない。
 小さく会釈を繰り返す事しかできなかった。
 人波を外れ、立ち並ぶ石灯籠の影に腰を下ろす。
 私が石灯籠に寄りかかったのを見届けて、彼も跳ねるように横に腰を下ろした。
「どうぞ」
 ポケットを探り差し出されたのは少し溶けかかった氷砂糖。
 小さな手のひらに乗ったそれを一粒つまみ口に含む。
 カラコロと鈴のような音を立てながら口の中で転がる。
 ――懐かしい味がした。
「とおるくんて、いい子ね」
 そう言うと、彼は誇らしげにうなずいた。

「――それでね、おかあさんが……」
 言いかけて彼ははっとしたように口をつぐむと、しょんぼりと下を向いてしまった。
 靴の先をじっと見つめて草を蹴っている。必死に涙を堪えているんだろう。
 私は石灯籠に手をつくとゆっくりと立ち上がり、そっと小さな頭を撫でた。
 今にも泣き出しそうな瞳が私を見上げている。堪えきれなかった気持ちを持て余して、はじかれるように立ち上がった。本当は抱きつきたいのだろうに大きなお腹を気にして、代わりに彼は袖口を力一杯握る。
「我慢しなくていいんだよ」
 言おうとして、やめた。彼が泣き出してしまったら、私はなんと言って慰めていいのかわからない。
 だから、代わりに。
「行こっか」
 その手を今度は私が引いた。

 長い石段は終わりがないかのようにどこまでも続いて、人の波がゆらゆらと揺れている。
 ぼんやりと灯る石灯籠と人々が持つ雪洞の明かりが、柔らかな水のような夜の世界を照らし出している。
 この先に何があるの?
 かすかな不安を、決して口には出さない。
 けれど同時に、誰もがその問の答えを知っていた。この石段の終わりに待ち受けるであろうあの空を、ただただ求めている。
 救いのような祈り。それを胸に抱えて、私たちはどこまでも登っていく。

 どこからともなく穏やかな声が聞こえてくる。
「今年の夏は暑い」だとか「もうじき孫か生まれる」だとか。そんなとりとめのない会話。
 遠くで聞こえる子供たちの騒がしい声。それを諫める先生がよく通る。
「とおるくんは行かなくて良いの?」
「ちがう学校の子だもん」
「そっか。お友達いなかった?」
 少し考えて答える。
「会ってないからたぶん来てないよ。いたって、うれしくないもん」
 私の不躾な質問に、彼は素直に答えてくれた。
「そうだよね」知り合いがいたってなんにも嬉しくない。
 幼い彼が此処にいることだって、良いことではないのだから。
 私は大きなお腹をそっと撫でた。
 本当は、この子だって……。
 そう思うと後悔ばかりが押し寄せてくる。私の険しい表情を見て何かを察したのか、彼は手を強く引いた。
「むこうを歩こうよ」
 人波から外れて、二人ゆっくりと石段を登った。

 臨月のお腹を抱えての石段上りは一苦労だ。
 とおるくんは私が落ちないようにと下から腰を支えてくれる。
 そんな光景を見かねたのか、青年が遠慮がちに腕をとって抱えるように支えてくれた。
 小さく謝ると「お気になさらずに」と返してくる。
「おかあさん?」
「ちがうよ。知らないお姉さん」
 その答えに思わず苦笑してしまう。
 青年が絶句していると彼は続けた。
「お母さんが、お年寄りと赤ちゃんのいる人は助けてあげなきゃダメだって」
「いい子でしょ?」
 彼は照れたように鼻を鳴らし「こんなのあたり前だよ」と言った。

「あんた、何してんだい。こんなところで」
 突然声をかけられた。振り向けば、隣組のおばさんが信じられないと言う形相で立っている。
 言うべき言葉が見つからずに苦笑を浮かべて「こんばんは」と挨拶をした。
「あんた何を呑気に……。一人かい? 旦那さんは?」
「今日は一人です。夫は……、たぶん仕事です」
 そう。こんな時だからこそ、きっとあなたは仕事に打ち込んでいるはず。
 おばさんはじっと私の顔を見つめると諦めたように息をつき、私の手から雪洞をはぎ取った。
「こんなモン持ってたらバランス悪いだろ。ほら、ちゃんと支えてやんな」
 二人に声をかけると先に立ち人混みに道を造っていく。
「おばさんもおひとりですか?」
「じゃなきゃ、あんたの世話なんて焼くもんかい」
 声を怒らせて、背を向けたまま言った。

 ようやく辿り着いた丘の上には既に大勢の人がいた。何かを待つようにじっと空を見上げている。その表情には一様に不安が宿っていた。
「今日は人出が多いね」
 つぶやく私にとおるくんは「うん」とうなずく。
 おばさんたちと別れた私たちは人を避けるように丘の端の草むらに腰を下ろした。
 雪洞の明かりをそっと吹き消す。石灯籠の明かりも消されて、辺りは静かな夜の空気に包まれる。
「そろそろかな?」
 彼も不安げに空を見上げた。
 水のように清らかな風が吹く。水面の向こうの空はどこまでも澄み渡って、一面にまき散らされた星がきらきらと光を放って微かに瞬いている。
 不意に、ゆらゆらと小さく優しい光が夜空を横切った。
 波の上を滑るようにたゆたいながら、小さな灯火はゆっくりと流れていく。
 ひとつ、またひとつと光が集まり、やがて空が光に埋め尽くされた。
 炎の優しい灯火。悲しいけれど、希望の光。
 人々の顔から次第に不安が消えていく。
 ほうと息をつく微かな音は、感嘆の吐息なのか、それとも安堵の吐息なのか……。
 私は胸を撫で下ろして、空に向かって小さく微笑んだ。

『ありがとう』
 この言葉があなたに届いたなら、どんなに救われることだろう。
 そして『ごめんなさい』も。
 あなたを独りにしてしまって、ごめんなさい。
 けれど、私たちがいつまでもあなたたちを引き留めるわけにはいかないから。
 だからこそ私は、あなたに『ありがとう』と伝えたい。
 いつか、もう一度巡り会うときが来たら、その時は必ず『ありがとう』って言うから。それまで待っていてね。

「きれいだね」
 気が付くと、とおるくんは痛いくらいにきつく手を握っていた。
 こみ上げてくる胸の痛みに言葉が詰まって、変わりに手を握り返す。
「かなしいけど、さみしくないよ。またいつか会えるから」
 そう言って、彼は優しく私のお腹を撫でた。
 そうだ。
 生まれてくるはずだったこの子にも、いつかきっと会える。
「知ってるよ」
 私はそれだけ言って、彼の柔らかな髪に手を伸ばした。

 君の横顔があまりにもあの人に似ていたから。
 私は深い深い海の底で、愛おしさに一粒涙を流した。

    * * *

 つないだ手の温もりを忘れない。
 交わした言葉の色彩も。
 全てが溶けて生まれるなら、終わりはきっとどこにもない。
 そうやって命は、延々とつながっているんでしょう?

ましの
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ましの

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