真っ黒に染まった表紙。元は社会科の資料集であったはずのそれは、もはや黒く濡れたただの紙束になっていた。墨汁で汚れてしまい、掲載された写真が人物なのか景色なのかすら、もうよくわからない。私は濡れてよれよれになった資料集をつまんだ。ショックが大きくて、何も考えられない。呆然と立ち尽くしてしまう。周りの騒音がいやに大きく耳にまとわりつく。全てが自分をあざ笑っているかのように聞こえた。

 このようなことが起きたのは、実は初めてではない。最近、友達が私を無視するようになった。挨拶すら返してくれなくなった。話にも入れててくれなくなった。体育などの班分けも取り残されるようになった。そればかりか、私の持ち物に対する悪質ないたずらも起きるようになっていった。あるときは体育館シューズがなくなり、あるときは上履きに大量の画鋲が入れられていた。食後に使う歯磨き用具に墨汁がかけられていることもあった。トイレに死ねと書かれたこともあった。先生に相談もしてみたけれど、今回のこれだ。全く改善されていない。
 どうしてこうなってしまったんだろう。私は何も悪いことはしていないのに。ただ普通に学校に来て、普通にみんなとおしゃべりして、普通に遊んでいるだけだ。そこまで大きく変なことをしている訳ではない。なのに、どうして? 誰かに聞いてみたいけれど、誰も私の話を聞いてくれない。声をかけた傍から耳を塞がれてしまう。どうすることもできず、途方に暮れてばかりいた。

 部活の休憩時間。部活のメンバーもまた、私を外れものにしようとしてくる。たった一人、ぼんやりとため息をついていた。他の人や後輩が楽しそうに何人かで話しているのを見ると悲しくなってくる。私はふいと視線をそらした。
 と、会話する他の人には目もくれず、ただ手元で草か何かをもてんでいる姿が目に入った。彼女は同じクラスの女の子だ。一言で言えば真面目。テストでは学年で1、2位に入る優等生である。同じ部活ということもあって話したこともあるけれど、何を考えているのかわからない不思議な人。今も雑草をぶちぶちと引き抜いては、真剣な表情で引っ張ったり丸めたりしている。手持ちぶさただった私は、彼女に声をかけた。
「何してるの?」
 私が聞くと、彼女は手を止めて顔を上げた。二呼吸ほどのあいだ、瞬きして私を見つめてくる。
「……おじぎ」
 そう言って、彼女は手に持っていた雑草の葉っぱを私の前に出した。彼女が引っ張ると、葉っぱはぺこりと曲がった。言ったとおり、お辞儀をしているように見えた。彼女が持っていたのはオオバコの葉。引っ張り相撲で遊ぶあの植物の葉っぱだったのだ。そのスジを引っ張って、何度もお辞儀させている。
「楽しい?」
 彼女は答えなかった。無表情を顔に貼り付けたまま、ただ葉のスジを引っ張ったり緩めたりしているだけだ。やっぱり、変な人。行動もそうだけど、なにより、誰からも相手にされていない私にも普通に接しているもの。


 それから私は、時々彼女と喋るようになった。好きなアイドルやテレビ番組の話。学校の授業や行事に関連する話。とにかく色々なことをおしゃべりした。向こうから話しかけてくることは滅多にないけれど、話しかければ素直に応じてくれる。時には、彼女に勉強を教えてもらうこともあった。彼女はどんなに小さなことでも馬鹿にせず、とても丁寧に教えてくれた。
 私がいじめられていることを話すと、彼女は驚いたようだった。学年集会でそれらしいことは聞いていたけれど、それがまさか私のことだとは思っていなかったらしい。彼女は私をけなすことなく、ただ静かに聞いていた。むしろ、親身になって心配してくれさえもした。たったそれだけと言われるかもしれないけれど、私は十分嬉しかった。溜めていたものを出せたことと、仲間がいたとわかったこと、両方が大きな収穫だったのだ。嬉しくて、私は彼女によく話すようになっていた。

 そんな日々が続いていたときのこと。
「おはよう」
「おはよ」「おはよー」
 私の声に、何人かの声が返ってくるようになっていたのだ。もちろんその中には彼女もいたが、別の声もあった。味方が、増えていたのだ。いや、正確には増えたというのは間違いだ。これは後から聞いた話だけれど、このとき返事を返してくれた人たちは、それまでは自分もいじめの標的になるのが怖くて、同調していただけなのだという。けれど“彼女”が私に普通に接しているのにも関わらず特にひどい目にも遭っていないのを見て、何となく安心できたとのことだった。そういう意味でも、私は彼女に感謝しないといけない。
 それから私は、現れた“味方”と仲良くなった。ただおしゃべりして、挨拶して。それだけだったけれど、とても楽しく過ごせた。時には一緒にお出かけすることもあった。いじめが起こる前に戻ったかのようだった。いや、ちょっと違う。いじめの前とはメンバーが違っているし、何より今の友達は無理に趣味を合わせる必要もなかった。好きなようにしていても、話が合う。周りについて行くのが必死だった以前より、遥かに楽で心が落ち着いていた。
 そうするうちに、いじめもいつの間にかなくなっていた。私自身、いじめがあったことなんて、もうどうでもよくなっていた。だって、今はみんなと楽しく過ごせるんだもの。けれどただ一つ、違和感があった。楽しいはずなのに、何かが違う気がしたのだ。それが何かがわからずもやもやとしたまま、時は過ぎていってしまった。


 ある日、友達と一緒に街の方にあるショッピングモールに出掛けることになった。仲のいい人達と、集合場所でわいわいとはしゃぐ。
 そこで私は今までの違和感の正体にようやく気付いた。足りないのだ。本来ならここにいてもいいはずの人物がいない。ぐるりと見回してみても、私に再び楽しい日常を取り戻してくれた彼女(おんじん)はこの場にいなかった。

風白狼
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風白狼

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