1人目 妹を救わんとする者
斜めから日が差し込む図書室で、一人の青年が本を読んでいた。学生服を着た彼は退屈そうにページをめくる。彼の他に閲覧用の机に向かっているの人物はおらず、聞こえてくるのは窓の外のかけ声だけ。と、ある種の静寂を破り、乱暴に引き戸が開けられた。
「あんたがカルアか?」
入ってきた男子生徒が問いかけた。本を読んでいた青年は本を閉じて立ち上がる。
「そう、僕がカルアだ。わざわざ探しに来るってことは、僕に答えを求めてるってことだよね」
カルアと名乗った青年は、確信を持った声で冷ややかな視線を向ける。入ってきた男子生徒は頷き、試すようにカルアを見据えた。
「ああ。困ったらあんたに聞けばわかると聞いた。……本当に、なんでもわかるんだよな?」
「もちろん。僕にかかれば、万物・現象の理から、過去・現在の事実、あるいは未来も見通せるよ」
カルアは自信ありげに微笑んだ。つまらないことを疑うなと言いたげな力強さを秘めている。男子生徒はしばらくためらっていたが、やがて口を開いた。
「俺は3年のスミン。……俺の妹の行方を教えてほしい」
「妹さんの行方、ね」
カルアは腕を組み、スミンと名乗った男子を見つめる。
「言っておくけど、真実は君の望むものとは限らない。それでも、聞きたい?」
「覚悟はできている。教えてくれ」
ほとんど即答だった。きっと何度か迷った上でここに来たのだろう。カルアはそんな彼を認め、可笑しそうに目を細めた。ゆったりとした足どりで歩み寄る。
「なら始めよっか」
言いながら、カルアはスミンの両肩に手を載せた。そのままぐっと力を込めて押す。
「っ!? 何をする気だ!?」
その行動の意味を悟り、スミンは目を見開いた。腕を捕まえ足をふんばって耐える。問い詰められても、カルアは涼しい顔だ。
「別に何もしないから安心して」
「いや今思いっきり何かしようとしてただろ! 安心できるか!」
「ほら、妹さんのことが知りたかったら大人しくしててよ」
ますますカルアは身を乗り出す。態度に堪えかね、スミンはぎりっと奥歯を噛んだ。
「っ、この、離せ!」
「がふっ!?」
真っ直ぐ繰り出された拳がカルアの頬にめり込んだ。カルアは妙な声を上げ、よろよろと後退する。
「いったー…何も殴ることないじゃないか」
「そんなこと言えた立場か!」
恨めしげに睨むカルアに、スミンはフーッと憤る。ゆだんなく睨み付け、触れるなと言わんばかりに殺気を放っている。カルアは軽くため息をついた。
「まったく、そんなだと何も教えないよ?」
「そんな…!」
スミンがわずかにたじろぐ。その隙にカルアは肩を掴んだ。我に返ったスミンはすんでの所で踏ん張る。ぎりぎりと取っ組み合う二人。そんな中、不意にカルアは相手の尻を撫でた。
「ひゃあっ!?」
「隙あり!」
軽く飛び上がったのを見計らい、力を込める。バランスを失い、スミンはカルアに押されるがままに倒れ込んだ。床との衝撃音がいやに大きく反響する。突然静寂が帰ってきて、しばし無言でお互いを見ていた。顔の距離は近くはないが、のしかかられた感覚にスミンの顔がさあっと引きつる。
「降りろ!」
闇雲に腕を突き出した。顔に向けられた一撃はたやすく躱され、逆に捕まえられてしまう。
「無駄なことはやめなよ。僕は何でもわかるって言っただろう? 君の弱点も、ね」
「なあっ!?」
カルアはスミンの脇腹をつっとくすぐった。愛おしむような不穏な手つきに、スミンは声を上げてしまう。カルアはニヤリと笑って――――すっと立ち上がった。呆然と見上げるスミンの前で、何事もなかったかのようにたたずまいを直す。
「言っただろう? 何もしないって」
「じゃあ尻を触ったりしたのはなんだったんだよ」
「ああ、それはそうでもしないと大人しくしてくれそうになかったから」
カルアは冗談っぽく笑い、肩をすくめて見せた。が、すぐに表情を引き締めてスミンに向き直る。それに気付いたスミンも真剣な面持ちで彼を見つめた。
「話を戻そう。君の妹さんの居場所だったね。最初に言ったが、真実は君の望むものとは限らない。それでも、聞くかい?」
「言ったはずだ。覚悟はできている、と」
スミンは揺るぎない声で答えた。それを見て、カルアは感情の見えない瞳を細める。未来を見通していた彼は、スミンがなおも食い下がることをわかっていた。わかっていたが、確認の問いかけをし、意思を言葉にさせる必要があったのだ。カルアは静かに息を吸う。
「一つ、聞きたい。行方不明の彼女を見つけたら、どうするつもり?」
「まずは安否を確認する。健在だったら、どうしていなくなったのかを聞く」
「じゃあ、その後は? 君は妹さんの安全と幸せの、どっちを優先させる?」
カルアの問いに、スミンは押し黙った。どうしてそんなことを言われるのかという戸惑い。カルアの言い回しから押し寄せる、例えようもない焦燥感と恐怖。そして選択肢の重さに対する迷い。沈黙をもたらすそれらの感情を、カルアはわかっていた。やがてスミンは震える口をゆっくりと動かした。
「そんなに、悪い状況なの、か?」
カルアは何も答えなかった。肯定も否定もせず、ただ静かに押し黙っている。それは暗に肯定を示しているようで、スミンはますます焦りを募らせた。衝動的にカルアの制服を掴み、上ずった声で詰め寄る。
「おい、どうなんだよ!? 何とか言え!」
「それは僕の口から言うべきことじゃない。直接会って君の目で確かめることだ」
カルアはスミンの拘束から逃れて後退る。自分のカバンからメモ用紙を取り出すと、図書室の机を借りてなにやら書き込み始めた。
「これが君の妹さんのいる場所だよ」
そう言って、カルアは今し方書き込んだメモを手渡した。スミンがのぞき込んだそれには、どこかのマンションの住所が書かれている。この町から少し離れたその場所にスミンは怪訝な顔をしたが、ポケットの中にしまい込んで礼を言う。図書室から出て行く彼を、カルアの声が呼び止めた。
「妹さんを助けたいと思うのなら――――多少の恨みを買うことは覚悟した方がいい」
それは具体的な行動を示さない、曖昧な助言であった。かけられた言葉の意味を理解しきれないまま、スミンは覚えておく、と返す。彼が立ち去ってしまうと、図書室には元通りの静寂が訪れた。
「ずいぶんと、妹思いのお兄さんだったなあ」
取り残された部屋で、カルアはぽつりと呟いた。その瞳の奥で、悲しみの波が揺れている。
「妹さんは女の人を何とも思わないような悪い男と駆け落ちして、いいように使われてるって知ったら、彼、どうするのかな……」
疑問系の言葉ではあったが、カルアには訪れるべき未来がわかってしまっていた。可能性というあらゆる分岐も含めて、全ての未来が。それ故に、カルアは苦悩していた。どう行動すればどんな未来が訪れるか、手に取るようにわかる。けれど、それらのうちどれかが望んだものであるとは限らない。そして、カルア自身に見えた予知を根本から覆す力はない。あくまでもわかるだけなのだ。できることと言えば、依頼主の望みに近い未来にたどり着くよう、助言をすることだけ。そんな気鬱を紛らわすように、カルアはため息を吐き出した。
「ま、気にしても仕方ないか」
諦めの混じった声を聞く者は誰もいない。カルアは椅子に座り、黙々と本を読み始めた。