◇ ◆ ◇
まるで狼のようだと、誰かがそう形容した。
常に空腹に苛まれ、血に飢えながら獲物を探して街を闊歩する彼の姿は、まさに獣のようだと。
果たして誰がそれを言ったのか。それは定かではなかったが──
それはまさしく、言いえて妙だった。
まるで竜のようだと、誰かが呟いた。
悪を赦さず、正義を断じて行うその威容な姿、異常なまでの戦闘力に畏怖と敬意を表して、彼の事を誰もがそう呼んだ。
まさに生ける伝説と化していた、二人の男。狼のような少年と、竜のような警官。
その、二人が。
とある夜、出会った。出会ってしまった。
言葉は無い。
ただ、少年は警官に期待を込めたまなざしを送り、警官は少年に怒気を孕んだ視線をぶつけた。
直後、正義と不義、善と悪。二つの力が衝突し──
◇ ◆ ◇
時刻は午後十時を回った頃。
一人の少年が、街の中を歩いていた。
降りしきる雨の中、レインコートを着た彼。
コートの下に着た腹はボロボロ。金色に染めた髪は手入れもされず無造作で、シルエットだけを見れば狼少年といった表現が良く似合う。
彼の名は、篠崎久隆。生まれて十年の青年だ。
赤く不気味に光る目をギラつかせながら、彼は周囲の人間を見渡す。
──どいつもこいつも弱そうだ。
──その喉笛を掻き切れば、一体どんな音が鳴るのだろう。
ふつふつと体内から沸き上がる衝動。久隆は人の死の瞬間を思い出し、息を荒くする。
堪らない。人間を壊す際の、あの感覚が。柔らかい肉が潰れた時の色合いが、骨が砕けた時の衝動が、崩れる時の何とも言えない儚さが。
脆い、弱い、人間が、最高だ。
それはある意味、弱いものイジメと似たようなものなのかもしれない。弱いものを虐げ、優越感や快楽を得る。彼の行為は、まさしくそれだった。
ギチッと、金属で出来た腕を動かす。もう、止まらなかった。
「──」
言葉も無しに、彼は近くにいた男に襲いかかる。目にも止まらぬ速さで近付いた。
通行人の男が何かに気付くその前に──
久隆は、男の喉笛を掻き切った。
何の事は無い、手刀で薙いだだけの一撃。だがその一撃で、男の首は致命的なダメージを負う。
『ひゅう』と、空気が漏れ出たような音がした。続いて、大量の血液が噴出する。
街中で突然起こった悲劇。非日常な光景に、一瞬誰もが言葉を失った。
だが──
バタンと、倒れた男と広がっていく血の海が、現実を生々しく物語る。
「きゃあぁぁああぁあぁああっっあああああ!」
響き渡る女性の悲鳴。それを合図に、街は、混乱する。
何が起こったのかを理解した通行人達は、我先にと少年から離れ、逃走を図る。
誰もが数多の疑問と圧倒的な恐怖を抱え、
逃げる。
逃げる。
逃げる。
突如、街は阿鼻叫喚の巷と化した。
だが、当然ながら──殺人鬼、久隆が人間を見逃す訳も無い。
彼は地面を蹴り、散り散りに散っていく人間を追う。
そして、手刀で女性のうなじを切り裂いた。
真っ赤な血と肉の中から、白い骨が顔を出す。それはまるで、沢山の赤いバラの中に潜む、一輪の白い百合のようで。
瞳に映った光景に歓喜を覚えながら、久隆は次々と命を刈り取っていく。
ある者は、背中を縦に切り裂かれ。
ある者は、首と胴体を切り離され。
ある者は、正面から腹を貫かれる。
次から次へと地面に伏していく人間達。
狂気めいた笑みを浮かべながら、久隆は感じる。
人の命の儚さを。人間の脆さを。自分の強さを。
やがて──逃げる者はいなくなった。全員、久隆の手によって潰されてしまったから。
──ダメだ、これじゃダメだ。物足りないよ。
──脆すぎる。全然満たされない。
幾ら人間を殺しても、彼の欲は往々にして満たされず。
──こんな思いをしなくちゃならないのなら、もういっそ、誰か一思いに俺を……
「──」
虚空に向かって、吠えた。遠吠えをする狼の如く、少し、哀しげに。雨の音が大きく聞こえる。
すると、その雨の音に混じって、サイレンの音が聞こえてきた。久隆はこの音を知っている。──パトカーのサイレンだ。
あぁ、警官なら、俺を……
やや期待のこもった目で、彼は音源の方向をじっと見つめていた。
◇ ◆ ◇
「竜さん竜さん、聞きましたか?」
とある路上駐車OKな道路にて、白バイに乗った若年の警官が口を開いた。
「何の話だ?」
同じく白バイに乗る、竜さんと呼ばれた男──遊馬博嗣は、後輩に対してそう返答する。
「例の『狼』が現れたらしいんですよ。しかも、通行人と駆けつけた警官を皆殺しにしたんだとか!」
ぴくりと、博嗣の眉が動いた。
「……潰されたのは第何区の警官隊だ?」
「え? えぇと……確か第六区だったと思いますけど」
博嗣はぐっと目を瞑り、哀愁を帯びた声を発した。
「……そこには、俺の同僚がいるんだ。多分、殺られただろうな」
ぐっと、バイクのグリップを握りしめ、博嗣は呟く。
「岡本は、真面目な奴だったんだ」
「え?」
「とにかく真面目な奴でなぁ。昔から道交法やら何やら、とにかく法律にうるさい奴だった。高校の時なんか、自転車で並進していた学生を注意して、そのまま喧嘩になってたよ」
「は、はぁ……」
突然知らない人間の事を聞かされて、対応に困る後輩警官。
そんな後輩の様子は無視し、博嗣は語り続ける。
「甘利は、名前の通りスイーツが好きな奴だった。甘いものには目がないんだ。男なのに可愛い奴だったよ」
だが──後輩警官は気付く。段々、その声が怒気を含んでいくのを。
「近衛はお調子者だった。昔から軽い奴でな。どんな時でもあいつは周りを明るくさせていたんだ。警官には向いてないと思ってたんだが──意外に正義感が強くってな。案外、ああいう奴が警官には向いているのかもしれん」
ギリッと、博嗣は歯軋りをした。
「良い奴らだったんだよ」
「皆、良い奴らだったんだけどなァ……!」
その時、後輩警官は悟った。あぁ、あの『狼』、死んだなと。
博嗣はその卓越した身体能力と、裁判所の許可を得た時のみ扱う謎の剣で、今は生ける都市伝説と化している。
『竜』。それが彼の二つ名だ。後輩警官が博嗣を『竜さん』と言っていたのもそれが所以である。
博嗣は、怒っていた。それだけで、狼の死が後輩警官の中では決定づけられたのだ。
決して、博嗣の周りの空間が歪んでいるとか、彼の身体から炎が出ているとか、そういう事は起こっていない。
ただ、グリップを握るその手を見て、開いた瞳孔を見て、震える身体を見て。
そう、判断しただけだ。
「行ってくる」と、博嗣は言った。
そのまま、彼は白バイを走らせる。勿論、道交法で定められたスピードを守りながら。
行ける都市伝説の後ろ姿を見送りながら──後輩警官は感じた。
例え『狼』がどんなに強かろうと──
そいつは確実に、この世から去る事になるのだろうな、と────……
◇ ◆ ◇
ニィと、少年は笑っていた。
見ただけで分かる。目の前にいる警官が、只者では無いという事を。
少年、篠崎久隆は知らない。目の前の警官、遊馬博嗣が『竜』と呼ばれる都市伝説めいた存在である事を。
だが、そんな事を知らなくても、久隆は分かるのだ。自分を壊す事が出来るタイプの人間を。
警官は、ただひたすらに怒っていた。
同僚を殺されたから。
罪の無い一般人が殺されたから。
治安を乱したから。
法律を破ったから。
様々な理由が複雑に絡み合い、単純な『怒り』という感情へと進化する。
「お前が殺ったのか」とは、尋ねなかった。通行人や警官、更には駆けつけた救急隊員までもが皆地面に伏している状況で、彼だけが生きていて──しかも、笑っていたのだから。
それに、分かるのだ。人間ではないものの臭いが。
そう、確実に、目の前の少年は人間では無かった。
警官、博嗣は言葉も発さず、素早い動作でガンホルダーから拳銃を抜き、発砲した。
銃弾は空を切り、人間では回避不可能な速度で久隆へと迫り──
激突。
衝撃。
──落下。
弾丸は久隆の身体を穿つ事は出来ず、逆に弾丸の方がひしゃげ、地面に落下した。
「やっぱり効かねぇか」博嗣は拳銃を仕舞う。
一応、この『狼』相手には発砲許可は出ていたが、仮に出ていなくても博嗣は撃っていただろう。銃弾が効かないというのは、概ね予想通りだったからだ。効いていれば、既にこの少年は何処かで殺されている。そう判断したからだ。
──いや、単純に怒っていただけかもしれないが。
「おじさん、容赦無いね。俺、今の一撃でもしかしたら死ぬかもしれなかったのに」
久隆は心底楽しそうに、その言葉を口にした。
「フン、冗談言うな化け物が。正体を晒せよ」
博嗣がそう言うと、久隆はレインコートを脱ぎ、Tシャツを捲ってみせた。
そこには、肌色が無かった。代わりにあるのは、銀。
まるで鎧でも着ているのかと思うような装甲が、彼の腹には存在していた。いや、違う。その装甲が腹そのものなのだ。
「──やっぱり、お前、第三次世界大戦の時のロボットか」
「あぁ、そうだよ。人を殺すためだけに創られたロボット……ってね」
自嘲気味という訳でも、自らの存在を誇示する訳でもなく、ただ淡々と、久隆は語った。
「回収されたんじゃなかったのか」
「ハハッ、んな事出来るかよ。人間より強い俺達が、人間にそう簡単に捕まるか」
チッと、博嗣は舌打ちする。『俺達』とわざわざそう表現したという事は、他にも目の前の少年のような奴らが一杯いるという事だ。
──病原菌が。俺が蹴散らしてやる。
博嗣は、両手にはめていた手袋を脱いで捨てる。
「……おぉ、おじさんも俺達と一緒のクチかい?」
博嗣の左手は、義手だった。しかも、人間の腕を模したものではなく、完全に機械で出来た腕。
「化け物風情と一緒にすんな。俺は、サイボーグだ」
ギシッギシッと、左腕を動かす。金属光沢を放つそれは、独特の威圧感を放っていた。
雨の勢いが強くなってきた。水滴が身体を伝う。
それでも冷めない怒りを体内に溜め込みながら、博嗣は目の前の少年を見据える。
言葉は無い。
ただ、怒気を孕んだ視線を少年へとぶつけていた。
それすらも楽しい、嬉しいといった様相で、久隆は笑いながら──
突如、博嗣の目の前に出現した。
一瞬の内の移動。それだけならまだしも、それまで全く戦闘の意思を示していなかった彼の突然の移動に、博嗣は刹那の間に思考の空白を生じる。
その刹那の合間に、久隆は動いた。
左脚を軸に、右脚を引いて身体を捻り、拳を打ち出す。
さながら銃撃の如く撃ち出された拳が、博嗣の頬を穿ち、吹き飛ばした。
──事は無かった。
反射的に博嗣は左腕で顔を防御したのだ。
「青いぞ、少年」
博嗣はそのまま上体を後方に落とし、足を振り上げ。
ハイキック。脅威のバランス感覚をもって放たれた一撃が、久隆の脳を揺らす。
だが、それで終わりでは無かった。
そのまま膝が下に向いた状態になるまで股関節を内旋させ、一気に振り下ろす。久隆は地面に叩きつけられ、地球と派手なキスをした。
俗に言う、ブラジリアンキック。但し、通常では有り得ない体勢で放たれはしたが。
そのまま博嗣は、腰に差した剣を抜こうとしたが、その手を止める。
久隆は地面に叩きつけられた瞬間、バウンドして少しだけ跳ね上がった空中で強引に身体を旋回させ、更に、膂力と遠心力が加わった豪快な裏拳を地面に向けて放ち──その衝撃を利用して、博嗣から距離を取った。
一瞬の内に繰り広げられた、人間の領域を超えた攻防。ひび割れたアスファルトが、それを如実に物語っている。
当然、二人がこのまま止まるはずもなく。
再び、久隆が動いた。
警戒している博嗣に不意を突く事は不可能と感じたのか、久隆は地面を蹴り、その強大な脚力を使って博嗣に馳突する。
博嗣は防御の体勢を取り、足で地面を踏みしめるが──それは間違いだった。
久隆は博嗣の目前で足を地面に突き出し、ブレーキをかける。そして両手を突き出した。
キィィイイイイン! 甲高い音が鳴り、久隆の機械で出来た拳の装甲が変化する。中から幾つもの小さな円筒が飛び出した。
「熱放射」
直後、博嗣の身体を莫大な熱が襲った。
久隆の拳から放たれる熱。炎よりも圧縮された熱の塊が博嗣を飲み込んでいく。近くのビルまでも飲み込んだ。
だが、博嗣は優秀だった。
熱に溶かされる前に地面を蹴って、熱の塊から抜け出す。そのまま空中で、彼は剣を抜き──
振った。
その刃は、鞭のように伸びて。
久隆の身体を斬り裂く。
「うぐッ……!?」
久隆の身体を襲ったのは、斬撃によるダメージというよりも、剣を振るった事による加速が生み出した打撃によるダメージだった。
そのまま久隆の身体は回転、宙を舞う。
更に博嗣は剣を振るった。伸びる刃が久隆に確実にダメージを加えていく。
これこそ、博嗣の持つ最強の武器。名を『獅子王の剣』という。
これも第三次世界大戦時に作られた負の遺産であり、凶悪な武器だ。
要は、刃の中にワイヤーが仕込まれており、振るえばワイヤーが伸びて攻撃範囲が広がるというものだ。どちらかというと鞭に似ている。
だが、扱いが非常に難しく、第三次世界大戦時に扱える者は一人もいなかった為破棄されたはずの武器だが、何の因果か、こうして今は博嗣の手元にある。
久隆もやられっぱなしという訳にはいかず、途中で地面に着地して、その斬撃を躱す。
すると博嗣は刃の長さを元に戻し、今度は突く。刃が伸び、久隆へと迫った。
だが、久隆は冷静だった。
紙一重でその突きを避けると、その刃を素手で掴む。いや、その手も機械で出来たものではあるのだが。
そのまま、ぐいっと引き寄せた。力強く剣の柄を握っていた博嗣は、剣ごと久隆の元へ。
久隆は前に駆け出し、慣性の法則に逆らえずに近づいてくる博嗣の腹に向けて、思いっきりアッパーカット。ドスンと、確かな手応えがあった。
そう。確かに、博嗣にダメージは加わった。しかし、それで倒れる博嗣でもない。
間一髪、彼は掌を自らの腹と久隆の拳の間に滑り込ませ、久隆の一撃を受け止めていたのだ。
ただ、それで衝撃が殺せる訳でもない。受け止めはしたが、拳は腹にめり込んだ。
だが、それでも良い。一瞬だけ、目の前の少年の動きを止められれば、それで良いのだ。
ぐぐっと、久隆の拳を受け止めた左手に力を込める。
「捕まえたぜ……!」
彼はそう呟いて。
目の前の少年の顔を掴み。
渾身の力で、地面に叩き付けた。
サイボーグである博嗣の満身の力が込もった一撃。地響きが生じ、轟音と共に地面が割れる。
更に博嗣は自身の剣を抜いて、久隆の身体に突き立てた。
ギィン! と、金属音が鳴り響く。あったのは硬い手応え。
──無理だった。剣では久隆の装甲を突き破れない。
「……やっぱり、ダメだな」と、久隆は呟いた。
「おじさんじゃ、俺には勝てないね」
装甲を突き破れなかった剣。その刃を久隆は握り、砕く。単純な握力をもってして。
そこで、博嗣は久隆を見た。
目が、真っ赤に光っていた。
瞬間、ガシュン! と、久隆の身体が変化する。
より速く。より分厚く。より力強く。
背中や足からは推進装置スラスターが剥き出しとなって飛び出ていて、指は弾丸を放つ銃身となっている。
瞬時に『ヤバい』と感じた博嗣は、急いでその場から飛び退いた。直後、久隆は起き上がる。
彼は無言で、指を博嗣の方へと向け──
小型のミサイルを放つ。
博嗣を狙う五つのミサイル。彼は迎撃しようと構えをとった。
が、彼の直前で、ミサイルは爆発する。
──煙!
直後、博嗣の周囲に煙が立ち込める。視界を奪われた彼は一瞬困惑した。
その一瞬が、命取りだ。
視界の脇で動く黒い影。しまったと思った時にはもう遅く。
ぐらりと、世界が揺れた。いや、違う。視界がブレたのだ。
それは、必殺の一撃が、博嗣のこめかみにヒットした事を示すもので──
そのまま、彼の世界は闇に包まれ消えた。
◇ ◆ ◇
雨が、激しい夜だった。
ザーザーと降りしきる雨の中、少年は自らの手で摘み取った命を見つめる。
結局、殺されなかった。途中、これはいけるかとも思ったのだが、だがしかし少年の身体にダメージは無い。
──人間なんて、こんなものなのか?
──俺を創った人間という生き物は、所詮この程度なのか?
その答えも出ないまま。
少年は静かに死体に背を向ける。
雨はその激しさを増すばかり。
それはまるで、少年の悲しみを代弁しているかのようでもあった。
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