ピルエット

 部屋の中心で、くるりとピルエットをやってみる。
 ピルエットというのは、つま先立ちで回る、バレエの基本動作のあれのこと。
 踵をしっかりと上げて、軸足に体重を乗せて回る。目を回さないコツは、一点を見つめ顔が常に正面を向くように心がけること。
 中二のときにバレエは辞めてしまったけれど、こういう基本動作はたまにやってしまう。
 気分転換というか、儀式のようなもの。
 くるりと回って、うまくやれたら二回転三回転とやって。そうやって回っているうちに頭の中がクリアになっていき、無心になれる。
 そうしたら大体、汗だくになる頃にはムシャクシャする気持ちもモヤモヤする気持ちもなくなっている。
 生きていくのにも、ピルエットのとき目を回さないために見つめるようなものが必要だと思う。絶対にぶれずに、そこにありつづける何かが。
 もしくは、いろいろな出来事や人に翻弄されて目が回ってしまっても、そばにいてパッと手をとってくれるような存在が。
 私にとって杏は、そういう存在だと思う。

 入学して初めて自分の教室に行ったときすぐに、派手めの子たちに声をかけられた。その子たちはもうすでにグループを形成しているようで、妙な一体感があった。
「新田さんってすごく可愛い! 高校入ったら可愛い子の友達が超欲しいって思ってたから仲良くしてね」
 すごくにこやかに、リーダーっぽい子にそう言われた。
 もしかしたら普通はそんなことを言われたら喜んで友達になるのかもしれないけれど、私は中学のときの出来事を思い出して怖くなった。
 怖くなって、思わず「嫌だ」と答えてしまった。
 我ながら、冷たい声だったと思う。
 まずいと気づいたときには遅かった。派手めのグループを中心に嫌な空気が広がって、それは教室中を満ちていった。
 リーダーっぽい子は断られるなんて思っていなかったみたいで、キョトンとしたあと、すごくムッとした顔をして無言で立ち去っていった。
 ーーああ、もうハブられ決定だ。
 入学早々うまく立ち回れなかったことで、誰とも口を聞いてもらえない学校生活を私は想像した。
 私のことを嫌いとかじゃなくても、あんな派手なグループを敵に回した子と親しくしたい人なんていないと思う。
 ーーもう、小さくなって生きていこう。
 そんなふうにこれからの高校生活を勝手に諦めていた私に、杏は話しかけてくれた。
「新田さん、さっきのテストできたー?」
 それは、クラスに馴染めず独りで過ごしている子に、勇気と優しさがあるクラスメイトが話しかけるという一種の押し付け感があるものではなく、すごくさりげないものだった。
「ううん、何か合格発表のあと気が抜けていろいろ忘れてしまったみたいで」
「わかるわかる! 私も、受験のときまで頭の中にあったはずのことが思い出せなくって」
 ただ出席番号が続きで席が前後だったからというだけだったのかもしれないけれど、そうやって話しかけてもらえたことがすごくありがたかった。
 その日だけじゃなく次の日も、杏は休み時間ごとに私に話しかけてきて、昼ご飯も一緒に食べた。
 学校が始まって数日経つ頃には杏が何かのきっかけで仲良くなったらしい別の子たちもお昼のときは合流するようになって、杏以外に話す相手もできた。
 そうして何事もなかったように私の高校生活が滑り出したのは、すべて杏のおかげだと思っている。
 初日にあんな躓きがあったなんて思えないほど、私の毎日は順調だ。

 入学してから一ヶ月くらい経つ頃、初日のあの派手な子たちとのやりとりのときに脳裏をよぎった、中学時代の出来事を杏に話した。
 長いこと仲が良いと思っていた子が、実は私のことが大嫌いだったという、ただそれだけの話なのだけれど。

 私には、小学校の頃から仲が良い友美ちゃんっていう友達がいた。
 いつも一緒にいて、いろいろなことを教えてくれる、すごく親切な子だった。
 私はどちらかというと女の子らしい遊びよりも、弟が欲しかったがために私のことを「次郎」なんて呼ぶ兄さんと一緒に男の子の遊びをすることが多くて、そんなだから女の子の事情に疎かった私に髪型や服装のこととかいろいろ世話を焼いてくれていたのが友美ちゃんだったのだ。
 そんな友美ちゃんと中三のとき、渋谷に遊びに行った。どうしても行ってみたいという友美ちゃんに誘われて、電車を乗り継いで長い時間をかけて行った。
 渋谷についても友美ちゃんはどこのお店にも入らず、ただ街をぶらぶらと歩きたがった。あとでわかったけれどそれは、芸能プロダクションやモデル事務所にスカウトされるのが目的だった。
「憧れてるタレントとかモデルがみんな結構渋谷でスカウトされたって言ってたのになー」
 歩き疲れて嫌気がさしたのか、ちょっとショーウィンドウの前に立ち止まって友美ちゃんが言った。
 スカウトなんてどうでもよくて、早く友美ちゃんを説得して帰りたかった私は、「そういう話って都市伝説なのかもね」と返事した。
 その直後に、小洒落たおじさんに声をかけられた。私だけが。
 そのあと、友美ちゃんは見たこともないくらい激しく怒って、言葉の限りに私を罵った。
「いっつも香奈ばっかり」「あたしのほうが頑張ってる」「香奈は生まれ持って可愛いだけで努力なんかしたことないくせに」「香奈はズルイ」「ひとりじゃ何もできないくせに」「可愛いだけで良いところなんかない」
 覚えているのはそれくらいだけど、いつも明るく笑っている友美ちゃんの中にそんな感情が渦巻いていたことが怖かった。
 友達だと思っていたのに、私は友美ちゃんのことを何も知らなかったのだと、自分で自分にがっかりした。
「可愛いから仲良くしてただけで、本当はあんたのこと大っ嫌い」
 この言葉が、一番堪えた。

 友美ちゃんにどんな言葉を返せばいいかわからなくて、そのあと何も言葉を交わさずに別々に帰った。
 それ以来、友美ちゃんとは話していない。

「友達って、お人形さんじゃないのにね……顔で選んで欲しくないって思うの、当たり前じゃんね」
 入学初日のことを思い出したのか、聞き終わって杏は長い溜息のあとにそう言った。
 言葉は多くなかったけれど、そのときの表情が、声の調子が、すごく思いやりに溢れていて、杏のことがとても好きになった。
 女の子特有の、過剰な共感も同情もなくて、ただ私を思いやってくれているのがわかったから。
 そのことがきっかけで、杏とはずっと仲良しでいたいなって思った。
 いろんなことを話して、いろんなことをわかりあって、ちゃんと友達になりたいと思った。
 だから、杏に嫌われたり杏を傷つけたりすることは絶対にしたくないって思っている。

 だけど、人間関係にはいろいろと面倒なことが付きまとう。

 男女四五人のグループを作って課題をすることになって、そのグループに小林くんという男子が入ってきた。
 グループに入るときも杏に声をかけていたし、そのあともずっと杏を見ていたから、てっきり二人は友達なんだと思っていた。
 でも、小林くんの話題になると杏は可愛らしい顔を歪めて怒るし、友達なのかと訊ねたらちょっぴり切なそうな顔をしたから、何となく杏の気持ちがわかった。
 きっと、杏にとって小林くんの存在はデリケートな問題で、そう簡単に触れていい話題じゃないんだって。
 だから私は、杏から話してくれるまで小林くんのことには触れないでおこうと思っていた。
 それなのに今、面倒事のほうから飛び込んで来られて、どうしていいかわからなくなっている。


「新田さん、中谷から何か俺のこと聞いてない?」
 課題のグループが決まった日の夜、小林くんからメッセージが届いた。
 グループのメンバー全員と連絡先の交換をしたけれど、まさか個人的なやりとりをするなんて思っていなかったから驚いた。
 何て返そうかと考えていたら、続けざまに杏のことを尋ねる文面のメッセージが届いて、杏が小林くんのことを「空気読めない」と言っていた理由が少しわかった気がする。
「気になるなら自分で聞いてください」
 そのときは、杏の小林くんへの気持ちがわからなかったから、そう返した。
 それなのに、空気読めない小林くんは、その日以来しょっちゅう声をかけてくるようになった。
 しかも杏が私のそばにいない、絶妙なタイミングで。
 でも一度、廊下で小林くんに声をかけられているのを杏に見られたことがあって、そのとき杏はすごく淋そうな顔をした。
 怒ってるとか悲しいとかじゃなくて、はっきりと、淋しいって顔をした。
 その顔を見て、私は悟った。
 そして、杏にそんな顔をさせる小林くんにムカついた。
 幼なじみで、ずっと仲がよかったはずなのに高校に入ってから避けられている気がするーー小林くんはそう言って杏の気持ちや動向を探ろうとしてくるけれど、それは違うでしょって思う。
 杏しか答えを知らないことだし、そうやって杏にこだわるなら誠意を見せなきゃダメでしょって。



「新田さん! 今日は逃げないで!」
 部活が終わって帰ろうとしていたところに、小林くんが走ってきた。
 杏はコンタクトの調子が悪いから眼科に行くと言って、今日は部活には参加していない。
 杏の淋しそうな顔を見た日から、小林くんを避けていた。避ける私に無理やり話しかけようとするから、小林くんは私のことを好きなんだと、同じクラスの男子に冷やかされていた。そういうの、本当に辞めて欲しい。
「杏のことなら、杏に聞けばいいでしょ」
 通せんぼをされてしまったから、仕方なしに言葉を紡ぐ。こんなところをまた誰かに見られたらと思うと気が気じゃないのに、日に焼けた背の高い身体で昇降口への連絡通路を塞がれているから、動くに動けない。
「……ろくにメールも返してくれないんだよ」
「じゃあ直接話しかけたらいいじゃない」
「それすら避けられる。どうしたらいいかわからない」
 夕方の空を背にして、小林くんは必死の形相をしている。
 その顔を、杏にも見せたらいいのに、と思ってしまう。
「こういうところ、杏に知られて嫌な思いさせたくない。嫌われたくない」
「嫌な思いって? 嫌われるって?」
「……女の子っていろいろ複雑でバランスとるの難しいの!」
「中谷はそんな、意地悪でややこしい女じゃないぞ!」
 好きな女の子の悪口を言われたと解釈したらしい小林くんは、途端に怒りだす。
 だから、そういうのも含めて、全部全部ちゃんと杏にぶつけなよーーそう思って、私も腹が立ってくる。
「そんなに杏のことわかってるなら、気持ちくらい自分で確かめてよ!」
 ドンと体当たりをして、小林くんがよろけた隙に駆け出した。「ちょっと! 待って!」そんな声が聞こえたけれど、待たないし、振り返らない。

 杏と小林くんの間に何があったかも、杏が何に傷ついているかもわからないけれど、早く、全部、うまくいけばいいって思う。
 ーー杏は良い子で大好きだけど、男の趣味は悪いなぁ。
 まだ恋をしたことがないけれど、そんなことを思ってしまう。

猫屋ちゃき
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猫屋ちゃき

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