「うさぎにおまんまをやるのを忘れちまっただろか?」
 茶の間でうとうとしていた母が、僕にそう尋ねた。

 「ウサギって、あの耳が長くてピョンピョン跳ねる兎のこと? 
 うちにはもう、兎はいないよ」

 僕は答えた。母は今年で96歳になる。
 痴呆も進んでいて、時々おかしなことを言う。

 こんなふうに昼寝して起きたあとは、
 今の季節どころか、昼か夜かさえ判らなくなることも多かった。
 きっと昔の夢を見たのだろう。

「うちで兎を飼ってたのは、僕が子供の頃だったろう? 今はもういないよ」

 そう僕が言うと、母はどこか納得できないように、
「自分ばっかりご飯を食べて」とか、
「可哀想なことをしてしまった」とかいうことを、口の中で小さく繰り返した。

 僕が子供の頃、それは戦争も終わってしばらくたった時代だった。

 食用で飼っていたからか、母は僕に兎の世話をさせることはなかった。
 きっと食べるために屠られる動物に対して、
 あまり愛着や同情心を植え付けたくなかったのだろう。

 僕の役目は、もっぱら山から餌用の草を集めてくるくらいだった。

「ウサギがいるの?」

 いつの間にか僕の足に、孫がまとわりついて目を輝かせていた。
 彼は動物が好きだ。幼稚園で飼育している動物や鳥の話をよく聞かせてくれる。

 こんな田舎の山奥だが、近頃では野生の兎なんてそう見られるものではない。

「いいや、おじいちゃんの子供の頃のお話だよ。今は小屋が残ってるだけ」

 僕は彼の頭をそっと撫ぜながら、笑って答えた。

 家から畑に向かう途中の裏山の手前に、木造の小さな牛小屋がある。
 そこの端っこに手前だけ金網でこしらえた、
 兎や鶏飼育用の小部屋がついている。

 僕が大人になる頃には牛や兎はもう飼っていなかった。
 今は使わなくなった食器や、家財道具が押し込んである。

 孫は「ふーん」とつまらなそうに部屋から出て行った。
 彼の夏休みは始まったばかりだ。

 また庭や畑やそのあたりの野原へ冒険にでも行くのだろう。
 心配しなくとも、近所のみんなが彼を見守ってくれる。良い時代だ。



 「どこで子供が泣いているんだろっか?」

 夏の深夜、母が僕を起こしてそう言った。

 孫は娘たち夫婦といっしょに寝ているはずだ。
 泣き声など、どこからも聞こえてこない。

「きっとまた夢を見たんだよ」僕は答えながら、
 母の寝室まで付き添って寝かしつけた。

 ことんと眠ってしまう直前まで、
 母は「赤ん坊が泣いている」と目に涙を浮かべて訴えていた。

 きっとその思い出の中の赤ん坊は僕のことだろう。
 僕は一人っ子だったからだ。
 だが一人っ子なのは僕だけではない。
 僕ら世代の人間はみんな、兄弟姉妹はいないはずだ。


 あの戦争は、人類全体の数が増えすぎて起こったと言われている。

 終戦後、世界的に平和条約が締結したあと、
 どの国でも『人類が一定の人口数に減少するまで、
 一人の人間が持てる子供は一子のみ』
 という法律が制定されたのだ。

 それはもう、国と国というレベルではなく、
 地球規模で人類が殺し合って食物や居住地を奪い合うか、
 譲歩して人口を減らしあい、
 種全体が生き延びるかを選ぶという問題だった。

 あの第三次世界大戦という、
 種の存在も危うくなるほどの醜い争いから、ようやく人類は学んだのだ。

 地球上には一定数の、
 そして平和に生きられる人間以外はいらないのだと。
 ある意味で人類は進化できたのかもしれない。

 そうして今では産まれた子供は一人残らず、
 まさに宝物のように大切に育てられている。

 もちろん捨て子などはおらず、
 子供の産まれない家族も肩身の狭い思いをすることはない。

 誰かの子供はみんなの子供であり、
 その子は地域全体、いや国、地球全体で守る対象なのだ。

 今、この時代にはもう、
 心から愛されずに育った子供など、世界に一人もいない。


 ただし、それは法的に正しい子供たちだけだ。

 法を犯してまで『二人目』を出産する夫婦はほとんどいないが、
 万が一産まれてしまった場合は国に没収され、医療等の目的に使用される。

 法律が社会に浸透するまでの間は、隠し子などもあったらしいが……
 その子は隠語で呼ばれていたらしい。それは例えば多産の動物の名などで……。


「おじいちゃん、ウサギ小屋に穴がある!」 
 突然、庭から興奮した孫の叫び声が聞こえてきた。

 孫に連れられて行ってみると、小屋の山側の板が外れていた。
 そこには山の中ほどまで続くであろう洞穴が口を開けていた。

 僕は遠い昔、牛の声に混じって聴いた気がする、
 赤ん坊の声を思い出していた。



 〈了〉

樹樹
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