僕は光《ひかり》さんが本当は優しい人だということを知っている。    

 最初に会社の外で彼女を見たのは、東京のある大きな駅でのことだった。
 通勤途中で乗り換える人の多いその駅では、
 その日の朝も皆、自分が乗る電車のホームに急いでいた。

 その駅の壁際に一人、苦しそうにうずくまっているホームレスの男性がいた。
 悲しいことだがそう珍しいことではない。

 誰もが見て見ぬふりをするか、駅員がなんとかしてくれるだろうと、
 ちらりと横目で確認はするものの、足早に通り過ぎていった。
 
 かくいう僕もその一人だった。

 その日は遅刻しそうだったのもあり、正直に言えば関わるのが怖かったのだ。

 もし病気でもなんでもなく、
 親切心を出したばかりに因縁でもつけられたら厄介だ。
 もし本当に酷い病気なら、誰かが救急車を呼んでくれるだろう。
 
 そう思いながら通りすぎようとした時、
 人の群れの中から光さんが飛び出してきた。
 
 光さんは迷うことなく男性のそばに膝をつくと、
 覗き込むように容態を確認し、電話をかけはじめた。

 たぶん救急車を呼んだのだろう。
 その姿は一瞬、神々しいほど美しく見え、僕は思わず立ち尽くしていた。
 
 だがそれも後ろを歩く人たちに押しやられるまでのことだった。
 我に返った僕は、乗り継ぎの電車へと向かってその場を立ち去った。
 

 会社へ着くと、僕はさっそく同僚たちにその話をした。
 するとみんな信じられないといった顔で一笑に付した。

 無理もない、影野光さんのあだ名は『影子さん』。

 ものすごい美人なのだが、ほとんど笑わず、
 仕事の要件以外は誰とも何も話さない。
 見た目は綺麗だが、心は冷たい人だというのが僕ら同期の間での常識だった。
 

 その日だいぶ遅れて出社することになった彼女は、
 いつもどおりクールな様子で、遅刻の理由を上司にのみ淡々と述べていた。
 
 これもよくある話かもしれないが、
 このギャップのある彼女に僕は恋をしてしまった。
 

 僕は影子さん、いや光さんに猛アタックを開始した。
 最初はもちろん、まったくと言っていいほど相手にされなかった。
 
 昼飯時に話しかけてみたり、帰りの電車の方向も同じなのだからと
 会社終わりに飲みに行きませんか、 と誘ってみたのだが、すげなく断られた。

 姿勢正しく真っ直ぐ前を向いたまま、表情を全く変えずに
「他人に関わりたくないの」との一点張りだった。

 ちらりとこちらを見ることも稀なほどだ。正直、何度か挫けそうになった。
 

 それでも諦めなければ縁はできるものなのか、
 帰り道や街中で彼女を見かけることも増えてきた。
 こっそりと観察していると、彼女はやはり優しい人だという確信に行き着いた。
 

 ある時は偶然居合わせた交通事故現場で運ばれる
 被害者の救急車にまで付き添い、
 またある時は夜の繁華街で酔いつぶれた女性を介抱していたりと、
 僕が彼女を見かける時は、とにかく献身的に人を救っていることが多かった。

 日の光や街灯の下に輝く美しく長い黒髪。
 それが地面につくのも厭わず他人を救おうとしている姿は、
 まさに天使のようだった。
 

 僕はますます彼女に夢中になった。
 他人に関わりたくないなんて言っておきながら、
 困っている人を見捨てられない、奥ゆかしい彼女の役にも立ちたかった。

 僕はその事も彼女に伝えることにした。
 僕だけは彼女の本当の姿を知っている、隠さないで欲しいと。
 

 そんな風に彼女にアプローチをはじめてから3ヶ月ほどたった頃、
 彼女の様子が目に見えて変化した。

 一緒に夕食を食べたり、時々は飲みに付き合ってくれるようにもなった。
 ようやく僕の気持ちが彼女に届いたのかもしれない。
 二人だけの時、彼女は優しかった。
 
 ある夜の食事中、僕はなぜ赤の他人にそんなに優しいのかと訪ねてみた。
 すると彼女は、少し戸惑って、うつ向きながらこう答えた。
 
「……誰にでも優しいわけじゃないわ」
  ただ、と僕の手のグラスを見ながら続けた。
 
「これから死んでしまう人には、優しくしようと決めているの」
 
 僕は最初、怪我や病気をしている人に対して、
 という意味で言っているのかと思った。
 だが彼女によると、そうではないらしい。
 

 彼女は幼い頃から、まもなく死ぬ人間が判別できたらしい。
 これから亡くなる人間の”影”が、彼女の目には映らないというのだ。


「だから、あまり人と関わらないようにしているの。
 親しい人の死は知りたくないから」

 そう言って彼女は席を立った。
 
 僕は彼女に、なぜ僕に優しくしてくれるようになったのか、
 どうしても聞く勇気が持てなかった。            


 〈了〉


樹樹
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