黒塗りの車を降りると、目の前に伸びるのは舗装のされていない田舎道だった。対向線の代わりとばかり道の真ん中に草が生え、道の脇には零れたのだろうか牛糞の黒い肥料が散らばっており、鼻をつく臭いを漂わせている。
(こんなところで、あいつは最期を迎えたのか……)
寂しさに胸が詰まりそうな気持ちを殺し、一歩を踏み出そうとすると、すかさずSPが私の周りを囲んだ。
「会長、本当にご一緒しなくてよろしいのですか?」
「何度も言わせるな。これから先は私一人で行く」
「ですが……」
「私はも老い先短い爺だ、もし何かあったとしても構うことはないだろう。むしろ息子は喜ぶかもしれんぞ」
長年対立する私の息子は、早く私の運営するホールディングの完全な経営権を得たいだろう。なおも食い下がろうとするSPを押しのけ、田舎道を歩きだした。
50mほど進み、大きな柿の木を過ぎると一軒のあばら家が見えてきた。しかしそれは、惨めな、余りに惨めな小家だった。
曇りガラスのはまった扉の前で立ち止まって目を閉じ、深呼吸をする。頭の中に浮かんだのは一人の友人だった男の顔。
覚悟を決めてから扉を叩く。がしゃがしゃと耳障りな音が響き、やがて出てきたのは一人の老婆だった。
彼女は私を見て、軽く目を見張って言った。
「何をしに来られたのですか?」
「……古い友人の遺影に会いに来ました」
彼女は唇を震わせ、ゆっくりと目を伏せて、沈黙した。囀る雀の声と、小川の音だけが響いていた。
そんな時間がどれほど続いただろうか、彼女は踵を返した。
「……あの人も喜ぶでしょう」
私はその言葉を了承と受け取り、家に上がりこんだ。
家は外観よりもさらに質素だった。床は板張りで、しかも廃材を利用したようで凹凸が激しい。端に置かれた衣装箪笥や家の中央に位置する囲炉裏に置かれた調理器具は手作りのような簡素な造りだった。
しかし私はそこに触れず、家の一番奥にある仏壇までまっすぐ向かった。
そこに飾られているのは黒い額に収められた一枚の男性の写真。
私はこの男を知っている。この男の名は武藤茂文(むとうしげふみ)、私の親友だった男だ。
武藤茂文との出会いは大学だった。たまたま大学最初の授業のとき席が隣で、プレゼンのチームを組んだことから意気投合した。すぐに親友とまで思えるようになり、気が付いた時には一歳年上の彼を茂文と呼び捨てにしていた。
サークルも同じビジネスサークルに所属し、3年間ビジネスの意味、イノベーションの発想、流通システムの構築に切磋琢磨し、プレゼンの世界大会まで出場した。
しかし四回生となり、就職活動を経験し、茂文の内定した会社を知って愕然とした。
同市場で戦う、ライバル企業だったのだ。
当然会社に入れば、社外秘の機密事項を扱うこととなるが、私たちの業界は情報が命で、連絡を取り合い、二人で食事に行くだけで情報漏えいを疑われかねないほどに神経質だったのだ。
私は悩んだ。このまま就職することは友情を捨てることとなる。しかしこの業界は私の長年望んでいた業界で、倍率も非常に高い。この内定を捨て、茂文の会社にもう一度挑んだとしても通る可能性は高くない。
おそらく茂文もこのことに悩んでいたのだろう。私たちは気まずくなり、会わなくなっていった。
それから三か月ほどが経った頃、茂文は夜の海岸に私を呼び出した。
私にはこれで会うのが最後となるような恐怖があった。
星の綺麗な砂浜を歩いていくと、波が来るか来ないかの瀬戸際で茂文は立っていた。
茂文は私に言った。
「お互いこのまま就職しよう。これまで俺たちは切磋琢磨してここまで来たんだ。だから次はお互いの会社で努力して上に行き、トップに立ってもう一度戦おう。一切手を抜くなよ、抜いたらお前の会社を潰すぜ」
覚悟を先に決めた決めた茂文を羨むとともに、私もこの言葉を契機として、覚悟を決めた。会うことだけが友情ではない。言葉を交わすことだけが友情ではない。会社としてビジネスで戦っていく……これこそが私たちの、これからの友情なのだ。
そうして私たちはお互い就職した。5年はお互い下積み時代だった。地獄のほうがましだと思えるような時代だった。
30を迎えるころ、会社内に希代のビジネスマンとして茂文の噂を聞くようになった。私はうれしく思うと同時に焦り、さらに努力した。
そして気づいた時には私たちはお互いの会社の重役となり、いつの間にか社長となっていた。
この時点では茂文の会社と、私の会社の規模も、業態も、社員の質も、経営手腕もほぼ均衡していた。
しかし、私が雇った新人の進めた新しい分野が成功したのがきっかけだった。私の会社が資金力で勝り、積極的な設備投資を行ったことで、これまで競っていた業界に革命を起こすことに成功した。
茂文の会社も努力した。一年後には私の会社が作り上げた製品と同じだけの製品を作り上げた。だが、それは昨年の追いついたに過ぎず、それ以後私の会社は常に先を進み続けた。
茂文の会社は緩やかに下降線を辿った。社員をリストラしない茂文の信条もあだとなっていたようだった。
私の会社では何度か茂文の会社のM&A(企業買収)の声が上がったが、そのすべてに私は取り合わなかった。
「茂文はそれを望まない。彼はまだ諦めていないのだ」
私は一切手を抜かず、最高のサービスを提供して無慈悲に彼の顧客を奪っていった。
そしてある日……茂文の会社は倒産した。こうなることが分かっていた私は速やかに茂文の会社の社員、工場をを手中に収めたが、多額の借金を抱えて姿を消した茂文だけは連絡を取れなかった。
それから十年、こんな山奥で最期を迎えていたとはな……。
目を開けてもう一度、安い作業服に身を包んだ一人の男の写真を眺める。しわの深く刻まれた顔を見て……私は口の端が挙がるのを堪えるのに必死になっていた。
(まだ野心の炎をともした目をしてやがる)
茂文はこんなあばら家でこんな目をしていたのか。まだ私と戦うつもりだったのか。一枚手紙を送れば、今やホールディングにまで成長した我が牙城の重役となれたのに。
私は立ち上がり、私の背中を見つめていたと思われる彼女に深く頭を下げた。彼女は茂文の妻……武藤彰子。武藤夫人は下積み時代からずっと茂文を支え続けた。
「頭を上げください」
武藤夫人は落ち着いた声でそう言った。私が武藤夫人と再び視線を合わせた。
パァン!!
気付いた時には右頬に灼熱の痛みに襲われていた。ビンタをされたのだ。
「勘違いしないでください。あの人の苦難についてあなたを責めているのではありません」
武藤夫人はため息をついていった。
「あの人もあなたも頑固すぎるんですよ。友情だか何だかで、半世紀も意地を張っちゃって……。これはあの人にもした、お説教です」
「すみません……」
「あの人の遺影の写真は亡くなるほんの少し前のです。でも、全然諦めてないでしょう?」
「はい。全く……」
「これ、見てください」
衣装箪笥から取り出され、差し出されたのは一冊のノート。捲るとそこには私のホールディングや関連会社の新聞記事の切り抜きが張られていた。それが全てのページう埋め尽くしている。
「これが何十冊とあるんです」
私は衣装箪笥を眺めた。あの中に入っていたのは服だけではなかったのか。ここまでやられると、あっぱれだよ。
「でもあなたも野心が消えてませんね」
「え……?」
「あの人と同じ目をしてますよ。最初に見た時、あの人が帰ってきたのかと思いました」
それで、会った時に震えていたのか。もしかしたら来た目的を尋ねたのは謝罪目的なら張り倒すつもりだったのかもしれない。
「確かに、私は野心を忘れてませんよ。茂文から受け継いだ会社もありますし、彼岸に行ったときに自慢してやりたいですから」
「あの人は彼岸で成功を収めているかもしれませんよ。でもよかった」
「何がです?」
「こちらに来てください」
彼女は外に出て歩きはじめる。私も何が何だかわからないがついていく。しばらく藪の中を進み、沢を越えていい加減スーツが汚れてきたころ、いきなり視界が晴れた。
「これは……小麦ですか」
一面に広がる小麦色の絨毯。ちょうど収穫時のようで、実ははち切れんばかりに膨らんでいた。しかし不思議なことに一切虫食いが見当たらず、雑草も生えていなかった。
「これはあの人が品種改良したんです。どんな環境でも負けない麦を目指していました」
「すごい、虫に雑草につよいなんて……」
私はただただ驚嘆した。これほど虫・雑草に強い小麦を育てるなんて……。
「あ、それだけじゃないですよ」
武藤夫人は先ほどの沢で竹で作られた水筒に<r汲:く>まれた水を小麦に掛けた。
「お、奥さん何しているんですか!?」
麦全般は水をかぶると出芽する性質を持っている。しかし出芽すると中のでんぷんを使ってしまうため商品価値が無くなる。それが刈取りの時期に梅雨前線が通る本州で、麦の栽培が難しい理由だ。また、梅雨がない北海道では麦の栽培が盛んなのだ。
「この小麦は水に対する耐性を身に着けさせていて、通常の雨では発芽しにくくなっています。これくらいは大丈夫ですよ」
私は唇が震えながら、うめくように言った。
「雑草にも虫にも、そして雨にも強い小麦……これは農業を変えそうですね」
自然から人間に守られる麦ではなく、自然に立ち向かう麦……、彼女は深く頷いた。
「はい、本来はもう少し小さな畑だったんですが小麦が領地を拡大させているんです。この小麦を全てあなたに譲渡したいと考えています」
「ちょ……奥さん、あなた一体何を言っているのか分かっていますか?! これは茂文の闘い続けた証なんですよ!!」
「……私ももう歳です、この小麦の頒布するだけの体力はありません。それに、今この瞬間でも飢餓で死んでいく人がいます。あなたの会社の力は信頼しています」
私は深く頭を下げた。
「私の全てを賭け、この茂文の戦いの証を世界に広めます」
武藤夫人は私に目もくれず小麦畑を見つめ続けていた。私も続いて小麦畑を眺めた。
金色の小麦畑が風にたなびいて揺れている。ここに武藤重文という男の人生を見た気がした。
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