今日も学校の屋上で一人、ボーっと空を見上げる。
目の先には雲がゆらりと流れていて、風が穏やかな事を僕に伝えていた。
青々とした空と白い雲は、いつだって僕を心地よい時間に誘ってくれる。

そうだ。ルートヴィッヒ・フォン・ベートーヴェンの田園を聴いているかのような。
田舎での生活の思い出を描写したと評されている作品は、Yの心を穏やかな空間へ運んでいった。

今日はいつまでここにいれるだろうか。時間を任せられるくらいここに居たい‥。
そうYはふと思った。

高校2年生の僕は、再来年に控えている進路について悩んでいた。

Yはいつだってそうだった。あまり考えが深いとはいえない同級生と違い、いつも何かに難癖つけては考えることを辞めない、自分が納得しなければ行動にうつせない性格だった。

自分が自分でいられる時間が、刻一刻と過ぎていく。

終わりはすぐそこだ。

「おい、お前またここにいたのか。」

声の方に目をやると、同じクラスのFが突っ立っていた。
今階段を必死で走ってあがってきたのか、野球部で鍛えた大きな身体を汗で上気させていた。

「次の時間に遅れるぞ。」
「はいはい。」
「お前のために、わざわざ急いで来てやったのにその態度は何だよ。」
「まったくこれだからFは困るんだよな。僕のために思ってやってくれたと考えているようだけど、果たしてそれは本当にそうなのかな。他人がその人のためと考えていることが当てはまることの方が少ないと思うけど。」
「はじまったよ。いつだってお前は御託を並べたがるな。まぁいい。そんなことより、次は進路調査の時間だ。出席しないと退学になるぞ。」

そうFは言い放つと、屋上から踵を返して階段をゆっくりと下りていった。
学校のチャイムがなっていた。それと同時に、全校生徒へのアナウンスがなされているようだった。

いよいよだな‥。Yはそう思うと重たい腰をあげて、大きな後ろ姿のFにひきずられるようにしてついていった。

階段を下りると、そこには長い廊下が目の前に広がっていた。
横の窓に目をやると先ほどまで眺めていた雲がたち消えていた。校庭の芝生がある場所を見下ろすと、校庭にいる一匹の黒猫がゴマのように小さく目に映った。

校内では、アナウンスが繰り返し繰り返し放送されていた。男性なのか女性なのかわからないような声色をしていた。

「本日の5限目は進路調査です。本調査は全校生徒を対象としており、国から定められた義務となっています。始業までに速やかに教室に戻るようただちにーー‥‥。」

Yは2-Bのドアをガラガラと開けて教室の中に入っていった。











「あらぁ、知らなかったわぁ。」

ここは銀座イーストの一角にあるキャバクラだ。まだ19時前だというのに、店内は人でごった返していた。見渡せば明らかに成金の身なりの親父や、連日の仕事でくたびれた男が欲にまみれた女たちと楽しげにしゃべっていた。

目の前には、年代物のスコッチがボトルで置かれていた。
この異様な雰囲気に酔ってしまったのか、少し目眩がしてきた。コースターの上のグラスが汗をかいて、丸氷がカランと鳴いた。

「何を見渡しているのかしら。わたしじゃあなくて周りの方が気になるのぉ?」

横にいる女は艶かしい声で話しかけてきた。

「お酒がもうカラね。新しいボトルはどうする?」
「何だか今日は疲れた。元気そうで何より。久しぶりに会えて良かった。それじゃあ、また。」

「あらぁ、残念ね。またいつでもいらしてね。」

そう女は言うと、両指をクロスさせてお会計をボーイにオーダーした。

会計を済ませ店を出て、タクシーに乗りこんだ。

「お客さん、どちらまで?」
「六本木通りから渋谷の方まで向かってください。」
「わかりました。」

タクシーの窓から、夜のネオンがキラキラと眩しく光っている。
夜はこれからなんだろうな。とYはタクシーの中でふと思った。まぁでもしょうがない。
いかんせん、気分が悪くなってしまったのだ。

「運転手さん、窓を開けても良いですか。何だか息苦しくて。」

タクシーの運転手さんが、Yに声をかけてきた。

「お客さん、どうしたんですか。具合でも悪いんですか?」

「いえ、少しお酒の飲み過ぎかもしれません。大丈夫ですよ。」

「そうですか。安心しましたよ。飲めないお酒でも飲んだんですか?」

「いえ、そういうわけでもないんですが‥。久しぶりに高校の同級生と会ったので。私が何者であるかわからなくなってしまったんですよ。」

「それで気分が悪くなったんですね。わかりますよ。最近はそういう人減ってきたようだけど。」

タクシーの運転手も、Yの状態に納得したようだった。タクシーという狭い空間ではあるが、理解ある人間が近くにいるだけでこれだけ癒されるとは。先ほどの息苦しさも、少しは収まってきたな。

「運転手さんも経験があるんですか?」

「ええ。ありますとも。僕は実は女だったんですよ。」

見た目は50歳は過ぎたであろう、白ヒゲを蓄えた男性がそう答えた。
Yは驚くよりも先に息苦しさを覚えた。先ほどまで、落ち着いてきていた症状がまたぶり返してきた。バックミラーに目をやると、タクシーの運転手の寂しげな目と目が合ってしまった。
思わず、Yは吐き気を覚えた。

「うっ、おぇ。」
「吐きそうですか。すみません。驚かせるつもりは無かったんですけど。」

「こちらこそ、す、すみません。まだ慣れていないもので。」

「すごい世の中になりましたよね。性別を変えることが当たり前になるなんて。いつだったか、ある国が男性同士で結婚したのを認めましたよね。その時は、神への冒涜だ!なんて世界は批判したものですよ。いまや懐かしい話ですが。」

Yはその出来事を思い返していた。確か一番始めにデンマークが承認したような。当時の国際新聞記事にその男性二人が笑顔で出ていた。その顔は、まさに田園を聴いているかのように穏やかで達観したような表情をしていた。「俺たちは、世界を変えた。」と言っているような顔でもあった。一つの事例ができると不思議なもので、それまで認可されていなかった国で次々と同性結婚は各国で認められていった。それと同時に世界では性別への壁は取り払われていくことになる。もはや、概念も価値観も男性や女性の偏りといったものは急速に薄れていってしまったのだ。

イクメンと言われる育児をするかっこいい男性を総称してそう呼んでいた時代もあった。
今や社会の管理職の9割以上は女性となった。

「お客さん、そろそろ渋谷ですよ。」

Yは時代を回想していく内に、白ヒゲを蓄えた運転手がこちら振り返って言った。

アパートの玄関をあけて、1ルームの狭い部屋に置いてあるベッドにYは倒れ込んだ。

「何とか家にたどり着いた‥。」

渋谷近くでタクシーから下りた後のことはあまり覚えていない。帰るのに必死だったからだ。
Fと10年ぶりに出会い、完璧な女性になっていたことを考えるとまた吐き気がこみ上げてくる。

野球をしていた逞しい身体はどこにもなく、声色も変わっていた。

当時の政府は、経済力の衰退を食い止めるための労働力を創出する政策を実行していた。
そのためには、国民にできるだけ幅広く職業の選択を与えなければならないと、国の代表者は考えたのだった。一人の人間として、どんな職業が適正なのかを調査するようになっていった。性別を超えてまで。

高校2年のあの時に全校生徒を対象に調べていた調査は、進路ではなくホルモンだった。

身体にあるホルモンは多く存在するが、男性ホルモンや女性ホルモンなどの特有のホルモンを抽出し、
将来的にどちらのほうが社会的に優位になるのかを、分かるようにしていたのだった。

男性が女性の道へ。女性が男性の道へ。このように進路を限定的にするのではなく性別に汎用性を持たせることで、国民に夢や希望を与え、国を見違えるように発展させてきたのだった。

Fはあの当時、150キロを投げる豪腕のピッチャーだった。将来はプロ野球選手と、ドラフト会議にも選ばれる名のしれた高校生だった。高校3年生の夏の甲子園予選で、延長13回まで投げきった肩は悲鳴をあげていた。1ナウト満塁のピンチ、観客が見つめるなかで放った一振りが人生最後の一球になった。

プロ野球選手になれないとわかったFは、連日のようにふさぎこみ夢が断たれたショックから立ち直れず家に閉じこもってしまった。それから数ヶ月が経ってFは定期進路調査で、女性への進路を決断したのだった。

この国では定期進路検査で、性別転換する学生には無償で手術を受けられることになっている。
Fはこうして、銀座で有数の水商売の女となった。


「うっ、おぇぇ。」

Yはあまりの気持ち悪さに、思わず洗面所にかけこんだ。胃袋が逆転するような、何か重い塊を飲み込んだような違和感がYを襲っていた。少しずつ、少しずつ蝕んでいくような不安が息苦しさをよる引き立てていた。

「僕は一体、何者なんだ。」

Yはそう呟いた。

机の上には、Yの進路調査表が置かれていた。

そこにはーーーー。

リネセス
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リネセス

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